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インドで考えたイスラム

インドは多様性を持った国であるが、宗教もヒンドゥー教、イスラム教、シーク教やキリスト教など多様な宗教が存在している。80%の国民がヒンドゥー教徒で、イスラム教徒は15%にも満たないが、絶対数ではインドネシア、パキスタンに次いで世界第3のイスラム教徒人口を抱える国である。
デリーにはイスラム教寺院や遺跡が有名なものだけでもいくつか存在する。筆者はイスラム教徒ではないし、研究者でもないが、デリーで感じたイスラムを語ってみたい。

イスラム教

イスラム教は7世紀にムハンマドが聞いた神の声からスタートする。イスラム的には、アッラー(ゴッドと同義)は、預言者を通してメッセージを伝えることになっている。ムハンマドは預言者だ。イエスも同じく預言者。最初のメッセージはユダヤ教になった。Wikipediaによるとユダヤ教の預言者はたくさん。次がイエスがメッセンジャーになったキリスト教。そして満を持して登場したのが、最大にして最後の預言者、ムハンマド。したがって、イスラム的には、イスラム教が最新で優れた宗教ということになっている。ちなみにイスラム教もキリスト教もユダヤ教も同じゴッド/アッラーを信仰している。これが一神教で、ゴッド・アッラーは全知全能で、間違うことはない、完全無欠な存在とされている。細かいことは触れないが、これが我が国の神との大きな違いだ。
イスラム教は平和で寛容な宗教であるという話がある一方、アッラーのほかにアッラーなしというまで戦えという教義がある事実もある。統治者がイスラム教徒の国で、強制的に改宗させられた国は歴史的にないという事実もあれば、教義には異教徒を侮辱し、差別し、敵とみなし、異教徒も異教の象徴も攻撃するように書かれているそうだ。
我が国では、メディアの報道によると、土葬を認めろというイスラム教徒がおり、どこかの自治体で認めたとのこと。笑止千万だ。これを少数意見尊重、マイノリティーを大切に、といる左翼メディアもおめでたい。我が国にいる以上は我が国の法律と慣習、風習に従うべきで、自分たちの価値感を押し通すなど言語道断である。こうしてみるとイスラム教徒は自分勝手な馬鹿者であるという印象も持てる。

イスラム in インド

7世紀にはインドに伝わっていたイスラム教だが、12世紀にはアフガニスタンからイスラム政権が侵略を行い、偶像崇拝を否定することを理由に、仏教寺院を破壊するどころか、僧侶や尼を殺しまくり、仏教を壊滅させている。イスラム専門家は枝葉末節な理屈を挙げて説明するだろうが、明らかな異教徒をターゲットにした殺人集団であり、平和で寛容な宗教からはほど遠いとみるのが自然であろう。13世紀になるとデリー・スルターン朝、16世紀にはムガル帝国というイスラム支配がインドでは続くことになる。

デリーにはイスラムを象徴する場所が筆者が知っているだけでもいくつかある。

奴隷王朝:クトゥブミナール Qutub Minar

13世紀にクトゥブッディーン・アイバクによって建てられた、クトゥブ・モスクに付属するヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在したミナレット(権威を象徴する塔)。北インドを制圧した記念に建立され、国内のヒンドゥー教徒たちに対するイスラム勢力誇示という意味合いが強かったとのこと。破壊したヒンドゥー寺院の石材を再利用したため、偶像崇拝を認めないイスラムなのに、回廊の柱には女神像が残る。ここからイスラムの寛容性も平和志向も想像できない。

クトゥブ・ミナール

デリー南部にあり、メトロの駅からは離れているので、オートリキシャで行く。外国人料金は600ルピーでインド人の10倍かそれ以上。ミナレットも建物も綺麗で、筆者は2022年の7月に行ったが、炎天下にもかかわらず小一時間過ごした。イスラム支配の夢のあとではあるが、70mを超える塔を建造し、力を誇示した場所は、いまは職にあぶれたガイドが日本語で声をかけまくる場所だ。そして、そのインド人は、無視しても構わず話かけつづける。

