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【貴重】1984年カルチャー・クラブ初来日ツアーパンフレットの中身

以前、ホイットニー・ヒューストン来日ツアーパンフレットの中身を投稿しましたが、

今回はパンフレット企画の第二弾として「カルチャー・クラブ」の来日パンフレットを取り上げていきたいと思います。ちなみにこのパンフレットは母の私物です。

カルチャー・クラブ

ツアー概要

まずこのツアーの概要を以下にまとめました。

パンフレットタイトル:「A KISS ACROSS THE OCEAN」

日程:1984年6月20日~6月27日

公演都市:大阪・名古屋・東京

全6ステージ(大阪2回・名古屋1回・東京3回)

招聘:ウドー音楽事務所

協力:ビクター音楽産業

詳細な日程と会場はこちらです。

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また、ワールドツアーの日程もありました。

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パンフレットタイトルが「A KISS ACROSS THE OCEAN」となっています。また、「ロンドン・ライブ’83」と題した日本版ライブビデオにも同じく「A KISS ACROSS THE OCEAN」と記載されていました。(このライブビデオはビクターの商品でした。)

はっきりとこのパンフレットには「ツアー名=A KISS ACROSS THE OCEAN」と書かれてはいませんでしたが、コンサートの内容はこのライブビデオと近かったのではないかと推測できそうです。

また、このコンサートを招聘したのはウドー音楽事務所です。

というわけで先日出版された「洋楽ロック史を彩るライヴ伝説~ウドー音楽事務所の軌跡を辿る~」にて今回のコンサートの情報を調べると…載っていました!この本から今回のコンサートについて記載されていた情報を以下にまとめます。(「洋楽ロック史を彩るライヴ伝説」72ページ参照)

・カルチャー・クラブの初来日公演

・ボーイ・ジョージは当時若干21歳

・ジョージのファッションはファンにすぐに見つかってしまうため移動が大変だった。

・ジョージは「面白い男」よくしゃべり、しかも「早食いジョージ」としても知られていた。

非常に興味深い話題が多いですね。「移動が大変だった」というのはそれだけ日本での人気が高かったということもわかります。

またこれらの裏話についてはもう少し詳しくエピソードが綴られていました。「早食いジョージって何?」と思われた方は是非「洋楽ロック史を彩るライヴ伝説」をGETして確認してみてください。

「洋楽ロック史を彩るライヴ伝説」を読んだ感想はこちらの投稿からどうぞ。


寄稿文(湯川れい子氏/水上はるこ氏/小倉エージ氏)

続いて、パンフレットに記載のあった興味深い寄稿文から一部を抜粋していきます。

日本には昔から歌舞伎や宝塚のように、男性が女装したり、女性が男装したりして、独特の幽玄世界を創り出す舞台美術があるおかげで、ボーイ・ジョージさんに対する評価も、比較的マトモだ、と云う気がします。(中略)その点、外国での評価というのは、日本と少し違っていて、イギリスでもアメリカでも、有識者のインテリたち、つまりワケ知り、物知りの人達が初めてのモノの本質を見すえたり、寛容の精神を発揮したりして、カルチャー・クラブのおみこしかついでくれているとか、もしくは掛け値なし、モノホンのおホモ達たち(原文ママ)が熱い目線と声援を送っているとか云ったところがあるので、総体的にファンの年齢層は、日本よりもグッと上のようです。(湯川れい子氏寄稿文より引用)

「女装した男性がいるバンド」としてカルチャー・クラブがどのように評価されていたのか、日本と海外では違いがあったのですね。海外の方がファンの年齢層が高かったというのは知りませんでした。

1982年夏、テレビ番組の仕事でロンドンに行った私は、(中略)名前だけはいやになるほどきいていた青年、ボーイ・ジョージに会いました。(中略)その当時のボーイ・ジョージは、とにかく目立ちたい、注目されたいの一心で、髪型・化粧・服装、どれをとっても現在の彼とはほど遠い、サーカスから抜け出したピエロ、といった趣でした。しかし、ロンドンの若者にしては物腰がやわらかく、顔立ちや話し方からも彼のやさしさ、愛らしさを感じとることができたのは意外でした。カルチャークラブがデビューしたのはその秋です。(中略)ボーイ・ジョージがミュージシャンとしてデビューするときいた時、大半の人が、ディスコの遊び人が冗談半分にバンドを結成した、程度にしか思わなかったはずです。私もそのひとりでした。同じ年の11月、私はすこしくらいはだまされてみましょうと、ロンドン行きの飛行機の中でカルチャー・クラブのデビューアルバムを聴き続け、ヒースロウ空港に着いた時にはすっかり、この不思議な新人グループの中毒になってしまったのです。(水上はるこ氏寄稿文より引用)

