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【日記】5月20日 共感は教養するものではない

甲子園が中止と聞いて、Official髭男dismの「宿命」を聞いていたら泣けました。去年の甲子園で感動したなぁと。

私が言うのもおかしいですけど、悔しいですね。どうしようもないことだし、一生懸命目指してきたものがなくなるっていうのは、どんな気持ちなのか、図り知れません。ただ、怖いからそんな状況に直面したくないですね。

最近、気持ちが滅入ることが多いです。多分幸せに気づけていないのだと思うのですが、それ以上に、若い著名人の方が亡くなったり、Twitterでは気持ち悪いということにばっかり共感してしまう。

なんでなのでしょうか。

話は変わって、弟の中学校の課題で「職業調べ」というものがあり、インタビューをしたい、と。答えたのですが、ほんとなんでこんな課題をやるのかがよく分からないなぁと思いました。

インタビュー内容は、結局学校というか、先生が考えたもの(教科書にあるものかもしれないですが)。それって各自が作らないと聞く意味なくないかなぁ?と。

先日Twitterでも、教育現場上の違和感に出会いました。これがまさに、気持ち悪いということにばかり共感してしまう、これ。

内容は、小4の国語で、同じを見つけて同じを喜ぶ、共感を喜ぶ、という教科書に載っているもの。本当に気持ち悪いなと思いました。国語で習うことじゃない。共感=うれしいも気持ち悪い。

私自身ですが、小学校の授業参観のときに、国語の何かの話、カエル君が死んじゃう話で、みんな「かわいそう」と言っている中「自業自得だと思いました」と発表をしました。極端な子供ですね。

感じ方は、人それぞれ。小学校は、どんな大人を作ろうとしているのでしょうか?日本の義務教育は、同じ人間を作ろうとしているのでしょうか?小学生のころに、感じることって、大人になった時の考えの基になると思うのです。習慣とかと同じで。変な話、感じたことや環境で性格が決まると思うのです。

「共感」=良い、という気持ちもわかります。でも、「個」がなくなりませんか?答えは出ないと思いますが。

だって、共感して、意気投合して、一人で実現が難しい考えていたことを二人で実現することができることもあるんですもの。これもまたきっと素晴らしいこと。アイディアが交わって、思想の実現はとても良いですね。

気持ち悪い、おかしい、変だ!という気持ちばかりではなく、幸せを見つけることを明日からは意識します。短いですが、ここで。