「僕たちは同じひとつの夢を見る」番外SS《映画館の妖精。》
どんなことだって勇気を出して一歩前に進まなくちゃ何も始まりはしないんだ。
貝ノ目遠流は胸の中でそう呟き、泉原さんの方へ文字通り一歩踏み出した。
「あ……あの! 泉原さん……」
「なに。貝ノ目くん」
なんだかもう挫折しそうになる。このあいだ事故的に抱きあってしまう前はもう少し普通に話せたのに。
「その……これから映画を見に行こうと思うんだけど……人形アニメみたいなCGで、すごく評判いいんだって……」
用意してきたフライヤーを素早く取り出す。
泉原さんはくりくりした目でびっくりしたようにフライヤーと遠流を交互に眺めた。
「それって、あたしと……っていうこと?」
「あ……厭だったら別に……!」
「どうせ見ようと思ってたから」
一瞬、それが承諾なのだと分からなかった。
でも、どうやらそうらしい。
「行こ。貝ノ目くん」
たぶん、日本ではこういうのを案ずるより産むが易し、って言うんだと思う。
☆☆☆
研究学園駅近くの総合商業施設『ヨイアスだいば』内のシネコンはスクリーン数が多く、比較的マイナーな映画も上映される。肩を並べるというには微妙な距離を置いて歩く。
唐突に泉原さんが口を開いた。
「……貝ノ目くん」
「な……なに?」
「春子先生は、新しい本を書かないの?」
春子先生というのは、遠流の母の貝ノ目春子のことだ。
母は民俗学者なのだが、父の仕事の都合で各国を転々としていたため大学のポストがない時期が長かった。その間に児童書やファンタジー小説を書き、日本の出版社に送ったものが何本か上梓されたのだ。
寡作だが、根強いファンがいる。
泉原さんもその一人だった。
「分からない。今は地元の大学の非常勤講師の仕事が忙しそうだから……」
「そう……なんだ」
泉原さんはひどくがっかりしたようだった。
しまった、と思った。
なんで気休めでもいいからそのうちまた書くよ、と言わなかったんだろう。母が書くかどうかなんて誰にも分からないんだから。もしかしたら本当に書いたかもしれなかったのに。
「……あたし、いつまでも待ってるからって、春子先生に伝えて」
「あ……ありがとう。母さん、喜ぶよ」
もしかしたら、泉原さんが遠流となんとなく付き合っている(今の状態が付き合っていると言えるならば、だが)のは、貝ノ目春子の息子だからなんじゃないだろうか……。
そのことを、共通の友人の百瀬光太郎に相談したことがある。
百瀬はあっけらかんと言ったのだ。
「何が問題なんだ? 結婚したとき、嫁姑の仲が良いって最高じゃないか」
「けっ、けっ、けっ……!」
遠流は盛大に咽せた。
だいたい、自分は普通の人みたいに結婚なんて出来るんだろうか。百万年経っても無理な気がする。
「……け、結婚なんて考えられないよ。いま泉原さんと付き合ってるって言えるかどうかも分からないし……」
「なんだよ。おまえら付き合ってるんだとばかり思ってたけどな。似合いだし」
百瀬はそう言ったけど、遠流には疑問だった。泉原さんにとって遠流は単に大学が同じバイト仲間なんじゃないか、と。
むしろ、泉原さんはアンリが好きなんじゃないかと思う。
アンリは無責任で、ちゃらんぽらんで、だけど優しくて、美しくて、怠惰で──たいていの場合、居眠りしているかアニメを見ている。自分に超甘いアンリは、その分他人にも優しい。
アンリはよく、おやつ分けてあげるよー、と言う。
この前の《事象》発生時の活躍への特別ボーナスとしてアンリに支給されている『黄金ささみ』はキャットフードなのでみな断るのだが、アンリは心外そうだ。おいしいのにー、と。
誰がそんなアンリを嫌いになれる?
アンリは共生推進課のメンバーみんなに愛されている。アンリは言うなれば人の姿をした猫なのだ。
ときどきは、猫の姿をした人になる。
そして人間の姿のときも、そうじゃないときも、この世のものとは思えないほど美しい。
だから、アンリを見ているときの泉原さんの視線は普段とは違っていて──
「貝ノ目くん。チケット。買わないと」
「あ……」
考え事をしているうちにもうシネコンの入り口まで来てしまっていた。
「あの……学生二枚……」
「お客さま。本日はレディースデイとなっておりますので、彼女の分はレディース割引の方がお得ですよ」
「あ、はい、じゃあそれで……」
──彼女──
顔が赤くなっているのが分かる。
いや、単に女性代名詞三人称単数なんだから……
「あたしの分、いくら安くなったの?」
「ええと、学割より400円安かった」
「じゃ、差額であたしがポップコーン買うから」
泉原さんはさっさと塩キャラメルポップコーンを買い、上映室にむかった。慌てて揺れるポニーテールの後を追う。
「ええと……J列の13……」
泉原さんは既に14番の座席に座っている。
ポップコーンのカップは13番と14番に座席の間の飲み物受けにささっていた。
これって、一緒に食べようということなんだろうか?
