勝手に書評|レベッカ・ソルニット|ウォークス 歩くことの精神史
レベッカ・ソルニット著、東辻賢治郎訳(2000/2017邦訳)『ウォークス:歩くことの精神史』左右社
タイトルにある通り、「歩くこと」に関して書かれた本である。英語の原題は、「Wanderlust: A History of Walking」となっており、さまよい歩くといった放浪的な意味合いも含まれているかもしれない。必ずしも目的地へ行くための歩くことだけではないことが、本書を通して様々な角度から書かれている。
タイトルからもテーマは「歩く」というシンプルなものだとはすぐ分かるが、本書は分厚く500ページ近くあり、最初手に取った時はどんなことが書かれているんだろうと気になった。実際に読み進めてみると、たしかに歩くことを普段私たちは意識しないが、実は肉体的、精神的な意味から、政治的、宗教的な意味まで様々な意味があるということに気付かされた。
本書は以下の4部構成となっている。
第1部 思索の足取り
第2部 庭園から原野へ
第3部 街角の人生
第4部 道の果てる先に
それぞれ、第1部では歩きながら考える、あるいは考えながら歩くということについて、第2部では自然と歩行のつながりやそれに関する文化、第3部では主に都市部で歩くことが持つ意味について、第4部では現代社会において歩くことがどう変化しているかについて書かれている。
しかし、簡単にはまとめられないほど、その内容は多岐にわたっており、読者自身も本の中や頭の中で様々な場所を歩くこととなる。そこで、ここでは私自身が本書の中の時に道なき道を歩き、そこで印象に残った場面をいくつか挙げようと思う。
まず歩くことというテーマ自体について。ウォークスというタイトルを見た時に、歩くことは何か特別な意味を持っているのではないかということを勝手に想像した。しかし、本書の冒頭で、その反対のことを言われて私は安心し、本を読み進めることができた。
つまり歩くことに関しては、「誰もがアマチュア」(p.11)であり、本書はその「ありふれた行為に賦与している特殊な意味を考える」試みであるのだ。そして、人間は生きている以上、身体を伴っており、ソルニットは歩くことの身体についても度々言及している。
しかし、現代社会において、歩くことの役割の大半が自動車や電車に取って代わられてしまっていると著者は指摘する。その上で、多くの現代社会に生きる人々にとって歩くことは、レジャー的な意味合いにまで縮小してしまっており、その最たる例としてトレッドミル(ランニングマシーン)を挙げている。
一方で、歩行の歴史を見れば、科学や文化といった様々な分野において歩くことは明言されないまでも注目され様々な意味が見出されてきた。中でも歩くことの政治的な意味は、世界史の教科書にも何度も登場する。
パレードやデモ、ストライキのように、歩くことは政治的・社会的にも大きな意味を持ってきた。その根底にあるのは、誰もが参加できる、ということだ。ただ歩く、あるいはその場にいることで、何らかの意味が与えられ、意思表示をすることになる。ガンディーの非暴力運動も、それに影響を受けたキング牧師の人公民権運動も、定められた場所に集まり歩くことで、政治的な志を達成してきた。そしてそれは国レベルの大きな志ではなくとも、身近な日常でも起きうること、起こせることだと述べている。これはプラグマティズム的かつアナキズム的な視点とも言えるだろう。
以上のように、歩くというありふれた行為には、歴史的にも様々な意味が附随されてきた。それを紐解くことで、歩くという普段何も意識しなかった行為が急に、特別な行為になったように思われる。しかし、それも本を読み終わった数日の間だけで、再び私たちは無意識に歩き出す。歩くとはそれほど自然な行為であり、だからこそ多くの人たちが、迷った時、壁にぶつかった時、何か行動を起こしたいと思った時、考えるために、考えないために、歩き始めた。何もしていないように見えるただ歩くという行為が、無限の広がりを持っているのだと気付かされてくれたこの本に、なぜだか勇気づけられた気がする。
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