ボーイ・ジョージという人がデビューする前から既に名前が知られていたということわかります。「ディスコの遊び人が冗談半分にバンドを結成した」と思われていたのですね。実力派だったことが証明されてよかったです。

どこのインタビューだったか忘れてしまったが、ボーイ・ジョージが音楽的に影響を受けてきたものは?などと尋ねられて次のように答えていたことがあった。いわく、“グラディス・ナイト、モータウン、それにギャンブル&ハフとか、そういったものかしらね”と。そのことを知って以来、僕は、彼、いや彼女に?ますます親近感を覚えたものである。(中略)ボーイ・ジョージが影響を受けてきたと語るそれらソウル・ミュージックは、彼らの2作目のアルバム『カラー・バイ・ナンバーズ』に色濃く出ていて、ますます、彼のソウル・ミュージックへの傾倒ぶりを明らかにしていたのである。(中略)もっとも、ボーイ・ジョージ、さらにはヘレン・テリーが、カルチャー・クラブの音楽性の全てを握っているのかといえば、決してそうではないらしい。たとえば、これまでに彼らが放ってきた一連のヒット、あるいは、2作目の『カラー・バイ・ナンバーズ』の作者のクレジットを見ると、そのほとんどがボーイ・ジョージに加えてジョン・モスマイキー・クレイグロイ・ヘイと、主要な4人の共作となっていることは、興味深い。その辺のことについてボーイ・ジョージは、“私が思いついたメロディを口ずさむと、誰かが受け継いでいく。そんな風にしながら作品をふくらませていくの。でも、時に意見が喰い違ったりすることもあってね”と、その曲作りについて語ったことがある。(小倉エージ氏寄稿文より引用)

ボーイ・ジョージはソウル・ミュージックに傾倒していたのですね。

ヘレン・テリーさんはカルチャー・クラブには欠かせない女性バックコーラスの方ですよね。ボーイ・ジョージの哀愁漂う声とヘレンさんのパワフルボイスのコントラストは魅力のひとつですよね。

しかし、曲作りはメンバー全体で行っていたとのことです。ボーイ・ジョージだけが目立ってしまいがちですが、メンバー全員のエッセンスが曲に含まれているということですね。

また、ボーイ・ジョージの話した言葉の語尾が「~かしら」「~なの」と女性言葉で表現されていますね。

実際、ボーイ・ジョージは“女性言葉”っぽい英語を話していたのでしょうか。話し方に特徴があったのかについてイギリス英語にお詳しい方がいらっしゃいましたら教えてください。

写真/掲載広告

パンフレットには上記の寄稿文を除いてほとんどがアー写やオフショットとなっていました。

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また今回の協力が「ビクター音楽産業」だったということもあり、巻末には前述したライブ・ビデオ「ロンドン・ライブ’83」の宣伝も載っていました。

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今回の温故知新

カルチャー・クラブ初来日時のパンフレットをご紹介していきました。

やはり、カルチャー・クラブ=ボーイ・ジョージと認識されていた印象を強く受けましたし、それだけルックスや音楽的なインパクトがあったということなのでしょう。しかし、小倉エージ氏が記していた通り、メンバー全員で作曲していたという点は忘れてはいけないなとも思いました。今後はカルチャー・クラブのメンバーそれぞれのアーティストとしての個性がどうだったのかについても詳しく調べてみたいと思います。

また、「洋楽ロック史を彩るライヴ伝説」という書籍を既にGETしていたこともあり、このパンフレット以外の情報源から同じコンサートについてを調べることができたのも良かったです。

最後までお読みいただきありがとうございました。See You!


また、シマあつこ先生によるテキスト「ロックスターお絵描き教室」を使って、ボーイ・ジョージをお絵描きしてみました。よければ併せてご覧ください。



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