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演技のまわり道

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演技ということがわからなくて、2019年から書き始めました。演技や戯曲を書く中での問いや、影響を受けたものについての雑談noteです。
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#演劇

ニュアンス抜きの目的

ムニ『ことばにない』の稽古場では、セリフの覚え方をニュアンス抜きでお願いして、読み合わせも、立ち稽古もニュアンス抜きのまま行いました。通し前に一度だけニュアンスありで稽古をして、ニュアンスありの通しをしました。 今は次の通しに向けて、また、ニュアンスなしでの本読み、立ち稽古を行っています。 最近俳優さんと共有するために、ニュアンス抜きのことを振り返ったのでここにあげようと思います。 ==== ◆ニュアンス抜きの目的 →ニュアンス抜きでセリフを覚えることで、相手のセリフへ

サブテクストが必要で長くなる

今書いている作品が、物理的に上演時間が長いものになるのではないか、と思った理由の一つにサブテクストが必要だと思いはじめたことがある。というのも、俳優がある演技を選択する根拠や安心感となり得るものが、演劇の現場では充分に説明されているのだろうか?という気持ちになってきたからだ。 サブテクストは、キャラクターやストーリーの状況を補足するというだけでない。その作品が前提とするものの共有もまたテクストの世界の中で行えた方がよいのではないかとわたしは考える。 これまでは演劇の形式と

演技はつらいもの?

わたしはわたしのために料理をすることが好きだから、料理をします。このパンの間には魅惑のあんことクリームチーズがはさまっています。 2/21月 ほろびて『苗を植える』を観た。おもしろかった!はじめ、ランドセルが出てきた時、認知が歪んでいる世界に放り込まれたのかと思ってワクワクした。進むごとに、ヒリヒリとこの世界が現実ということがわかる。ラスト以外の独白のことが気になった。誰に対してどんな息遣いで語られているのかということが気になったのかもしれない。会話がすごく面白い!って思っ

「言えない」について

こんにちは、宮崎です。ムニ「カメラ・ラズズ・ミー!」の公演が終わり、9月1日が10月に予定している升味企画https://twitter.com/masumiws2021?s=20のワークショップの締切(9/1(水)23:55まで)まで間もなくです。 今現在に至るまで演出について悩んでいることもあり、これまで自発的にワークショップを行ってきませんでした。ワークショップの経験はないので今でも不安ですが、升味さんにお声掛けいただいたのもあり、背中を押される形で今回の参加を決めま

なぜセリフのニュアンスを抜くのか

前回の記事では「わたしを大事にしながら演じる方法はないのか」について考えた。宮崎は「ニュアンス抜き」という方法を稽古場で選択しているが、なぜニュアンスを抜くのかについて今回は書きたいと思う。 コンプレックスは武器になりえるアングラ演劇もどき(白塗りをして踊る演劇を当時行っていた)をやめて、現代演劇がやりたいと再スタートした大学3年生の頃、そもそもセリフを言えるということ自体がわからないという地点から形式についての思考をはじめた。例えば「わたしは猫でない」と書かれた紙があった

展開があるものだけが物語なのか

◆展開があるものだけが物語なのか人物やストーリーが大きく転じていくものだけが物語なのか。起承転結がはっきりしていること、人物の心情がわかりやすく変化することだけが物語ではないはずだ。日常を見つめ直すきっかけとなる作品、演劇を見た後に日常へとゆっくり浸透していくような作品しいては戯曲だってあっていいはずだ。日常の機微を描くことも物語である。日常から物語ははじまっていると捉えることはできないだろうか。引っ越し、結婚、友人との別れ、日常にもドラマはある。 一方で展開の数イマジネー