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ひとに頼る

突然、夫が骨折で入院した。
踵の骨を折って、今日手術をした。
松葉杖が安全に使えるようになったら退院らしい。

車の運転ができるのは夫だけなので、たちまちいろいろな課題にぶち当たる。
目下の気がかりは、1ヶ月後に控えた(夫の)登壇の仕事だ。
遠方の会場までどうやって行くのか?
そもそもその日は私も外せない仕事が入っているぞ。
むむむ。

私の仕事を誰か代わってもらうか?でも運転できないから役に立たないし。
じゃあ夫が仕事を誰かに代わってもらうか?それも難しいな。

あれこれ考える。

いま考えているのは誰か運転できる友人に頼むという案。
頼めば誰か助けてくれるのではないだろうか?

以前、作家の西加奈子がテレビに出ていて
乳がんの治療中、たくさんの友人に助けてもらったと話していた。
ふとそのことを思い出した。

私たちはもっと迷惑をかけ合って、助け合うことに心を開いてもいいんじゃないか、という気がした。
それは少し前の私にはなかった発想で、自分でハッとする。

これまでの私であれば、周りに心配をかけたくなくて
身内の入院を伝えるのも最小範囲にとどめ
自力で無理なことはお金でどうにかしようとしてきた。
たとえばタクシーを使う、とかね。

もちろん、そのやり方も間違ってはいない。
ただ、53歳になった今、自分(たち)の身にこういうことが起きていることの意味、私(たち)が学ばないといけないことは何だろうと、つい考えてしまうのだ。

そして、それがこの記事のタイトル「ひとを頼る」ことのような気がしている。

これまでの私だったら、夫の仕事の問題であるにもかかわらず、登壇の日のタクシーを率先して予約したかもしれない。でも、今はちょっと違う。友人を頼ってみたらどうか?と夫に提案してみるつもり。

私たちはこれからどんどん年老いていく。それは確実なことだ。だからこそ私たちは「ひとを頼る練習」をしなくてはいけない。今回の夫の骨折から学ぶことがあるとすれば、それなんじゃないかという気がしている。

ふと考えてみると、こんな時に助けてくれる友人が夫にはいるんだろうか。私には夫の友人の顔が浮かんでこない。夫は頼ったり、頼られたりする循環の中を生きているだろうか。
もし、夫にそのような循環がないとしたら、その責任の一端は私にもあるのかもしれない。だって、これまでは夫が困らないように先回りしてきたんだもの。ある意味、過保護のように。
二人で助け合ってきたがゆえに、他とつながることを積極的にしてこなかったともいえる。

でも、今回の骨折の件で私は気づいてしまった。そういう自分の傾向や夫の傾向について。
だとすると、私にできることは、先回りするのをやめて夫にゆだねること。そう思えてきた。そもそもこれは夫の仕事なのだ。
冷たく聞こえるかもしれないけど
これは「一緒に考えない」という意味ではないし
「関心を持たない」という意味でもない。
シンプルに、私が主導(先導)する問題ではないということ。

もし私たち夫婦のどちらかに何かがあった時、残された片方が助け合いの循環の中を生きていなければ、たちどころに孤立してしまうかもしれない。
それはおそろしいことだ。だから、今のうちから迷惑をかけあったり、心配し合ったり、助け合ったりするような関係を作ればいい。

そんな風に感じて、いまは夫にどう提案するか思案中。
ふつうに考えるとさ、誰かに頼られるのってちょっと嬉しくない?
「頼られて嬉しい」という関係を日ごろから作っておくのは大切なことなんだと思う。

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