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『ことばにない』後編 完本までのこと

『ことばにない』は完全完本した。今は稽古をしている。最終稿までに考えたことがあったので、なんとなく書こうと思う。

昨年の上演中に最悪なことを言われたり、怒鳴られたりということがあり、その他にも上演後の約3ヶ月間にわたり対応が続いたり、社会状況もどんどん最悪になっていくばかりだし、このままの精神状態&状況では後編できないと思う、まで、精神的に追いこまれた。予想していたような出来事もあったが、それでも言われたり、起こったりするとそれなりにショックを受ける、というものである。今年の2月に吉田くんと『本人26歳』という本人たちの演劇公演を行い、演劇作品を創作していく中で、稽古が自身へのケアの文脈があったのもあり、だんだんと立ち直っていった。この作品は本当にやってよかったと思っている。そんなことがあって、それらの最悪な出来事への怒りはわたしの執筆に向かうエンジンになっていった。

被害者側が加害者側に起こった出来事の大きさやショックを伝える時、相手側に「わかりやすい」ようになぜ言葉を練り回さなければいけないのか、こちらばかりが労力を割くことが意味わからん!と、ほんとうに理解できずにいたが、3ヶ月掛けてかなり頑張った。が、その大変さや努力は、得た知識と共に、わたしに苦痛も同時に与えた。謝られたら、起こった出来事のことを話してはいけないのか?謝られたら、それで終わりなのか、と、殴られたのに、殴り返してはいけない理由が本当にここまでわからずに書き進めていた。負った傷の怒りを表明してはいけないと言われているように感じていた。「こういうことを言われた」と表明することもすごく暴力的だとわかっていながら、どうして言われた側は言われっぱなしで、傷を負うばかりで、言った側は謝れば終わりなのか、意味がわからない、と思っていた。(比喩として)殴り返していいと考えていた。
※以下に登場する「殴る」は全て比喩表現として受け取っていただきたいです。

でも、直接的な表現で殴り返すのではなく、執筆に向かうエンジンになっていた最悪な出来事への怒りを、フィクションという技巧のある形として仕上げることが、作家としてできることなのでは、とだんだんと思うようになった。わたしのされた最悪な出来事の数々は舞台上には登場しない。けど、それらを経たことは血肉となって、作品に、文体に、還元されているはずだ、と思う。

今でも、謝られたからといって、わたしに最悪なことをした人たちのことを許す気はないし、謝られてすらないことも多くある。『ことばにない』前編を経て、わたしは多く傷を負った。けど、殴り返してダメな理由は、単純に「殴られると痛いから」だと思えるようになった。人は警察のように、法のように、社会のように、他人に対して「殴り返してはいけない」とだけ言う。どうして殴り返してはいけないのか、は教えてくれないし、理由は自分で探すしかない。し、殴られたのに、殴り返してはいけないのかわからない、と言うと、嫌悪される。ヤバい奴だと思われる。

マイノリティであればあるほど、負う傷の数も多いと感じる。みんなが生きやすくならないものか、とも思う。わたしの場合は、傷を負わされて、怒りを抱える、新たなフィクションを考える。また、傷を負わされる、怒りを抱える、フィクションを考える。そんなことの繰り返しなんだろう、と思った。傷を負わされて、抜け道を探って、こちらばかりが、損をしているようだ、という考えも過ぎらなくない。普通に気楽に生きられる人のことが羨ましくもなるし、そういう人に限って「殴り返してはいけない」とか言ってくるし、無意識に人に傷を与えてくることが多い。嫌になる。書くのは楽しいが、大変!だし、自分は何をしているんだろう、と、よくわからなくなる。

『ことばにない』後編は、自分なりに出した、傷を負わされて生まれた怒りをどうするか、傷を抱えながらどのように生き延びるかの一つの掲示、の話なような気もしている。




演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。