ムガル帝国:フマユーン廟

ムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの遺体が眠る霊廟。王妃ハージ・ベグムが建てた。典型的な庭園霊廟で、庭園も建物も左右対称の「庭園の中の廟」といわれ、四面どこから見ても同じ外観をしている、インド初のムガル様式の霊廟である。タージマハルの100年前に建てられている。

フマユーン廟

タージマハルはデリーから離れているので、旅行目的でないといけないが、フマユーン廟は仕事のついでに立ち寄ることができる。筆者が訪れたときには、ちょうど当時の防衛大臣が来ていた。車では入れないところに車列が来ていて、見ると日本人。見たことある顔だなと思ったら、当時の防衛大臣だった。

防衛大臣ご一行(の様子だったと思う)

ムガル帝国は16世紀から300年つづいたイスラム国家である。1526年にバーブルが建国し、第3代皇帝アクバルのときが最盛期。ヒンドゥー教と共存する政策が実行されていたが、官僚に与える土地がなくなり、ヒンドゥー教徒を弾圧した第6代アウラングゼーブの時代に衰退し、18世紀にはイギリス東インド会社の進出をゆるしてしまう。1857年に東インド会社の傭兵が起こしたインド大反乱で、ムガル帝国皇帝が担ぎ出されたが、あえなくイギリス軍に鎮圧され、終了。その後はインド帝国としてイギリスの植民地となる。
弾圧すると国が滅びるのは歴史が語るところである。支那と北朝鮮の運命も見えているのではないかと思う。

ムガル帝国:ラールキラー

インドのイスラム建築といえば、アグラのタージマハルが有名である。タージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルのため建設した。
ラールキラーは、そのシャー・ジャハーンが、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバードにおける居城として築いた。城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。
インド大反乱のとき、イギリスは軍の駐屯地として接収し、城内は大きく造り替えられた。インドの独立後も、近年まで軍の施設として使用されていた。
外観は赤い壁であるが、内部に入ると広い庭の中に建物が散在する。緑の芝生はきれいで、建築物のデザインも良い。あまり暑くなく、気持ちのよい日には一日過ごすには良いところだ。イスラムを感じるところはなく、インドに自然に同化している。
ここを訪れる機会があったら、壮観なのは入場するまえの赤い壁であることを忘れてはならない。写真はそこでとるべきだ。他の場所と同様、インド人の10倍以上の入場料を取られ、入ってみると、そこにいい感じの庭が広がっており、迫力はない。

ラールキラー内側

シャー・ジャハーンの息子が、アウラングゼーブである。ヒンドゥー教徒との融和策を放棄し、地方の反乱が起こる。その死後、帝国の衰退が始まる。

現代:ジャーマーマスジド

現代において、イスラム教徒はメジャーではないが、以前多くの信者がいる。
ジャーマーマスジドは、インド最大のイスラム寺院で、門をくぐると屋外なのに、土足厳禁。雨でも靴を脱がないといけない。筆者は運悪く、雨があがった直後に行った。靴も靴下も脱ぎ、中に入り、お祈り。イスラムのためではもちろんない。自分のために。その後、足びちょびちょのまま靴下履いて、靴はいてでた。
思い返すと、ムンバイのハジアリ、ジャカルタのイスティクラルでも屋外なのに靴脱げと言われた気もする。宗教はかわるが、バンコクの寺もそうだった。

ジャーマーマスジドでは雨でも下足

イスラムは、インドを支配し、その後陥落したが、存在しつづけている。イスラムの行動や思考は筆者には意味不明であるが、中東のみならず、マレーシアにもインドネシアにも、インドでも億単位の信者がいる。機会があったら何にひかれているのか聞いてみたい。

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