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傷つきあうことは優しさと同じくらい大事

こんにちは!まーさんです。

 相変わらず、「スタンフォード式人生を変える人間関係の授業」という本を読んでいるわけですが、その中で、興味深い箇所がありました。要約すると、

「人間関係において、重大ではないが、気に障る『ピンチ』のときにそのことを伝えないと、その関係が崩壊しかねない『クランチ』に発展することがある。」(p121~138)

「スタンフォード式人生を変える人間関係の授業」
デイビッド・ブラッドフォード
キャロル・ロビン

物凄く簡単に言うと、「相手への不満は、きちんと指摘しよう」ということですが、ここでの例が友人同士であり、私は、「友人同士でも指摘し合えるとは、アメリカらしいな。私の経験上日本で友達や同じ立場の人間にそんなことしたら大抵距離を置かれるだろうな。」と感じてしまいました。

 よく、「最近のZ世代は、指摘されることに弱い」といわれますが、私自身とても苦手なんですよね。そもそも友達とも本気でぶつかったことがないんです。

 なぜこうなったかをさかのぼって考えてみました。子どもは大抵、友達といつも仲良くできる訳ではなく、対立も起こるわけですが、ケンカをしたとき自主的に仲直りをしたことがありません。ケンカって気が済むまで言い争ったあと、(場合によっては拳で語り合い)「ごめんね」と言うのがセオリーですが、そうなる前にすぐに大人に頭を下げさせられます。私は、そもそも「対立が起こることが悪だ」というメッセージにとらえてしまいました。「いつも仲良くあれ」と。「争い」なんて概念が存在しないかのように。

 その延長線上で、いまでも友達に本心をさらけ出しすことは少ないですし、「注意されること」や「指摘されること」を「関係が壊れた」「拒絶」とみなしてしまい逃避してしまうんです。仲直りや謝ることが経験がないから出来ないんです。

 実際、「優しい」が良いとさせる世の中になってしまったから、対立するのが難しくなってしまったのではないでしょうか?

「やさしさ」の意味が、管理社会の進行とともにしだいに「自他を傷つけない」というだけの自己中心的な意味に変容した(p92)

 「対人関係と恋愛・友情の心理学」岡田 努(著)

 「優しい」って一見よく見えますよね。だって一見「関係性が崩壊することのない現状維持」ってことですから。けれど、どんな人間も違いはあって、気に食わないところが出てくる。不満が積もり積もって行く。それを小出ししていかないと、ある日いきなり爆発して崩壊してしまう。小さい規模では人間関係の破綻。究極的には殺し合いになってしまう可能性があります。

 昔予備校時代、「戦争と平和は表裏一体で、平和のときに起こった小さな不平不満の発散として戦争になる」ということを習いました。塾での勉強に疲れた子供が、道端で騒ぐように、ハレとケの概念、陰と陽の概念ののように、貯まったものはどこかで発散するのがこの世の断りです。

  理性を是とすることを前提としたいまの世は禁止するだけして、それを見て見ぬふりをしてしまっているのではないか。「優しい世界」は、暴力性を孕んでいるのではと思ってしまいます。「対立すること」よりも激しい暴力性を。たんこぶで済んだことが、銃殺になるんでしょう。

 伝え方に気を付ければ、そして謙虚さを持っていれば、たとえ対立したとしてもきっとより深い関係性を築けるはず。一歩踏み出して会話することを忘れずに。相手からの批判も快く受け入れられるように。それを肝に銘じて生きていこうとおもいます。

 


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