常識的に考えればそうだと思うんだけど……いや、本当はポップコーンなんてどうでもよくて、泉原さんがシェアしようとしているのかどうかが問題なんだけど……。
映画が始まったが、スクリーンに集中できなかった。
泉原さんは、どうして一緒に来たんだろう。誘いを断らなかったのは、遠流といるのは厭じゃないと考えていいんだろうか……? いや、バイト先で一緒だから別に気にならないというだけなのかも……。
スクリーンではCGの人形キャラクターたちが大冒険を繰り広げている。
映画館の闇に紛れてこっそり隣の席に目を向けた。
スクリーンの光がちらちら揺れて、こじんまりと纏まった泉原さんの横顔を照らし出す。
生真面目な小動物みたいな──。
「貝ノ目くん」
唐突に名前を呼ばれたので座席の上で跳び上がりそうになった。
「な……なに? 泉原さん……」
「……これ、2D上映だよね?」
泉原さんの視線はまっすぐ正面に向けられたままだ。
「そうだけど……?」
「妖精が飛び出してきてる」
え……?
慌ててスクリーンに目を向ける。
スクリーン投写の光を受けて、背中に翅のある小さな人影が飛んでいた。
十体ほどもいる。
明らかにスクリーンの中じゃなく、座席の上を飛んでいるのだ。
《事象》……! 《事象》発生だ……!
『ヨイアスだいば』はだいば市の結界内にある。
つまり、いつ《事象》が発生して異次元世界と繋がってもおかしくない。
妖精たちは上映室の中を上下左右に素早く飛び回っている。だが、他の観客は気づいていない。
これは自分や泉原さんのように特に敏感な人間にしか《視え》ないレベルの異世界衝突、《通りすがり》だ。あの妖精たちにはまだ実体がない。
だがもし実体化してしまったら彼らは《イミさん》、つまり異世界イミグラントとなって元の世界に帰れなくなる。
そうなったとき彼らを──或いは彼らからだいば市民を──保護するのは共生推進課の仕事だ。
「笠間さんに連絡……!」
「……大丈夫、だと思う。あの子たちは帰れる……」
高らかに音楽が鳴り響いた。映画がクライマックスに入ったのだ。
スクリーンで進行する映画と、その前で飛び回る妖精たちの動きがまるでリンクしているように視える。
妖精たちは飛びながら手を繋いで空中で大きな輪を作った。互いに手を取りあい、金の翅を震わせ高く低く舞う。くるくるとまわる妖精たちの輪舞につれ、身に纏った薄絹が白い波のように長く靡く。
溜め息がでるほど奇麗だ。
ほどなく踊る妖精たちの姿が薄れ始めた。
泉原さんの言った通りだ。《事象》は収束に向かっている。交差した異世界はぶつかることなく無事すり抜けたのだ。
妖精たちの姿が透明になって消えていく。
エンドロール。
それから、辺りがすっかり明るくなるまで二人ともそのまま座っていた。
終ってしまったのが惜しかった。映画よりも《事象》が。
「泉原さん、どうして分かったの……?」
《事象》で現れた異世界人が《通りすがり》で終るか、実体化して《イミさん》になるかどうかはその時になってみないと分からないと言われている。
「……なんとなく」
そうなんだ。なんとなく分かるんだ……。
異世界衝突と《事象》についてはまだ分かっていないことが多い。
泉原さんは鋭い感性を持っているから、何か意識に上らないような些細な違いを視ているのかもしれない。
「……奇麗だったね……」
「……うん」
泉原さんはこっくりと頷いた。
「貝ノ目くんと来て、よかった」
「え……」
心臓がどきんと鳴る。
今のは、どういう意味なんだろう……。
「貝ノ目くん以外の人だったら、いま視たものの話、できないじゃない」
あ。そういう意味か……。
大多数の人間には《通りすがり》の妖精は視えない。だけど共生推進課のスタッフは、みな『視る』体質だ。
「百瀬になら視えたよ」
「だって百瀬くん、こんな映画は観に来ない」
それもそうだ。百瀬はファンタジーとかには興味がない。ユニコーン以外は。
『視る』体質だったのも提波大に来るまで知らなかったから、あの日たまたまユニコーンの群れに遭遇しなければ共生推進課で一緒にバイトすることもなかっただろう。
「これ。持っていって」
泉原さんが何かを遠流に押しつけた。
Jの13番と14番の座席の間にあったポップコーン・カップだ。ぜんぜん減っていないように見える。
「でも泉原さん、食べてないんじゃ……」
「あたし、ポップコーン苦手なんだ。食べて」
え……?
だったらどうして買ったのか、泉原さんに訊こうと思った。だけど、訊けなかった。
「じゃ、また明日」
「あ……うん。明日」
塩キャラメル味のポップコーンは、甘くてしょっぱい味がした。
fin