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なぜセリフのニュアンスを抜くのか

前回の記事では「わたしを大事にしながら演じる方法はないのか」について考えた。宮崎は「ニュアンス抜き」という方法を稽古場で選択しているが、なぜニュアンスを抜くのかについて今回は書きたいと思う。

コンプレックスは武器になりえる

アングラ演劇もどき(白塗りをして踊る演劇を当時行っていた)をやめて、現代演劇がやりたいと再スタートした大学3年生の頃、そもそもセリフを言えるということ自体がわからないという地点から形式についての思考をはじめた。例えば「わたしは猫でない」と書かれた紙があったとして、はじめてその文字を読むようにして「わ/た/し/は/ね/こ/で/は/な/い」と意味として分解されたところから発話し、だんだん文字をくっつけていき「わたし/は/ねこ/ではない」と意味が通じる文になるように読む。意味が分解されたところから「テクスト」を身体に入れることが「テクスト」それ自体を理解するということなのではないかという仮説を立てたのだ。それはテクストそれ自体として発話されているようだった。

他人の言葉や人生を語るということに興味を持ち、架空の他者の人生を俳優が語るという作品(ムニ#1「川、くらめくくらい遠のく」2018.2)をムニの旗揚げ公演で作ったが、その時も他人の言葉を語るには、ハキハキとしたわたしとして話すというよりは「ひとつの容れ物としてそこに立って話す」ということを選択した。その後戯曲を書くようになり、俳優はセリフ(ダイアローグ)を発話する必要が出てきた。卒業制作(「須磨浦旅行譚」2019.2)では、抑揚をつけないようにできるだけ音として発話することを指定した。

しかし、どの作品も演劇の「見る」という強度のことをそれほど意識していたとは言い難かったと今の地点から振り返ると思うことがある。

わたしがはじめて演出がうまくいったかもしれないと思ったのは、青年団若手自主企画の作品「つかの間の道」(2020.1)の時で、しかしなぜうまくいったのかについては最近までよくわかっていなかった。以降作品を何本かつくり、コンクールに出てのトライアンドエラーの中で、やはり自分がやるべきことは、「コップから溢れだした水の豊かさ」について見るということだと考えるようになった。どうすれば作品の強度を高めらるか、どうすれば観客は寝ないのか、なぜ元気じゃないような演技として見られてしまうのか、どうすれば元気な演技ができるんだろう、そういう「見える」ことのコンプレックスの解消方法ばかりを考えていた。「つかの間の道」の時に言われた「よくわからなかった、俳優の元気がないように見えた、セリフが聞こえなかった、棒読みみたいだった」「ニュアンスを抜くからか不機嫌な演技みたいになってしまう」といったことをわたしはどうしてもプラスに考えられなかった。「演技をしてます!」という演技が苦手だというコンプレックスは自分の武器になり得たのだ。

「ニュアンス抜き」はどこから来たか

宮崎の稽古場ではいつも「ニュアンス抜き」というものを行っている。そもそも「ニュアンス抜き」とは映画監督のジャン・ルノワールが提唱した「イタリア式本読み」から着想を得ている。「ジャン・ルノワールの演技指導」という映画があり、その中でイタリア式本読みを実践しており、セリフのニュアンスを減らして平坦に読むということを繰り返している。ルノワールの方法では速度を変えて本読みをしていく。大好きな映画監督の濱口竜介監督がこの方法を取り入れているのを『カメラの前で演じること: 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』(左右社、2015)という本を読んで知って、後追いでルノワールの方法を勉強して稽古場で取り入れるようになった。ちなみに「ニュアンス抜き」という呼び方は濱口監督がしている。

ニュアンスを抜いてセリフを発話することは、俳優の内面にあるものがどのように外面の痕跡としてあらわれるか、ということに着目した方法だと宮崎は捉える。イタリア式本読みは「セリフが言えない」という道程を歩んできたわたしにとって、かなり画期的なものだったのだ。イタリア式本読みは「メモリー」(2019.6)以降のすべての現場で取り入れられた。

なぜニュアンス抜きを行うのか

「つかの間の道」以降の創作で、「ニュアンス抜きを行うもののその目的は何なのか」ということを俳優に問われ続けてきたが、自分の中でもうまく伝える言葉を持ち合わせていなかった。本当に申し訳ないことだと思う。稽古場ではまずニュアンスを抜いてみんなで本読みを繰り返し行うということを行うが、その目的は「テクストの読解を深めるため」としており、本番ではニュアンスを入れて構わない、ニュアンスの入れ方は俳優に任せるということになっていた。それはある読み方を本番でも指定することが俳優個人の良さをなくしてしまうのではないかと思ったからだ。「棒読みのように思えた、なぜか不機嫌な演技になってしまう」というようなことをいかに解消するかを考えていたわたしにとっては、形式が俳優に勝ってしまうことは良くないことのように思えたのだ。

前回書いたようにせんがわコンクールの後で事務所で日和下駄さんと話している時に「なぜ演技!みたいな演技が嫌なんですか、宮崎さんは見える演出はするけど意識とかは扱わないんですか」と言われてうまく答えられなかった。どうしてわたしは「ニュアンス抜きをしたいと思うのか」ということをここのところずっと考えていたし、すっかり演技のことで困惑していた。

過去の作品の映像と「つかの間の道」の映像を見比べた時に、「つかの間の道」には間がすごくあるということに気づき、それは「ニュアンスを抜く→セリフや景色や関係性をニュアンス以外で俳優は想像する・観客に想像させようとする→間ができる」なのかもしれないと仮説を立てた。俳優がセリフのニュアンス以外で「それ」を伝えようとするために、間を生む。たしかに「つかの間の道」の時にわたしは間が空きすぎて成立しない部分の間をつめるように修正をしていたということも思い出した。つまり、わたしたちは、「ニュアンスを抜くことで、観客に想像を働きかけていた」ということなのかもしれない。同時にニュアンスを抜くことは何者にもなれる可能性があるということにつながり、わたしが制限だと感じていたものを考えずにこれからは書ける可能性があるということも感じた。本番では俳優はニュアンスを入れているのだけど、そのニュアンスが固定されない、ということかもしれません。

「ニュアンス抜き」に関しての宣言

「ニュアンスを抜き」はコップから溢れ出る水の豊かさを見せるためにある。ニュアンスを抜き覚えることで、固定化を免れることができるかもしれない。(結局のところわかっていません)ニュアンス以外の部分で観客に想像させるには、ということを考えることで、その人物がどのような人物なのか、その人物がなにを見ているのか、を観客は自ら保管しながら見る。俳優は演じる時、ニュアンスをセリフに入れる以外の方法で発散して、セリフのニュアンスを伝えることが必要になる。

わたしたちは、わたしが、「想像」するためにセリフのニュアンスを抜く。俳優は固定化したニュアンスを入れる以外の方法で「想像」を促す。同時にニュアンスを抜いている自分を客観視できたほうがよいのではないかと宮崎は考える。ニュアンス抜きはあくまでも筋トレのようなものです。ニュアンスを抜くことは、「想像すること」の豊かさにのちのちつながっていくのではないか、思う。





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