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枕詞としての「ごめん」

私の身の周りは謝罪の言葉であふれている。

例えば、こういうの。

私「明日って何時どこ集合?」
A「あ、ごめん!明日は12時にー」

皆さんもきっと経験したことあると思う。自分は、ただAに確認のつもりできいただけで、別にAを責める気はない。それなのに、Aは謝罪の言葉からコミュニケーションを始めている。

こういうとき、私は何とも言い難い「腑に落ちない感じ」を得る。Aの「ごめん」は、意味のない唯の枕言葉だって分かっているけれど、それでも無意識に、「私なんかしたっけ・・・?」って思ってしまう。


Aのように、謝罪の言葉(すみません、とか、ごめん)は、できるだけ枕詞として用いない方が良いと思う。その理由は二点。

①謝罪の価値を貶める

第一に、謝罪の価値を貶めるということがある。枕詞として、無価値な謝罪の言葉を使う人に

「どうして誤るのか」

と尋ねれば、ほぼ確実に

「特にイミはない」

という返事が来るはずだ。

本来気持ちをこめて言うはずの謝罪の言葉を、こんなにもあっさりと使うのはある種危険ともいえる。普段から気軽に「ごめん」を使いすぎているあまり、謝罪の場面で「ごめん」を言っても、相手にはきっと響かない。普段かなり安売りしている商品をわざわざもらっても嬉しくないのと同じ。

②結局「社交辞令」として機能しない

きっと、謝罪を枕詞として使うのは、「社交辞令」に似ていると思う。

社交辞令:特に実現する意思はないけれど、相手とのコミュニケーションを円滑に進めるために使われる言葉 

と私は認識しているが、この点がまさに「ごめん」と一致すると思う。

しかし、「ごめん」は必ずしも社交辞令としては機能しない。それは、「ごめん」を言われた人が、「腑に落ちない感じ」を得る可能性があるからだ。

相手が「腑に落ちない感じ」を得ているのに、コミュニケーションが円滑に進むはずはない。もしかすると、「ごめん」は潤滑油というより、むしろ接着剤として機能してしまうかもしれない。「ごめん」を言われた人が、「ううん、大丈夫」と、相手を気遣う謎の発言をすることによって、コミュニケーションの障害となるかもしれない。


以上二点より、「ごめん」は自分にとっても、相手にとっても有益ではないと思う。

しかし、現実には、こうした「ごめん」は至る所でみられる。なぜか。

それは「ごめん」文化が日本文化に定着してしまっており、もはや我々は「ごめん」に謝罪の意味はなく、それが枕詞で使われていると見抜くことができるだけのリテラシーを身に着けているからだ。

次は、「ごめん」文化が日本文化に定着している理由について、書いてみたいと思います。

ではでは(*´▽`*)





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