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『東の海神 西の滄海』読書感想文 ~雁州国へのラブレター〜

 最近、十二国記シリーズの再読をしていて、私にとって1番心がときめき勇気をもらえる『東の海神 西の滄海』を読み返したので、今まで心の中にぼんやり点在していてしっかりとまとまっていなかった作品の感想を、少しでも1つの文章にまとめてみたいと思い、読書感想文を書いてみました。
 と!思ったら、めちゃくちゃ長くなったので、少しでも読みやすい形態になるかな?と思って、初めてnoteに投稿してみます。
 私、だいたいいつもこの作品について思いの丈をTwitterで叫んでいて、今回は今までばらばらと書き連ねていたことをできる限りまとめつつ、少しいつもと違う切り口での話を意識したいな、と思っています。

 作品のネタバレ満載なので、読んだことない方はこの投稿は読まずに作品の方を読んでみてくださいね。というか、おそらく読んだことないと何の話をしているのかまったく分からない文章になっていると思います。
 少し十二国記シリーズの他の作品にも触れるので、十二国記シリーズ全体を読んでいただきたいな。『魔性の子』もしくは『月の影 影の海』から読んでいただくのが個人的おすすめです!

※こちら、後から追記しているのですが、全部書き終わったところ、この作品が好きすぎて、狂気の約5万文字の感想文(感想文…なのか…?)に仕上がりました。
 もし読んでくださる方がいらっしゃるなら、そのくらいの分量があると念頭に置いて、ゆっくりでも少しずつでも読んでいただけたら嬉しいです。
(5万文字って、読むのに1時間半くらいかかるらしいですよ!)
 もしかしたら結構、独特の解釈をしているかもしれませんが、全部に共感できなくても、何か1つでもどなたかの心に届いたらいいな…!と思っております。長すぎてそれ以前の問題かもしれないけれど。
 それから、作品のタイトル、長いので、だいたい『海神』と略しております。



延王尚隆の魅力と手腕

 突然の自己紹介なんですけれど、私は小松尚隆という人間に心底惚れ込んでおります。
 自己紹介終了です。本当に年がら年中この男のことを考えているので、私のことを知る方からしたら、またそれ…?という変わり映えのしないお話になってしまうのですが…。
 でも、やっぱりここは、多少なりとも触れておかないと、海神感想文が始まらない気がして!

 私はね、尚隆さまの人間性が大好き!!

 周囲を安心させるため、周囲が希望を持ち続けられるために、どんな状況でも泰然と構えて笑う強さが好きです。人のためならどこまででも強くなれる人なのだと思います。そういうところが大好きです。 

 まず一章の始まりから、国の終焉を思わせるような、すべてが飢え干からびた光景を見て、「これだけ何もなければ、かえって好き勝手にできて、いっそやりやすいことだろうよ」と言って笑うところからして、好き…!!
 もうこの作品、この冒頭の言葉と振る舞いで、私は速攻でこの男に心を掴まれました。

 目の前の光景の凄惨さだとか、それを自分が解決していかなければならない重責、一刻も早く動き出したい焦り…そういったものを、感じていない訳がないと思うのですよ。
 普通の人間なら感じるでしょう。しかも、後で分かることですが、尚隆はここに至るまでに自分が領主として守らねばならなかった国を失くしていますからね。
 それでまた、苦難にあえぐ民を見て、荒廃に曝された国土を見て、その国を自分が任され背負っていて、何も感じない訳がないんです。

 それでも、隣で同じようにその重責を感じている六太を安心させるために、すべてを押し隠して笑うのです。

 もう、これだけで大好き…!

