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まさかの、着物生活はじめました

「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか」

 結婚式で定番の祝辞である。このあとに「まさかの事態にも夫婦二人で力を合わせて乗り越えましょう」と続く。
 まさか、という単語には主に二つの意味がある。”衝撃的”か”起こりそうもない”の二種類だ。私の人生にとっての”まさか”は後者で、予想しないことが転機になってきた。
 たまたまお互い暇だったときに遊びに行った知り合いと半年後くらいに結婚したし、たまたま友人に誘われて体験したキャンドルづくりが仕事になった。ちなみに、20代から30代にかけて何十万もかけて勉強した英語や、速読やアロマやオーガニックコンシェルジュの資格、ボイストレーニングに通ったものなどは一向に実になっていない。目標を持って始めたものは意外とうまくいっていないのだ。

 そして今年、新たな “まさか”が訪れた。着物だ。2021年7月16日に着付けを習ってから、毎日欠かさず着物を着ている。

 その日以前に着物を着たのは、七五三と成人式、結婚式に花火大会のみ。節目にお世話になるくらいで、日常生活ではまったく縁のないものだったのに、まさかである。
 元来飽きっぽくて、NHKのラジオ英会話も4月のテキストだけを買って終わる私が110日ほど何かを毎日継続しているなんてすごいことだ。
 そもそも、着物にさほど興味があったわけではない。素敵だけれどなにせ高いし、着る機会もないし、ルールに厳しそう。伝統文化は大事にしたいけれど財力はないし、濃いめの顔なので似合わなそう。着ない理由ならいくらでも挙げられた。
 ではなぜ、そんな私が着物を着始めたのかというと「着物を着たら楽やで~」「もう洋服に戻れんわ~」という友人の言葉がきっかけだった。
 件の友人が習ったのは無重力着付けという名前の、その名の通り身体が軽くなる着付けだった。簡略化された着方ではなく、オーソドックスな着付け方法なのに不思議と楽ちん。どうして楽なのかというと、”洋服を着る感覚で和服を着ると苦しくなるが、和服の感覚で和服を着れば身体が楽“という理屈だそうだ。洋服と和服は構造が異なるので、服の着方や身体の使い方が異なるとのこと。手の向きや身体の使い方を意識するだけで、締め付け感がまったくなく、むしろ柔らかく抱きしめられているような感覚で着物が着られる。もともと昔はみな着物を着ていたのに苦しいはずがないというのが無重力着付けに至る原点だそうだ。たしかに、異文化に憧れてうわべだけ真似してみても違和感を覚えるのと同じことなのかもしれない。

 無重力着付けを習い、受講当日から夜は浴衣で寝て、日中もできるだけ着物で過ごしていたら首と肩の凝りが劇的に解消された。和服は腰で着るが、洋服は肩で着るので肩が凝るらしい。話で聞いてはいたものの、実際に肩凝りが消えた衝撃はなかなかのものである。ほかにも嬉しい発見がたくさんあった。
 帯があることで腰が冷えにくく、脇の通気性は良いので暑くもないという抜群の温度調整で快適。着物はワンピース形式なので上下のコーディネートに悩むこともない。足は下駄一択で良いので、服の形に合わせて靴を揃える必要もない。靴やヒールで足が詰まることもないので歩いていても疲れにくい。綿や麻の着物を選べば自宅でじゃぶじゃぶ洗える。お金がなくてもリサイクルで安く着物が買える。ちなみに着物を着るようになってヤフオクのヘビーユーザーになった。
 ここまでくると、「あれ、私はなぜ洋服を着ていたんだっけ…?」と、洋服に疑問すら感じるくらい着物の良さに夢中になってくる。

 さらに、予想をしなかった変化もあった。
 家での着物生活は気兼ねがないものの、着物を着始めたころは外出するのに抵抗があった。着物警察なる手厳しい人たちに叱られるのではという恐怖があったのだ。
 しかし、ふたを開けてみれば出会う方はみな着物の初心者に好意的だった。年配の方には「いいわねえ、私も昔は着ていたのよ」と声をかけられ、着物ショップの方には「若い人が着物を着てくれるなんて嬉しいわ!」と感謝された(一般的に全然若くはないのだが、着物の世界で言えば40代はまだまだ若い範疇らしい)。知人には「着ていない着物があるからどうぞ」と結構なお品を譲っていただき、電車に乗れば若い男性に席を譲られる。
 単に楽をしたい一心で着始めた着物によって、アラフィフになってもこんなにちやほやされる日が来るとは…! まさかである。モテたいとは思わないが、優しくされるのはやはり嬉しい。電車で、寡黙そうな若い男の子に席を譲られるたびに「この子にめいっぱいの幸せが訪れますように! 宝くじが当たって素敵な恋人ができて仕事もうまくいってね、幸あれ!!」と全力で祈るようになった。人のために全力で祈るという体験も、何だか幸せな気分になれる。

 なんとなくの興味で始めた着物に関して、こんなに語れるようになるとは驚きだ。最近では、私が着物を着始めたことにより、友人がこぞって無重力着付けを習いにいくようになった。自分の仕事でもこのくらいの営業力を発揮できていれば今頃大成功していたはずなのに…と思うのだが、そうはいかない。きっと、純粋に好きだという気持ちこそが人を動かすのだろう。

 じゃあ着物にネガティブな要素ってないの?と言われれば、特にない。強いて言うならば、やはり高い着物にはお値段なりの素晴らしさがあるので、いずれ欲しいなという物欲が生まれた事だろうか。着物を着る前は、古着で買った数百円の服を着ているくらいだったので、衣服にここまで夢中になるとは思っていなかった。よもやよもや、まさかまさかだ。

 もし着物が嫌いになったらどうするのか? そのときは、ただ着なくなれば良いだけだ。そもそも、楽が良くて始めたことなのだから、楽でなければやめればいい。目的なく始めたから、続けなきゃいけないというプレッシャーもない。
 振り返って見れば、恋愛も仕事も、プレッシャーがあるものはうまくいかなかった。目標を持つと、達成しなかったときに落ち込んだり自己否定をしたりする。しかし、たまたま始めたものはただ楽しいので、あまり先のことは考えない。今こうしたいと思うからこうする。こうなったら嬉しいなと思ったらそこに向かう。それだけだ。シンプルだから憂いもなく、憂いがないから次に進める。たとえ困難なことが訪れたとしても、「乗り越えなければならない」とは思わないので「これが無理ならどうしようかな?」と他の選択肢を考えればいい。

 私は本屋をぶらぶらするのが好きなのだが、この数年「好きなことを仕事にする」「本当に好きなことを見つける」「自分らしく生きる」といったテーマの本が増えた気がする。私の周りでも、好きなことをして生きていきたいという人が増えた。それは素晴らしいことだ。「あなたは好きなことを仕事にしていて素晴らしいわね」と言われたりもするのだが、そんなときは少し戸惑ってしまう。私は好きを仕事にしたというよりは、たまたま仕事になったものを好きになったのだ。

 好きなことを探してもいいし、見つける過程はきっと楽しい。でも、見つからなくたっていいと個人的には思っている。なんとなく興味を持ったことをぼちぼちやってみるのも楽しい。究極を求めなくたっていい。そんな風に達観したように過ごしながら、たまに沼にハマってしまって焦る自分を楽しんでいきたい。

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