社交不安障害(SAD)について(後編 私に苦痛をもたらしたもの)
SADの症状に苦しみ、半引きこもりのような生活を送っていた私も大学生となり、上京して親元を離れなければならなくなった。眼科に一人で行くのも辛いのに、知り合いのほとんどいない都会で暮らさなければならないと思うと、怖かった。
当然、初めは失敗続きの日々だった。思い出すだけで恥ずかしくなるような出来事が沢山あった。アルバイトの面接にも、何度落ちたか分からない。
しかし、東京の人混み自体は何故か居心地がよく感じられた。「他人の視線」に恐怖を感じる私だが、人があまりにも多すぎると、その分、他人から向けられる視線は分散され、和らいでゆく感覚があったのだ。誰も私のことを知らない。私がどのような行動を取ろうが気にも留めていない。たとえ何かおかしなことをしたとしても、私の存在なんてすぐに忘れられる。
私が育った田舎町では、若者の遊び場も、人々が週末に買い物に行く先も、だいたい決まっていた。駅周辺に行けば誰かに会い、ショッピングモールに行けばまた誰かに会う。相互に監視しあっているような、そんな窮屈さがあった。上京したことは、そんな監視社会からの解放に他ならなかった。
田舎で生活していたことは、私がSADになってしまった一因であるように思う。親がその土地の人間ではなかった、という事情もあり、私は高校生の頃まで暮らしていた土地に、居心地の悪さを感じていた。自分は「よそ者」であるという意識があった。「よそ者」は決まって、奇異の目で見られる。「視線」を浴びる。
中高生時代、テレビをほとんど見ず、友達と学校以外で滅多に遊んだりしていなかったことも、私の「よそ者意識」の背景にあるように思う。
テレビを見ていないと周りの話題について行けない。また、友達の輪の中心にいないと、誰が誰を好きだとか、あの二人は陰で付き合っているとか、そういう情報が入ってこない。すると、皆がクスクス笑っているのに、自分はなぜ皆が笑っているのかわからない、という状況が生じる。それは、付き合っていると噂の二人がいちゃついたからかもしれないし、誰かがテレビで話題の芸人の真似をしたからかもしれない。でもそんなことは私には分からない。すると、どんどん輪から外れた存在になっていく自分を感じる。さらに、クスクス笑いは実は自分に向けられたものなのではないか?という被害的な思考にすら発展してしまう。
ただでさえ、方言が使えずイントネーションも異なる上に、級友らの話題にもついていけず、勉強ばかりしていた私。周りからはきっと「異質な存在」として見られていたに違いない。そして私は、そんな周りの視線を無意識に感じ取りながら、「よそ者意識」、つまり「私は他人に受け入れられない(私は外れた存在である)という思い込み」を持つようになった。この思い込みのせいで、対人恐怖症に陥り、その結果、ますます人と話すことが苦手になったように思う。
★
私に苦痛をもたらした誤った思い込みは、他にもあった。「他人は完璧である」、だから、「私も完璧でなければならない」という思い込みだ。
私は、世の中の大人たちは絶対間違えたりしないものだと思っていた。例えば、テレビに映っているコメンテーター。よくよく聞けば中身のない発言をしていることもあるのだが、妙にスラスラと話すのでなんとなく聞いていると物凄く頭の良いことを言っているような気がしてしまう。同様に、役所の窓口の人、病院の受付の人、学校の先生、親、友達ですら、スラスラ話している、イコール的確なことを話せていると私は思い込んでいた。
だが実際は違う。人間はロボットではない。どんなに優秀な人であっても、言い間違いはあるし、分からないことを分からないと素直に言えずに誤魔化すこともある。よくよく相手の表情を見ながら話を聞けば、「あ、この人、今間違えたな」とか、「誤魔化したな」とか気づけるものだが、緊張して余裕がなく、相手は正しいことを言っていると思い込んでいると、そのことに気づけない。話の矛盾にただ混乱し、どのように返答するのが良いのか分からなくなってしまう。
他人が皆完璧であるなら、私自身もまた、完璧でなければならないと思っていた。
例えば、喋っている途中で考えが変わることもあれば、上手く言葉にできないこともあるが、そういう時に「ごめんなさい、言ってること矛盾してますね」とか「上手く言えません」とか言えば良いものを、言えない。「てにをは」が変になることすら気になってしまう。そんな風に「完璧にしなくては」、といつも緊張しているので、ますますぎこちなくなり、失敗する。
もしかしたら、私はとてもプライドが高いのかもしれない、と思うことがある。失敗したくない。何か良いことを言って周りに尊敬されたい。そう思っているからこそ、過度に緊張するのだ。
