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死と幸福についての独り言

 家の近くで他人が死んだ。避けようがない事故だった。テレビに映った風景を見て、私は幼い息子に「ねえ、うちの近くが映っているよ」と言おうとして口をつぐんだ。家の近くで他人が死んだという事実を、幼な子にうまく伝えられる自信がなかった。

 息子は最近、死という存在に気づき始めている様子だった。ある週末に、マンションのエレベーターを何度も乗り降りしたことがあった。機械的に開け閉めされる扉の近くには、カメムシの死骸が転がっていて、干からびて動かなかった。マンションの管理人は土日は不在なので、この死骸を掃いて捨ててくれる人はおらず、私もなるべく死骸には触れたくないと思っていた。息子は初め「なんでカメムシさんここにいるの?」と不思議そうな顔で聞いてきた。私は適当にはぐらかしたと思う。2回目にエレベーターに乗った時には、息子は「カメムシさんはなんでまだいるの?」と恐怖の表情を浮かべながら私の腕を掴んだ。息子の中でカメムシというのは、網戸に勢いよくぶつかってくる得体の知れない緑の虫で、地面に転がっているものではなかったのだろう。あんなに元気に動いていた生き物が微動だにしなくなっている、その不気味さに息子が気づいた瞬間だった。私は言った。「カメムシさんは死んじゃったからね、動かないんだよ。」息子は首を傾げていたと思う。3回目にエレベーターに乗った時には、息子は泣き叫んでいた。「嫌だ、嫌だ、カメムシさんがいるから。怖い、怖い。」何を言ってもエレベーターに乗ろうとしない息子を私は抱きかかえた。「抱っこしてあげるから、下は見ないで、前を見ていなさい。」カメムシはいつの間にかいなくなっていた。風にでも飛ばされたのだろうか。
 
 子どもの感性の純粋さに驚いてばかりの日々の中で、自分が少しずつ若さを失っていくのを感じる。向学心も減ったし、毎日惰性で生きている。運動不足が祟ったのか、30を過ぎてから病気がちにもなっており、貴重な余暇の大半を睡眠に費やしている。
 若い頃は何かを成し遂げなければと懸命に生きていたが、今は日々を正しく「幸福」に生きることで精一杯で、それ以上の何かをしようという気さえ起らなくなっている。こうして文章を書きたいと思ったのも久しぶりで、昔のように何かを「創る」「表現する」「残す」ことには執着しなくなっている。
 昔の私は「幸福」に生きようなんて思っていなかった気がする。私ひとりが「幸福」に生きたところで、私の命なんて軽く、何かのはずみでふっと消えてしまったらそれで終わりだ。主観的に「幸福」に生きても意味がない。だから他の誰かにとって私が価値ある人間となるように、何かを成し遂げたり、他人の役に立ったり、少しでも価値のある作品を創ったりしたいと思っていた。
 でも、家族を持った今、私の「幸福」はもはや私だけのものではなくなっていた。私が日々を「幸福」に生きることが、夫や息子が「幸福」に生きることに繋がる。たとえ私が何かのはずみで消えたとしても、私たちの「幸福」な生活の記憶は家族の心に残り続ける。だから、自分ひとりの価値に固執するのをやめて、家族の「幸福」を追いかけている。
 ただ、「幸福」、と鍵かっこつきなのは、これが私にとって本当の幸福であるのか確信が持てずにいるからだと思う。いずれは私も、本当の幸せを追求したくなり、また歩み出すのだと思う。