 そしてこの人、終始この姿勢を崩さないのです。

 蓬莱で、小松の若、そして領主だった頃から、ずっとそう。
 戦を仕掛けられて勝ち目のない状況になっても、「気楽にしておれ。なんとかしてやる」と言って領民を安心させます。
 実際、尚隆は、戦の勝ち目がないことは分かっていても、一人でも多くの民を逃がすことに関しては諦めていなくて、最後まで策を考えていたのではないかと思います。だって、最後の瞬間まで、民を逃がすために戦っていましたから…。
 敵に囲まれて、どうしようもなくなっても、最後まで、民のことを「何とか助けに行きたかった」と思って戦っていた人だから…。
 だから、尚隆は、一人でも民を生かすこと、逃がすことに関して、諦めていなかったのではないかと思うのです。
 そのためには、民が希望を失って諦めてはいけませんからね。
 どんな時でも、周囲の守るべき人に希望と安心感を与えられる人、大好きです。

 こういうところ、雁の王になってからも変わりません。

 官吏たちに暢気者だ、真面目にやれ、と言われながら、ふざけているようにへらへらと振る舞っている。
 そう振る舞うことで、下で働く者たちを不安にさせたり気を張り詰めさせたりしないように空気を作っているのだろうな、と思いますし、一方で、あえて侮られる態度を取ることで、奸臣を油断させて動きを封じつつ、本当に信頼できる心ある優秀な人物を見極めてもいるように思います。

 そうして見出した人材を、要職に据える手腕も凄いんですよね。
 直接民の利益に繋がる要職に信頼できる側近を置いて権を与えつつ、官位としてはそれほど高くない位置にとどめることで、私欲に塗れた邪な官吏たちの余計な妬みや争いの種も防ぐ。
 えっもう有能すぎて切れ者すぎて、めっっっちゃくちゃかっこいい。
 この人を見る目、人員配置や政治的手腕があまりに鮮やかで痺れてしまいます。

 私、尚隆の優先順位のつけ方も好きなんです。
 先王時代に専横を極めた官吏たちの整理は、内乱のもとになるからとすぐには手を付けずに泳がせておく。
 税をくすねるくらいの小悪党はしばらく放置し、それよりも民が食べいけるように、土地を治めることを最優先にして、自ら見出した限られた数の信頼できる官吏を土地を治める要職に就ける。
 何よりも民の生活を最優先にし、それが実現できるよう、諦めるところはすっぱりと諦めてゆっくり進める。
 そうした尚隆のやり方、優先順位のつけ方に、頭の良さや思い切りの良さをひしひしと感じて大好きなのです。

 めちゃくちゃ色々考えて、先を見越した上ではっきりと優先順位をつけている。
 そこに尚隆という人物の聡明さを感じます。

 それでいて、周囲には、側近たちや右腕たる宰輔の六太に対してまでも、暢気に構えて振る舞い、深刻な姿を見せないんですよね…。
 むしろ、表ではふざけたり遊んだりしているように見せている。
 それで側近たちは苛立ったり、苦労してもいるのですが…笑

 でも私は、尚隆のこの振る舞い方の本質は、のちに驪媚が語った「王が鷹揚に構えていらっしゃるから、あの惨状の中でもわたくしどもは絶望しないでいられたのですよ」だと思うのです。
 この驪媚の尚隆評が私は大好きで…!

 本当に、妖魔すら飢える荒廃を見て「かえってやりやすい」と笑ったところから、いや、小松の若君として最後まで「なんとかしてやる」と笑っていた頃から、尚隆はずっと、隣にいる誰かのため、荒廃や先王の暴虐に苦しんできた民と官吏たちのため、人を絶望させないために、希望を持って前に進む力を与えるために、いつでも自分の弱さや苦悩は見せないで、明るく余裕があるように振る舞っているんだなと、この驪媚の台詞で確信できるのです。

 王宮を抜け出して市井に降りて遊んだりしているのも、王として考えなければならないことがたくさんある中で、自分のことを落ち着ける息抜きで、そうすることで、周囲に余裕のない振る舞いを見せないように自分をコントロールしているのだろうな、と思います。それと、足元掬おうと様子を窺っている奸臣たちを油断させる意図も少しあるのだろうな、とも思います。
 へらへら振る舞っているように見えて、実は自分のことすら俯瞰的に見てコントロールしている、尚隆はそうした、視野が広く冷静な人物なのだと思います。

