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自分の日常生活の体のことを体の部分、部位レベルで考えるようになった。 わたしは自分の体のことをまったく大切にできないたちで、ストレスが溜まると体を引っ掻いてしまったりなど、内的ストレスを体へ直接落とし込んでたので、体は当然傷つく感じになってしまっていた。というのが、これまでの人生における話。 2023年3月に『ことばにない』のことが、書きながらわからなくなって、オフィスマウンテンのワークショップに参加してみようと思い、伊東に行った。 それから、しばらくして、「トリオの踊り
・俳優がセリフを話す、という行為があるとき、あたかも自分の言葉であるかのようにセリフを話す、役と見えるための演出に沿ったその発話の形式に納得することができない。 ・それは演出によって引き起こされる。もしくは、俳優は役になりきるものだという固定概念によって起こりうる。 ・わたしは「劇への抵抗」という文章の中で、「ーに見える」という目的に向かうリアリズム演劇の手法を脱したいこと、その回避の仕方を宣誓した。 ・既存の現代演劇における俳優が役そのものであるかのようにセリフを発話
演技の回り道のメモ書き2023.12.28 ・観客に「どのように見えるか」を考えて組み立てられたリアリズムの演技が嘘くさいと感じるようになった。リアリズムの演技がわからなくなった。 ・主体の重さ(と呼ばれるもの)があった際に、それを重さで上演の際に表現することはすごく簡単に思えてしまうし、短絡的だと考えるようになった。 ・わたしは不可視の歴史の表象を正確に、求められる表象として成すことは難しい。技術者ではあるが、一人の人間でしかないためだ。成すにしてもその表象の絶対数は
ワークショップに行った。理由は自分の足で舞台に立ちたいと思ったから(誰に何を言われようとも)、他にもありますが、ここでは省く。 吉田と定期稽古をしたり、毎日セリフを覚えて発話してみたりをやっていて、俳優の筋トレってなんだろう?みんなしてるんかな?と気になった。書き続けるのと同じで、やっていたら、それなりにうまくなるんじゃないか、とも思った。今のところ苦じゃない。一年くらいかけて自分の足で自分の作品を作れるという状態まで持っていこうと俳優の筋トレをしている。わたしは自分の足で
わたしは構造を掴むのは遅くないために、そこまで大きくキャラクターはブレないようだ。ブレないために構造を把握するのは、俳優のタスクかもという俳優宮崎の認識。演出の宮崎は聞かれたら答えますし、聞かれないとブレる可能性も出てくるということの把握。 あと構造把握には台本が完本していることが必要ですね。 ここからは俳優宮崎への演出宮崎からの言葉で、自分自身へだからこういうこと言えるのかもしれないのですが、 反応で出てくるレベルまでセリフを覚えていますか、出てきますかってこと。ハロ
最近なぜかよく劇団ということを考える。集まり、でもいいんだけども。 わたしは学生の頃に愛玩墓地という劇団を明治大学の演劇サークル実験劇場で仲良くなった人たちとやっていたんだけど、解散させてしまいまって、その時は演劇とはこうあらねばならない、的なものに縛られていたのもあって、私自身疲れたし、みんながそれぞれやりたいことをやれるために解散しようということになった。で、わたしはその後、青年団『ニッポン・サポート・センター』を観て、すげー!こういうのもあるんだと思い、無隣館の試験を
わたしにはわたしなんかが、、、という気持ちが何事においても、何をするにしてもどこか根底にはあります。捻くれすぎてしまったのだと思います。こういう時にいじめられたこととかを死ぬほど恨んだりします。 何かに関わること、特に公共事業などですが、とてもとても神経質になります。 一日一回は死にたいと思うような、思っていたような人間が関わっていいのかという、わたしなりの葛藤がどこかにはあります。 戯曲を書く時も結構自分を追い込みます。追い込んで力が発揮できる場合も多くあります。でも
ムニ『ことばにない』の稽古場では、セリフの覚え方をニュアンス抜きでお願いして、読み合わせも、立ち稽古もニュアンス抜きのまま行いました。通し前に一度だけニュアンスありで稽古をして、ニュアンスありの通しをしました。 今は次の通しに向けて、また、ニュアンスなしでの本読み、立ち稽古を行っています。 最近俳優さんと共有するために、ニュアンス抜きのことを振り返ったのでここにあげようと思います。 ==== ◆ニュアンス抜きの目的 →ニュアンス抜きでセリフを覚えることで、相手のセリフへ
①『輪るピングドラム』を観た余韻をしばらく引きずっている。『さらざんまい』の展開から、10年後のピンドラはこうなるのかもしれないと思っていた方向へ向かっていった。前編後編に分けて6時間ほどをかけることを選択したことに思いを馳せた。 演出について考えることが多い体験だった。テレビシリーズを再構成するというのがピンドラ映画版でなされたことだと思うのだ。もちろん新しいカットも増えているが、既存の物語を再構成していくという手法のこと。 ここからややネタバレ。 キャラクターたちが子
私にとっての日常はいつなんだろうと思う。普段生活している時のわたし、特に職場や演劇の場で何か話をしなくてはならない時などは演技をしながら生きてるのだろうかと思い返す。恋愛や結婚将来について質問された時は大抵嘘をついている、演技をしている。歩いている時は、物や景色を見ている。 新宿、ピカピカ光るライトの中、視線が交差する中、ジントニックを飲みながら、これが本当のわたしだ、とどこかで思えた瞬間があって、すべての演技から開放されるような気持ちになったのを覚えている。場っていいなっ
今書いている作品が、物理的に上演時間が長いものになるのではないか、と思った理由の一つにサブテクストが必要だと思いはじめたことがある。というのも、俳優がある演技を選択する根拠や安心感となり得るものが、演劇の現場では充分に説明されているのだろうか?という気持ちになってきたからだ。 サブテクストは、キャラクターやストーリーの状況を補足するというだけでない。その作品が前提とするものの共有もまたテクストの世界の中で行えた方がよいのではないかとわたしは考える。 これまでは演劇の形式と
わたしはわたしのために料理をすることが好きだから、料理をします。このパンの間には魅惑のあんことクリームチーズがはさまっています。 2/21月 ほろびて『苗を植える』を観た。おもしろかった!はじめ、ランドセルが出てきた時、認知が歪んでいる世界に放り込まれたのかと思ってワクワクした。進むごとに、ヒリヒリとこの世界が現実ということがわかる。ラスト以外の独白のことが気になった。誰に対してどんな息遣いで語られているのかということが気になったのかもしれない。会話がすごく面白い!って思っ
波動が広がるという意味での伝播を用いたい。 コミニケーションは言葉が伝わることではなくて、言葉として発されたものが分解されて、言葉として、また言葉以上の想像をはらみながら、響くこと、なのではないか。この響きを産むためのセリフというのが絶対にどこかに転がっている(それは狙ってできるものでもないのだけど)というようなことが最近再び気にかかっている。それは観客に直接的に向かうものでなくても、そういう力を持ったセリフなんじゃないか。狙われたものがよいセリフとも限らないからとても難し
舞台上から観客に向かって語りかけるという方法がある。 観客に向けて語ることは、舞台上で行われている行為を舞台上だけで完結させないという効果を含む。語りによって、観客は想像することを即興的に促される。その場で発生する出来事を共有し、観客と俳優とのコミニケーションが成り立つ割合は大きい。 (モノローグを多く用いる演劇の中にも、語りの対象が観客に向くものと、語りの対象が不明なものがあるので注意されたい) 多くの会話劇は舞台上で完結している。観客席と舞台上との間には透明なカーテ