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かながわ短編演劇祭の戯曲コンペティションのテーマについて思うこと

かながわ短編演劇祭戯曲コンペティションのテーマを読んで、気に掛かる点があったので、以下に書きたいです。

はじめに、かながわ短編演劇祭戯曲コンペティションのテーマは以下のものです。HPより引用します。

【ともに生きる〜多様性の時代に生きるということ〜】
多様性を尊重する時代だからこそ、「ともに生きる」について深く考えてみる。
神奈川県の重点施策である「ともに生きる社会かながわ憲章」を直接の素材とするものに限らず、それぞれが感じる・考える、「ともに生きる」をテーマとして解釈できる作品を広く審査対象とします。

【参考】
<ともに生きる社会かながわ憲章>
一 私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします
一 私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します
一 私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します
一 私たちは、この憲章の実現に向けて、県民総ぐるみで取り組みます

私が気に掛かるのは、テーマ文の”多様性を尊重する時代だからこそ、「ともに生きる」について深く考えてみる。” という冒頭の一文です。コンペティションの大切な冒頭一文として少しまずい文章なのではないかと感じるのは、多様性を尊重しない時代であれば、ともに生きない可能性もあると、読める点でしょう。

はじめに、「ともに生きる」と言われる時、以下の2つが想定できます。

①ーとーがともに生きる(主語2つ)
②ーがーとともに生きる(主語1つ)

今回のテーマ設定での言語の使われ方は、②の方になってしまってはいないでしょうか。参考として挙げられたテーマ文の後ろの<ともに生きる社会かながわ憲章>や「ともに生きる」というテーマそれ自体に関しては理解することができるのですが、一文目で書かれている「多様性を尊重する時代だからこそ」によって、「ともに生きる」が②の使われ方、マジョリティ側からの視点になっているでしょう。

かながわ憲章とは異なり、かながわ演劇祭戯曲コンペティションのテーマがマジョリティの視点からの「ともに生きる」になっていないか、二つが乖離している部分がないでしょうか。

また付随してにはなりますが、昨年の審査会での出来事も個別問い合わせには応じたものの、本年度の応募概要等では特に触れず、全体周知はしないというのも個人的には親切ではないと感じる部分です。

また昨今演劇界でパワーハラスメントやセクシャルハラスメントの被害の報告が続いています。

戯曲賞やコンクールで審査員だった人がセクハラやパワハラ加害の告発がなされる時、応募したときにどんなに嬉しいコメントをもらっていたとしても、微妙な気持ちになるでしょう。
運営側の選定時の過失とは思わないという前提の上での話です。その場合、こちらが整理をつけるしかないので、なんとかしてほしい、そのなんとかってなんなんだろうというのも同時に思っています。

今の演劇の世界、若手がコンクールに応募することのリスクが高すぎるなぁというのが個人的な所感で、この文章を書いた次第です。

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