 そんな尚隆の人間性に、上に立つ者としての強さと優しさ、強い意志を感じて、私はそんな尚隆がとても大好きなのです。



延王尚隆の本心

 さて、尚隆はそんな人物であるがゆえに、あまり本音を見せないんですよね。
 いつも飄々と振る舞っていて、ふざけて遊んで、側近たちに呆れられている。
 六太が誘拐されて自分の身と立場が危うくなっても変わらず軽口を叩いている。
 国が滅亡の危機に瀕していても「なんとかしてやる」と笑う。

 一方で、そんな尚隆だからこそ、本心の見えるシーンや台詞の真剣さが胸に迫って、尚隆という人間の魅力をより一層深めていると感じます。

 普段あまり見せないからこそ、ところどころで発露する尚隆の本音が見える台詞や態度が、私は本当に大好きです。

 尚隆が本心を見せているな、と感じるシーン、いくつかあるのですが、特に好きなをシーンを挙げてみます。

 まず、尚隆が元州城に単身乗り込んで、六太と再会し助けるシーン。
 血に病んで道に迷い、意識も危うくなった六太が、尚隆の声を聞き、明るい光を感じ取って安堵するシーンが私、作中で1番、大好きなシーンなのですが、ここで、歩けない、と言う六太を背負って尚隆が言う言葉が、個人的に胸のときめき最高潮の台詞なんですよ…!

 ちょっと引用します。

その声はごく微か、衣擦れに紛れそうな具合だった。
「……あまり心配をかけるな」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.282

 えっっっもう……最高すぎませんか………。

 これより前に、六太が誘拐されたと分かった時、尚隆が王宮で側近たちと状況分析をしているシーンがあるのですが、尚隆はそこでは、「殺して穏和しく死ぬような餓鬼か、あれが」だとか「俺が心配して、それでどうにかなるのか?」だとか言ってるんですよ。
 それが!衣擦れに紛れそうな声で!!
 六太だけに聞こえるように!!
 「あまり心配をかけるな」ですよ!!!!!!

 あ~~~~~!!!!!あなたの本音はそっちなんですね……!!!!!
 って、なるじゃないですか!!!!!

 本当は、とっても心配していたんですよね…。それを、周囲には見せない。
 けれども、本人には、きちんと、零れ落ちるようにその本音を伝えるんですよ。
 うっ……胸が苦しい………こんなのもう、好き…って、完全に心を掴まれてしまいます……。

 それから、驪媚が牧伯を引き受けた際の、驪媚の回想シーン。
 ここも尚隆の本音が見えるシーンとして外せないと思っています。

 牧伯は州城に入り州侯を監視する役目、もし州が謀反を起こすことがあれば、真っ先に身が危うい職だと言い、「死なせるにはあまりに惜しいが、お前のほかに行ってもらう者がない」と、普段見せない真剣な顔をして伝えるんですよね…。

「――行ってくれるか」
「喜んで拝命いたします」
 尚隆は軽く頭を下げた。済まない、と低く沈痛な声が聞こえた。その声音で、驪媚は一切の覚悟を決めたのだ。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.215

 うーーーん。好き…。
 このシーン、尚隆も驪媚も大好きです。

 いつもおおらかで泰然としている尚隆が、低く沈痛な声で頭を下げるんですよ…。
 それは!それは!覚悟を決める気持ちも分かる…。
 心からの、誠実な態度が伝わったから、驪媚は覚悟を決めたんですよね…。
 誠実さや真剣さ、人は見抜くものだと思います。
 尚隆の国を想う真剣さと、危険の伴う役割を背負わせる苦悩、嘘のない誠実さを見て、驪媚は尚隆の同志となって、国の礎として生きる覚悟を決めたのだと思います。
 でも本当に、いざとなれば国と王のために死ぬ、というのは凄まじい覚悟だと思うので、ここまでの覚悟を本気で決めた驪媚の強靭な意志が、堪らなく好きです。

