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創作と少女

最近のモットーはあらゆるものにフッ軽でいることだ。
ある程度の金と時間は惜しまず、人から誘われたらとりあえず行くし、勧められた作品はとりあえず観る。
というわけで後輩から勧められた2作品を観た。
「眩」と「玉城ティナは夢想する」である。

感想を正直に言えば、よく分からなかった。
少なくとも私のための作品ではないな、という感じだった。
とはいえ「合わなかったわ」では合わせる顔がないので、両作品とも2回観て、何が彼女の心を震わせたのだろうという視点から作品の良さを探ることにした。

すると両作品にある共通点があることを発見した。
その発見とはつまり、どちらの主人公も「少女的な自意識」を持ち合わせていることである。

少女的な自意識、少女性については研究がなされているらしく、興味深い研究があったので以下に載せる。

「少女型意識」すなわち、「少女性」が求めるものとは「自由」と「高慢」であり、それ故に「少女性 」はこれを持つ人格を押さえ付けようとする圧制的な力を何より嫌う。
(中略)
このような「少女性」にとっては、制御できない自己の身体でさえ、「他者」、「抵抗するべき外的な力」になりうる。自分を「女」にするまい、「女」になることを恐れる心性が「少女性」の本質の一つであることには違いないだろう。
 すなわち、意のままにならない女性としての身体、時がくれば初潮を迎え、彼女自身理解し得ないところで子を孕む、そのような自分自身であって自分自身の制御し得ないものへの畏怖でもあるだろうし、またそこから押し付けられる社会的な役割への恐怖でもあるだろう。どちらも「少女性」を備える自我の自由を失わせるものだからである。

藤澤佳澄『女性における「処女性」に関する臨床心理学的研究』: 「少女性」との対比から

この少女性で線を引けば、両作品ともに明確に形が現れてくる。

葛飾北斎の娘にして「眩」の主人公、葛飾応為は「不器量なくせに化粧はしない、髪はぼうぼう」な女。町絵師の夫の絵を馬鹿にして離婚した後、父親の仕事を手伝うようになる。

ここに一つ、応為の少女性がある。
化粧も髪を整えることも、町絵師の夫の元で針仕事をさせられるのも、彼女に言わせれば社会的な圧力である。
そんな圧力の中で「女」として生きるよりは、尊敬できる父親の元で「娘」をやっていたほうが、遥かに自由で気分としては楽だ。

描写としては単に自分の外見よりも絵と内面世界に拘っていたという風だが、「箸を持つより鉛筆を持つのが好き」という自我の自由を失いたくなかったという点において彼女の少女性は否めない。

かんじんなのは給餌行動の中で、オスとメスが「親子ぶりっ子」を演じていることだ。親子関係が、親和的なスキンシップの原型であることは、言うまでもないだろう。交尾のためには、オスとメスは肌をすり寄せなければならない。おたがいに攻撃性の解発を抑えあいながら接近するためには、親子ぶりっ子はたいへん効果的な求愛信号となるのだ。ただし無力な子どもの側に立つのは、いつもメスなのだが……。

上野千鶴子「セクシィ・ギャルの大研究」

恋人関係にあっても「親子ぶりっ子」を演じたがる女性は、父親──というよりは父性と切っても切れない関係にある。
肉体関係にあった渓斎英泉にしても、応為は彼の「優しさの毒」を食らう訳だが、なんだかその優しさもどこか父親的なのである。

結局、応為は渓斎英泉も父親も亡くし、「少女」ではいられなくなってしまう。
彼女は生涯を通して光と影の描写に拘り、父親という光を通して自分という影を見つける画家人生ではあったが、その自由と高慢さに、また少女らしい生き方に目が眩んだ人も多いのではないか。

玉城ティナは夢想する

「玉城ティナは夢想する」もまた少女的である。
本作品では私が玉城ティナだったら、と夢想する主人公A子の、現実と夢がシームレスに描かれる。

ところで玉城ティナと葛飾応為を演じた宮崎あおいには共通点がある。
どちらも容姿にどこか幼さがある、という点だ。
なんというか、年齢に伴う色気みたいなものがない。
少女的な可愛さ、というシグナルが顔や髪や体から発信されているのである。

A子もきっと、その玉城ティナの少女的な可愛さに憧れたのだ。
体操服を着ていたのも、あの頃に、まだ私が可愛い少女だった頃に戻れないか、という絶望的な期待だった。
着てみたところで、忌々しい胸の膨らみや成熟した骨格の際立つのみだった。
ああ、玉城ティナだったら、あの愛くるしい女の子だったら、先生だって私のことを。

……ってな具合ではないだろうか。
なんだか変に筆が乗ってしまった。

奥ゆかしいとでもいうべきだろうが、少女性をテーマにするならもう少し分かりやすい方が好みである。
というのも、「『少女でいたい』と思ってはいけない」という倫理観が、ノイズになっているような気がしてならないからだ。
少女でいたいけど少女でいられない肉体や環境の変化に対する内心を細やかに描写するのは女性作家の専売特許であるから、もっと誠実でもいいはずだ。

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