見出し画像

天才と変態~宇多田ヒカルライブ配信~

 先日、宇多田ヒカルの配信ライブ “Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios”を観た。すごかった。音の良さももちろん、彼女の音楽性の真価と進化と深化が感じられた。コロナ禍に数々の配信ライブを観てきたけれど、もっとも価値を感じた最高のライブだった。

 彼女のデビュー曲から衝撃を受けてから20年あまり、コアなファンではなかったものの、近年のシンプルでいてよく練られた楽曲の数々には驚かされる。天賦の才というのは本当にあるんだな、とライブを観ながら何度も思った。彼女のデビュー以降も何人か「この人、天才やな」と思うアーティストはいたけれど、彼らをも圧倒する何かが宇多田ヒカルにはある。

 同時に、彼女が音楽そのものにとても真摯に向き合っている、その深度にも驚かされたし、こころを動かされた。誰かが何かに真摯に向き合っている姿は、それを見ている者に深い感動を与える。音楽であれ、スポーツであれ、絵画であれ、芝居であれ。

 彼女の音楽に対する姿勢は嗜好を超え、愛をも超え、祈りに近い真摯さを感じさせる。若い頃からもともとこういう音楽を作りたいとか、こういうところを目指していたのではないかとか、そういうことさえ感じさせるライブだった。かといって、売れ線から大きく外れることもない。

 そう彼女の祈りに近い音楽はけっして自己満足ではなく、多くの人のところに届く。
 

 デビュー以降“素通りできない音楽”を提供してきた彼女が“見出されるべくして見出された存在”へと進化しているさまに立ち会えたことにも感動した。

 時折、他のアーティストの音楽を聴いて、その独自性ゆえに“変態やな”と笑ってしまうことがある。もちろん、この笑いは嗤いではなく、とんでもなくおいしい食べ物や予想外の味のするものに出会った時、思わず笑ってしまうという、あのいい意味での笑いなのだけれど、それは作り手の(ある意味、やり過ぎな)意図や作為を感じ取って笑う感じだ。分かる人には分かるでしょ、的な隠し味を感じ取って笑う。こういった仕事ぶりには天才というよりも変態の称号が似合う。
 どちらも最高という意味で天才と変態は似ているけれど、宇多田ヒカルはやっぱり天才だと思う。その才能を余すことなく発揮したのが、今回の配信ライブだった。画面越しであっても、そこに立ち会えたことの喜びを観ている側に与えてくれる最高のライブだった。

 逆に私がもしミュージシャンだったなら、自分との差異に絶望するかもしれない。

 彼女には大きな舞台装置も派手な衣装も何もいらない。最高のバックバンドとマイクさえあれば、彼女のステージはそこに立ち現れる。彼女はそういう稀有な存在だ。

 とても良い高揚感に包まれてライブを観終えた。ライブの最後に彼女は何度もありがとうと言っていたが、こちらこそありがとうという気持ちでいっぱいだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?