「私は、馬鹿だ。うまく話せないし、間違いが多い。頑張っても凡庸なことしか言えない。でもそれでいい、たとえ周りに見下されていたっていい。」……そんな風に、邪魔してくるプライドを綺麗さっぱり片付けることができたら、もう少し楽に話ができるのだろうか。
親戚と話すときに過度に緊張していたのは、おそらく私が親のコントロール下から抜け出すことができていなかったからだと思う。親戚と「きちんと」話さなければ親から怒られる、と怖がっていたのだ。事実、私の親は、親戚との電話の途中で受話器を私に渡しては、「お礼を言いなさい」などと言うことがよくあった。そして、横で話を聞かれては、敬語がなってないとか、もっとスラスラ話しなさいとか、口うるさく言われたりした。
私の心の中に内面化された親の存在が、私が口にすることにいちいちケチをつけるのかもしれない。親が厳しかったということも、SADの症状に多かれ少なかれ影響していると思う。
今は、親を介さず、一人の大人として親戚と付き合っている。もちろん失礼があってはいけないが、どんな振る舞いをしたって私の自由だと思える。いちいち親の許可を得る必要なんてない。そんな当たり前の感覚が、昔の私にはなかったのだ。
★
大学生になった私は、思い切ってバンドサークルに入った。中学生の頃、皆の前でピアノの演奏をしくじってから心の中に閉じ込めていた、「音楽がやりたい」という夢を、再び現実にしたくなったのだ。
サークルでは、初心者同士で集まってバンドを組んだ。出身も違う、学部も違う、全くの初対面のメンバーで新しい輪を作った。その輪には中心も外れもなかった。そんな輪のなかで、私は少しずつ、自分の意見を言えるようになった。皆は私の意見に耳を傾けてくれた。そんな繰り返しが自信に繋がり、「私は他人に受け入れられない」という思い込みは消えていった。
もちろん、人から注目を浴びることは苦手だったので、ステージに立っても指先が震えてまともな演奏ができないことばかりだった(バンドのメンバーには随分と迷惑をかけた)。しかし、サークルには私と同じように、音楽を愛していても、ステージに立つと舞い上がってめちゃくちゃな演奏をしてしまう人は沢山いた。だから、病気のせいだと考えるのではなく、いつかはまともな演奏ができると信じて練習を続けた。卒業する頃には、少しはマシな演奏ができるようになったと思う。
部活などすぐやめてばかりだった私が、唯一何年も続けられたのがバンドの活動だった。「私はバンドメンバーの中では『よそ者』ではない」という安心感が私を強くしたのだと思う。
★
今では、職場の飲み会の席などで会話についていけなくても、「ああ、私の知らないところで、皆で飲みにでも行っているんだろうな。私は皆のプライベートに詳しくないけれど、それは仕方がないことだ。私はいわゆる『レアキャラ』という立ち位置で、だからこそ私に興味を持ってくれる人もいるだろう。だから、話の流れについていけなくても、ニコニコしていればいいのだ。」と思えるようになった。お酒を飲むのも好きなので、飲み会恐怖症のようなものもだいぶ無くなってきている。
一方、私は未だに職場の会議や討論の席が苦手で、発言を求められるとパニックに陥ってしまう。これが今、一番辛い。単純に私の頭が悪く、思考が遅いことが原因だとは思うが、頭の中が真っ白になり、嫌な汗をかき、言葉が流暢に話せなくなり、しまいには自分が何を話しているのか分からなくなる始末だ。心臓が高鳴り、眩暈もする。そんなことになった後には、毎度、随分と落ち込んでいる。
しかし、私が極端に口下手で緊張しやすいことはもはや周りにバレバレであるし、多少どもったところで「ああ、あの人またどもっちゃったな」くらいにしか周りは思ってないだろう。私と同じく緊張しやすい人は案外存在するし、そういう人であってもよく発言内容を聞けば賢いことを言っていたりする。スラスラ話せなくても、一生懸命考えて話せば、誰かが私の考えを汲み取って理解してくれるかもしれない。
……と、自分に言い聞かせてなんとか冷静さを取り戻そうとしている。
★
現在、育児休業中の私であるが、職場復帰は目の前だ。久しぶりに社会に出たら、せっかく治ってきたSADのような症状がまた悪化するのでは、と考えることがある。
実際、先日も役所に電話をかけた際に高圧的な応対をされて、頭が真っ白になり、自分が何を話しているのか分からなくなったことがあった。私の要領を得ない話し方に、電話の相手も更に苛立ちを募らせたようで、その態度に腹が立つと同時に申し訳なくなった。久しぶりに辛く惨めな気持ちになった。
これからも、頭が真っ白になることは多々あるだろうが、そのことを憂いていても仕方がないと思う。もはや諦めているのかもしれない。
しかし、私がSADを自覚して10年余、できなかったことができるようになった経験は多い。時が流れれば流れるだけ、経験は増えていく。経験が増えれば、きっと未来の私は今の私よりも強くなれる。完璧ではなくても、少しずつ成長していければよいのだと思って、前を向くしかない。