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社交不安障害(SAD)について(前編 私の体験した苦痛)

 「SADは、悲しい病気です」、と全校生徒の前で言ったのは、校長先生だった。私はその言葉を聞いたとき既にSADの存在を知っていたから、おそらくそれは高校の離任式での出来事だったはずだ。
 SAD。Social Anxiety Disorder、社交不安障害のことである。
 社交不安障害とは、かつて対人恐怖症やあがり症と呼ばれていたものを包括する概念である。社交不安障害を持つ人は、他者に「見られている」状況において過度な不安、緊張、苦痛を感じる。例えば、知り合い程度の関係性の相手との会話や、大勢の前でのスピーチなどで、大汗をかいたり、声や手足の震えが止まらなくなったり、頭が真っ白になったりする。そして、そのような状況を避ける。

 校長先生が具体的に何を話したのかは思い出せない。ただ、人前で話をすることが苦痛であるはずのその初老男性が、「SAD」と「悲しい」の意の英単語「sad」をかけて大真面目な顔でおやじギャグを飛ばしていたことが、妙に心に残っている。笑うに笑えず、聴衆は困惑していたはずだ。しかし、SADの症状に悩まされていた思春期の私は、同じくSAD患者であるその初老男性が、苦しみながらも「校長先生」という大きな役割をこなし、退職を前に全校生徒の視線を浴びながら堂々と話をしているという事実に、心を動かされた。今でも、校長先生と聞けば、その初老男性のことを思い出す。

 スピーチができない。大人数の中で発言できない。一対一でもうまく話せない。話そうとすると、過度に緊張し、鼓動が早くなり、呼吸が乱れ、頭が真っ白になる。人前で楽器の演奏をする時も、同様だ。電話をかけることもできない。お店や病院に一人で行くのが怖い。人前で字を書こうとすると手が震える。外で知り合いに会うのが怖く、外出できない。……まだまだ沢山あった。これらはすべて、私が体験した症状だ。

 高校生の頃、SADの存在を知り、自分はこの病気に違いないと確信した。病院に行ったことはなく、診断を受けたことはないので、厳密には私はSAD患者を名乗れないのかもしれないが、列挙した症状は紛れもなくSADの症状である。
 いつから、何が原因で、このような症状に悩まされるようになったのか、はっきりとはしていない。しかし、思い当たる節はたくさんあった。

 小学3年生の頃、初めて恋らしい恋をした。それまでも心惹かれる男の子はいたけれど、あんなにはっきりと「好きだ」と自覚したのは初めてだった。
 母親に連れられて近所の郵便局に行った日のことだった。私は母が窓口で手続きをしている間、何をするわけでもなくぼんやりと、ふかふかのイスに腰掛けて待っていた。小さな郵便局だったから、誰かが入ってくればすぐに分かった。ドアの開く音がして、キャッキャッと声がしたので見ると、心臓を掴まれた気がした。初恋の男の子が、妹らしき女の子を追いかけて小走りで入ってきたのだ。彼とは、挨拶くらいしても不自然ではない間柄だった。仲良くなる絶好のチャンスだと思った。しかし、何故か声が出なかった。相手は私に気づいているのかいないのか、私の前を素通りして奥の方へ行ってしまった。そして私は母親に連れられ、ついに彼に声をかけることができないまま、郵便局を後にした。
 何でもない出来事だが、私にとってはトラウマとなった。その後、休日に外でクラスメイトと偶然出会うと、過度に緊張し、自然な挨拶ができなくなってしまったのだ。それどころか、どこかでばったり誰かに会うのではないか、そうしたら私は声が出なくなり、変に思われるのではないか、と心配で、休みの日に外に出るのが怖くなってしまった。

