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死について

人は死んだらどこへ行くのだろう、ということを日々の隙間で考えている。真夜中の暗闇のなか、悲惨なニュースを眺めるとき、温かな湯船に浸かり水滴の音を聴きながら、不意に、「死」を思い出す。まるで、遠い昔の友人のことを思い出すかのように。

子どもの頃、死を怖れてよく泣いた。あの頃、いつか死ぬという事実には、あまりにも強烈な実感が伴っていた。その実感を生み出したのは、若さが持つ感受性、豊かな想像力だったのだろう。大人になった私は、もうそれらを持ち合わせていない。ただ、静かに、いつか私は死ぬのだったな、と思う。

昔は、想像した。死に限りなく近づいてゆく魂の終わり。その先に永遠に続く無の世界。

もしかしたら、この世で意識をもっているのは私だけで、他者は皆心を持たぬロボットなのではないか。あるいは、この世のすべては私ひとりが作り出した幻想なのではないか。……そんなことも、考えたりした。

私の生は、ただの「現象」なのだろうか。太陽が昇り、川が流れ、草木が地面を覆い、花が咲く。生まれては消える命も、同じような出来事なのだろうか。では、私の自意識は一体なんなのだろう。頭をかち割っても、心は取り出せない。それは、物質ではない。そこにあることを、誰も証明できない。そして、意識を持った私の身体は、指先から少しずつ死んでいく。細胞単位で、生と死を繰り返している。



先日、うっかり、右手の半分を火傷してしまった。小指には今も、水ぶくれになって死んだ皮膚が貼りついている。湯船に浸かりながら、そんな小指を眺めていたとき、ふと思った。私の指先で死んだ細胞にも、もしかしたら、魂があったかもしれない。

死は個を失うことだと思う。個を失ったら、全体になる。私の指先でひとつ細胞が死んだとしても、私の命は続いていく。死んだ細胞に魂があったとしたら、それは私の魂に吸い込まれていったのだ。

ああ、死んだら「ひとつ上」に行くのかもしれない、と思った。

人も死んだら、「ひとつ上」に行くのかもしれない。私たちの命が集まって、もっと巨大な存在をつくりあげているのかもしれない。それは神様と呼ばれるものかもしれないし、この宇宙そのものなのかもしれない。そんな風に想像したら、なかなか、面白かった。



いずれにせよ、死は未知の世界だ。宇宙の終わり、生命のはじまり、人間には知り得ないことって、たくさんある。

私が私でなくなるのは、悲しいことだけれど、その先にはまだ見ぬ世界が待っているのだと思うと、心細さの中に一筋の光が差す。そうして、僅かな安堵に行きつくと、またゆっくり息ができる。与えられた人生の続きを、歩み出す。そこかしこに隠れている、死の気配を感じながら。