 このシーンは、基本的に飄々とした振る舞いをしている尚隆が真剣な顔を見せる重要なシーンだと思っています。
 尚隆が珍しく、まっすぐに真摯な本心を人に見せているシーン。
 だからこそ、これが尚隆という人物の本質なんだなと、ふざけているようにすら見えるおおらかな振る舞いの奥には、こんなに真摯で誠実な本心があるのだなと、そんなものを見せられたらもう、私は尚隆のことを好きにならざるを得ません…。

 この尚隆の本質に触れて、驪媚が心から尚隆を信じているのもとても好きです。
 私は十二国記独特の、王と麒麟の運命的で唯一無二の絶対的な主従関係も大好きなのですが、人と人との間の、その人の本質を見て選択して結びつく主従関係も大好きです。
 人の選択、そして意志によって結びつく強固な関係。それってとても尊いものだと思います。
 尚隆の真摯な本心や誠実さに触れた驪媚が、一貫して尚隆の人員配置や政治手腕に対する理解度が高いのも、大好きです。同志なのですよね…。
 驪媚は、尚隆の真剣な本心に触れた、数少ない人物。その驪媚がずっと、一貫して尚隆を信じているというところに、人の真剣な心はきちんと相手に伝わるものなのだと感じます。

 尚隆の本心が見えるシーン。最後です。
 最後と言いつつ3つあるのですが(!?)、作中で尚隆が怒っているシーンです。尚隆はおおらかで寛容な人物ですが、作中で結構怒っていて、その怒っているシーンが私は大好きです。なぜなら、尚隆が怒っているシーンは、どの場面も共通して、尚隆が民を想い、民を大切にしているがゆえの怒りだからです。
 本当は3つすべてを詳細に語りたいのですが、長くなってしまうので、該当シーンの中から特に、という部分を一気に抜粋してしまいます。

 まず、小松滅亡の前夜です。村上勢に陸の領地を奪われ、敗戦が見えてしまっている状況で、領民たちから小松の再興のために「落ち延びてください」と嘆願された際のシーンです。

「――ふざけるな!」
 尚隆が怒鳴って、老爺は一瞬身を竦め、驚いたように尚隆を見上げた。
「俺はこの国の主人だぞ。この国の命運を担っておるんだ!それを民を見捨てて逃げろと言うのか‼」
「命運を担っていればこそ。――なにとぞ」
「俺は若さまと呼ばれて、城下の連中にちやほやされて育ってきた。いまここで見捨てて、連中に何と申し開きをするんだ!」
「――若」
「若、と呼ばれることの意味を分からないでいられるほど俺は莫迦ではない」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.238

「俺一人生き延びて小松を再興せよだと?――笑わせるな!小松の民を見殺しにして、それで小松を興せとぬかすか。それはいったいどんな国だ、城の中に俺一人で、そこで何をせよと言うのだ!」
 臣下一同、平伏したまま身動きもない。
「俺の首ならくれてやる。首を落とされる程度のことが何ほどのことだ。民は俺の身体だ。民を殺されるは体を刳られることだ。首を失くすよりそれのほうが余程痛い」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.239