 それでも、その頃の私はまだ、人前に立つことに苦手意識はなかった。小学6年生の頃には、全校集会で図書委員長として話をした記憶がある。

 中学生に入学した私には、学校でピアノの伴奏者をやりたい、という小さな夢があった。音楽の勉強をしていた母から教わったピアノを、どこかで披露したかったのだ。きちんと習っていたわけではなかったので、あまり上手ではない自覚はあったが、頑張れば自分にもできると思っていた。
 中学校に入学した直後、チャンスはやってきた。音楽の授業で先生が、合唱曲の伴奏者を募集したのだ。私は勇気を出して名乗りを上げ、一生懸命練習した。しかしそれまで伴奏などやったことがなかったので、印刷した楽譜の貼り方など完全に自己流で、譜めくりのことを全く考えていなかった。本番の日、私は音楽の先生に、譜めくりをして欲しいことをお願いし、先生は了承した。しかし私が弾き始めると、やる気のない男子生徒がふざけて、先生はすぐそちらに行って注意をした。先生は、譜めくりのことなんて全く忘れているようだった。私は譜めくりができず、頭が真っ白になり、記憶を頼りに続きを弾いたが上手くいかず、結局演奏を中断することを繰り返して、ぐちゃぐちゃになってしまった。
 合唱コンクールなどではなくいつもの音楽の時間の出来事だったので、私の演奏のせいでクラスが賞を取れなかったわけでもないし、やる気のないクラスメイトは私の演奏なんて聴いてもいなかったかもしれない。しかし、自分で名乗りを上げておきながら、ぐちゃぐちゃな演奏をしてしまったショックは大きく、私はその後しばらく落ち込んだ。以来、私は積極的に何かに挑戦するということをしなくなった。ステージに立つこと、他人の注目を浴びることを、過度に恐れるようになった。

 おかしい、と気づいたのが中学3年の夏頃である。1年時の担任と、何故だか個室で二人きりになった時、手の震えが止まらず、字が書けなくなった。「書痙」という症状である。
 この担任からは、中学生になったばかりの頃に褒められたことがあった。三者懇談で、「めざめさんは、授業中にしっかり僕の目を見て話を聞いてくれて素晴らしい」と言われたのだ。
 しかし3年生になった私は、授業中どころか1対1でコミュニケーションをとらなければならない場面でもこの教師と視線を合わせることができなくなっていた。他人の視線に対する恐怖心を、はっきりと自覚した時だった。

 詳しい話は割愛するが、中学校では他にも様々なことがあった。いじめを目撃したり、クラスで孤立したり。親しい友人らが皆で自傷癖に走って仲間に入れなくなったり。自分に対する不信感と、他人に対する不信感の両方が育っていった時期だった。

 高校生になると、被害妄想はますます酷くなった。階段で他人とすれ違ったとき、笑い声が聞こえると、自分が笑われたのだと感じて背筋が凍った。自分は周囲から嫌われている、陰口を言われている、仲間外れにされている、と根拠なく思い込み、人の輪に入っていくこと、輪の中で発言することができなくなった。
 高校の授業も地獄であった。教師に指名されると、正しい答えを言わなければいけないというプレッシャーで、心臓が高鳴り、手が震え、頭が真っ白になった。答えが何となく浮かんでいても、自信がなく、声を出すのも辛く、黙っていることを選んだ。そんなことの繰り返しだった。

 年に何回か訪れる、遠方の親戚に会うイベントもまた大の苦手だった。私の父方祖父母は双方とも離婚、再婚しており、血の繋がった祖父母と繋がっていない祖父母の両方がいた。そんなややこしい家族関係も相まって、孫として自分がどう振る舞えば良いのか全く分からなかった。父方の親戚の前では常に緊張して固まっており、話をしようとするとやはり、頭が真っ白になった。
 小さい頃からよく可愛がってくれた母方祖母が相手なら大丈夫だと思っていた。しかし、久しぶりに母方祖母と会った日、緊張で声が出なくなったこともあった。もう自分は頭がおかしいのだと絶望したのを覚えている。

 何をするにしても、他人から「見られている」場面では過度に緊張した。眼科や美容院に行くことすら怖かった。半引きこもりになった私は、ダラダラと勉強をしたり、インターネットの世界に没頭したりして過ごすようになった。
 そんな暗い高校生活を送っていた私が大学生になり、一人立ちするというのは無謀なことのように思えた。しかし東京の人混みの中に放り出されたことが、思わぬ形で私を変えてゆくのである。(後編へ続く)