【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」後日談

この日、東京の気温は摂氏三十七度にまで達した。ビルのガラスが空に浮かぶ太陽を増幅し、およそ命ある者の営みに適さない過酷な環境を作り上げる。今年も、茹だるような盛夏がやってきた。

祖父がこの世を去ってから、歳月は人を待たず、瞬く間に二年が経った。私はこの都会から逃げるようにして休暇を取り、朝から電車に乗って祖父の墓参りに向かった。

七月の終わりの街は静かだった。
平日の昼の電車は静まり返り、人も疎らな駅前のロータリーにはただ夏の日差しだけが差し込み、どこもかしこも、蝉の音を除いては静寂の中にあった。

霊園に向かう途中、大きな病院を目にした。奇しくもそこは私の生まれた病院でもあり、その近くの霊園に祖父が眠っていると思うと、不思議な気分になった。
二十分ほどバスに揺られ、霊園の入口へとやってきた。このまま真っ直ぐに進めば祖父の墓石だが、私は寄り道をすることにした。

この郊外に広がる霊園の中には、旧陸軍の飛行機が墜落した場所があり、いまその場所には慰霊碑が建っている。
祖父が生前から自分で霊園を探し、入ると決めた墓地がなぜここだったのか。その確実な理由は、親族の誰もが終(つい)ぞ聞くことはできなかったが、恐らくはこの場所にその理由があるであろう。

そのことを知ったのは祖父が亡くなってから一年以上後のことで、一周忌には知らなかったものだから、この度は寄ってみることにしたのだ。

真っ直ぐに伸びた木の前に、立派な石碑が建っていた。事前に調べたところによると、ここは日本の航空史上初めての犠牲者となってしまった二人の中尉が亡くなった場所のようだった。つまり祖父が陸軍士官学校の学生として熊本から出てきた時には、既にこの場所に慰霊碑があったのだろう。

祖父は若き日にここに来たことがあったのだろうか。いずれにしても、大空への夢と、雲染む屍となって旅立っていった仲間たちに想いを馳せ続けた祖父のことだ。この地に何らかの思い入れがあったのは間違いないだろう。手を合わせ、祖父の墓石へ向かった。

手桶と柄杓を借り、墓石を洗い流し、持ってきた花と缶ビールを供えた。汗を拭い、手を合わせて、目を閉じた。

途方もなく、静かだった。

海に行けば海水浴で賑わい、街は夏休みの子どもたちで溢れ、夏祭りが開かれれば浴衣を着た人々が行き交う。しかし、夏の空気はそれら全ての賑やかさを包み込み、懐かしい静けさの中に私たちを連れて行く。

そして、いつしか私を囲む蝉の声までもが夏の中に溶けていく。
私は今、霊園にいるのか、街にいるのか、分からなくなる。
私は今、令和に生きているのか、戦時中に生きているのか、邪馬台国の時代に生きているのか、分からなくなる。

どこからか、サイレンの音が聞こえてくる。それは戦没者の冥福を祈るサイレンの音のように聞こえた。
サイレンに続き、ゼロ戦のプロペラ音が聞こえてくる。聞いたこともないはずのゼロ戦のプロペラ音が、頭上の大空を自由に飛び回る。
そこには永遠の現在があった。

人の生死が絶え間ない円環なのだとしたら、夏の日の静けさは、その真ん中で私たちを見守ってくれているのかも知れない。

そう考えると、この暑さもいくらか心地よいものに感じた。

(おわり)

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