 は~~好き…。このシーン、私、作中で1、2を争う好きなシーンなので…ちょっとかなり熱がこもってしまいますけど、本当に長すぎるのでどんどん次に行きますね。

 元州に入り込み、六太を助けた尚隆が、更夜と六太の会話を聞いて、「全部滅んでしまえばいい」と言ったことに対して激昂するシーン。

 「ここはお前の国だ!」
 突然、尚隆が声を上げた。六太も更夜も、立ち上がった男を驚いて見上げた。
 「――斡由だけがお前のものなのではない。この国はお前のものなのだぞ」
  六太は視線を逸らす。
  「尚隆、……無駄だ」
  「――ふざけるな!!」
 六太に怒鳴って尚隆は更夜を振り返る。
  「国が滅んでもいいだと?死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が!民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ⁉」
 更夜は瞬いて尚隆を見上げる。
 「民のいない王に何の意味がある。国を頼むと民から託されているからこそ、俺は王でいられるのだぞ!その民が国など滅んでいいと言う。では俺は何のためにここにおるのだ!」
 敗走する人々に向かって射かけらる矢。城も領地もそこに住む人々も一切が炎の中に消えた。
 「生き恥曝して落ち延びたはなぜだ!俺は一度すでに託された国を亡くした。民に殉じて死んでしまえばよかったものを、それをしなかったのは、まだ託される国があると聞いたからだ!」
 ――国が欲しいか、と六太は尚隆に訊いた。
  「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいるのだ、……更夜」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.293

 はい、好き……。
 好きすぎます、あまりに良すぎるのですが、いったん最後のシーンに行きます。

 最後ですが、元州謀反の決着がついて、六太が尚隆に話しかけるシーンです。

「……ひょっとして、怒ってるのか?」 
 尚隆はようやく視線を西の空から断ち切って六太を見る。
「怒っていないと思うのか?お前が迂闊に攫われたせいで、一体何が起こったか分かっているか?」  「……悪かったよ」
「許さんからな」
 低く言われて、六太は尚隆の横顔を困惑して見上げた。
「亦信と驪媚と子供と。少なくとも三人だ。俺の身体を三人分、お前は刳り取ったに等しいのだぞ」
 六太ははっと顔を上げる。
「俺は民を生かすためにいるのに、麒麟のお前がみすみす死なせた」
「救う手立てはなかったのか。麒麟は慈悲の生き物というが、慈悲を与える相手を間違えていないか」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.331

 う~~~ん…好き…。(感想全部そればかり笑)

 はい、という訳で、尚隆が怒っているシーンをまとめて挙げたのですが、もう、並べると顕著かと思いますが、全部、自分の民を、とても大事に想っている…!!
 民を大事にしていて、一人でも多くの民に生きて、幸福であってほしくて、それを実現するために自分がいると思っている。そして、民の命や幸福を奪われることを何より厭い、それがたとえ民自身であってさえ、自分の命や幸福を犠牲にしたり蔑ろにしたりすることを絶対に許さず、そうした言動に対して激しく怒るんですよ…。
 尚隆が怒っているシーンは全部、民の命や幸福を大事にしたくて、それらを守りたくて本気で怒っているんですよ。

 えっもう…素晴らしすぎませんか…。
 こんなにも他者を心から想えるって、人として、あまりにも純粋で器の大きい人物すぎませんか…。為政者として、あまりにも信頼できる人物すぎませんか…。
 尚隆の!この、民に対する想いの強さ、熱さ、民が生きて幸福であることが自分自身の幸福であると本気で思っているところが、私は本当に心から大好きで敬愛しています!!

 尚隆は普段、飄々としてのんびりと構え、周囲には笑顔で気安く振る舞う人物なので、この人が怒りを見せるというのは、本気で逆鱗に触れた時だけだろうと思うのですが、つまりはこの怒りというのは、本心を曝け出したものだと思うのです。
 その、本心が、どこまでも純粋で強く優しい、民を想う心と、民を生かし幸福にするという信念…。

 飄々とした態度で隠された本心が見えた、と思ったら、その本心がこんなにも純粋で強く優しい、民を想う心だった、と。
 もうもう!!そのことを知ってしまったら、この人のこと大好きにならざるを得ないじゃないですか…!!!

