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展開があるものだけが物語なのか

◆展開があるものだけが物語なのか

人物やストーリーが大きく転じていくものだけが物語なのか。起承転結がはっきりしていること、人物の心情がわかりやすく変化することだけが物語ではないはずだ。日常を見つめ直すきっかけとなる作品、演劇を見た後に日常へとゆっくり浸透していくような作品しいては戯曲だってあっていいはずだ。日常の機微を描くことも物語である。日常から物語ははじまっていると捉えることはできないだろうか。引っ越し、結婚、友人との別れ、日常にもドラマはある。

一方で展開の数イマジネーションによって思わぬところに連れていかれること、大きくは脚本技術自体にその演劇の良さがあることは、物語的な良さと言えるのかもしれない。

だけど、物語は展開だけではない。リアル、日常の中にも物語を見ることができる。物語ということ、リアルということの間に演じることの本質があるのではないかと、その境界について探求したいという思いがわたしの演劇のワンダーである。それは同時にわたしが現代口語演劇の流れの中で戯曲を書いているということでもあるだろう。

◆日常から舞台を見つめるのか、舞台から日常を見つめるのか

演劇をはじめたときセリフを言うこと自体がわからず、棒読みでセリフを俳優に発話してもらうということからはじめた。それはリアルの会話の軽さと、物語を推進するセリフの重さのアンバランスさに困惑したからだと思う。
日常の会話を書き出してみることからはじめてみたが、それだけでは、つまらないことに気づいた。一方で「セリフ」を書こうとしすぎると、リアルな会話とは、程遠いところにたどり着いてしまう。日常にはドラマのようなセリフは溢れていない。かといって、セリフを書きすぎるとそれが作家の意図としてあるようにも見えてくる。演劇はなにを見せるかよりも、そこにあることなのではないか。日常から舞台を考えることのほうがわたしには重要に思えた。

わたしの作品を観てくれた友達の浜田くんから、手紙が来て「宮﨑さんの演劇には演劇でないといけない必然性があるのか」ということが書かれてあって、大学を卒業したての頃、演劇の支持体とはなんだろう、なにが演劇を演劇とするのかということを随分と考えていた。ダイアローグの演劇においても、観客と対話することはできないか。

例えば観客ですごく咳をする人がいたとして、わたしの作品に出てくる俳優はその咳に反応してよいとするのか、無視をすることにするのか。照明がチカチカした時に、反応するのか、反応しないのか。わたしは反応したいなと、野性的でありたいなと思った。

そんなことを考えているうちに、観客が目の前にいることを意識することが、リアルつまりは「軽さ」に結びつくということを発見することになった。わたしの場合は、飲んでいる演技をするのではなく、空っぽのコップを持っている姿を見せて、何かを飲んでいる/たことを観客に想像させることは、観客との対話をつくるということなのではないか、と考えるようになった。

同時に物語を書くことは書かない部分をつくるということでもあるのかもしれないと思った。戯曲が評価される時、その戯曲がいかに書かれているかが重要視されているが、作家が書かない部分も同じように重要なのではないか。戯曲にも想像の余白はあってもいいのではないか。

◆おわりに

展開があるものだけが物語なのか。わたしは、物語に抵抗(リアルを探求)しながら、物語を書きたい。日常の先に、舞台の言語もあってもいいはずだ。月並みかもしれないが、今わたしが生きている地点におけるリアルということとフィクションの間のなにかを探りたい、見たいという気持ちがあるのかもしれない。


演劇作品をつくっています。ここでは思考を硬い言葉で書いたり、日記を書いたりしています。サポートをいただけますと、日頃の活動の励みになります。宮崎が楽しく生きられます。