 本当に、尚隆の、「民は俺の身体だ」、「俺は民を幸福にするためだけにいる」という信念がぶれないところ、大好きで尊敬していて憧れてやまないところです。
 あまりにも人としての器が大きすぎるし、心に嘘がなくまっすぐすぎる…。 

 という訳で、尚隆の本音が見えるシーンを、いくつか挙げてきましたが、私はこの、尚隆の本心がところどころで明らかにされていく描写が本当に大好きです。
 尚隆の本心は、本当に真摯で、人に対して誠実で、優しくて、どこまでも民想いで、民を幸福に生かすことを心から望んでいて、そのための強い覚悟と信念に満ちている。
 それが、本心が見えるシーンで一切ぶれないところから、それだけ確固たる信念であるということを感じられて、あまりにも信頼できる人物だと思うのです。

 先の項目で、周囲に見せる尚隆の振る舞い方が好き、という話をしましたが、その振る舞いの奥の、普段あまり見せない本心が見えてくると、その本心があまりにも優しくて気高くて、こんなのもう、大好き…と崩れ落ちてしまいます。 

 尚隆の、普段から周囲に見せているおおらかで泰然とした振る舞いも、その振る舞いの下に見え隠れする民を想う愛情と信念も、どちらも尚隆という人間であって、そのどちらもが堪らなく大好きです。 

 本当に、心から民想いなんですよね。
「市街に降りて民が暢気にしているのを見て満足するのが唯一の楽しみ」と評されているのも大好きです。
 民が平和に暢気にしているのが自分の楽しみで、民の幸福が自分の幸福なんですよね。
 民の生活を見て幸福を感じ、楽しみながら、民の生活がより良くなるには何が必要か、何が求められているのか、常に自分で感じ取って、国の運営に活かしているのだと思います。
 民のため、と、自分の幸福、がどこまでも一致している。
 心から民を想っている、愛情深くて優しい人だから。
 そんな尚隆が大好きです。

 え~もう、全部大好き!!!!!



延麒六太の苦悩と信じたもの

 ここまで、導入も兼ねて、尚隆の話をしてきましたが、ここで少し視点を変えて、尚隆を王に選び、宰輔として支える彼の半身、延麒六太の話をしたいと思います。 

 私、この『東の海神 西の滄海』という作品は、この延麒の六太の葛藤がかなり、シリーズの中でも独特で、この作品に深みを持たせている要素なのではないかと感じています。

 と、言うのも、十二国記シリーズは、天帝が作った世界の理があって、その理と仕組みが前提としてできている世界の物語で、「麒麟」という存在は、その核にあるような特別な存在だと思うのです。
 麒麟は本能で王を選び、選んだあとは王に忠誠を尽くして王を補佐し支える。
 麒麟とはそういうものであるということは世界の大前提として存在している。

 ところが、六太は胎果で、室町時代の日本に生まれて、こちらの世界の子どもとして育ち、動乱の世の犠牲になって親に捨てられた経験を持った麒麟なんですよね。
 普通、麒麟は蓬山で育てられ、幼い頃は人の姿ではなく獣として育ち、物心ついた頃には自分は麒麟で、王を選ぶものだ、と、そういうものだと自然に受け入れるように育てられるのだと思います。けれども六太は、蓬莱で普通の子どもとして育ったことから、自分が麒麟であると知った時には、蓬莱での幼少期の記憶と、その経験から生まれた自我が存在しているのです。

 その自我というのが、戦を繰り返して民の生活を犠牲にする権力者に対する忌避感でした。
 自分は麒麟で、王を選ばなければならない、そういう存在だと言われたけれど、これまで育ってきた自分自身は「王」という権力者を忌避し、人が幸福に生きるためにはその存在はない方が良いと思っている。
 それなのに、王と出会って本能が王を選んでしまう。
 本能は王を求めるのに、自我は王は人を不幸にするものだと思っている。

 もうね~~~!
 私はこの、六太の、本能と自我の間の葛藤が、すっごく胸に切なくて、けれども物語の要素としてとても好きな部分なのです。

 だってそれって、麒麟という特別な存在として生まれて、それでいながら戦乱の世の中で翻弄された一介の民として育った、そんなの十二国記に限らず、どんな現実でもどんなファンタジーでも、六太しかいない、六太にしか持ちえない葛藤だと思うんです…。
 この六太にしかない葛藤、とても特別で、想像力を掻き立てられて、そして想像して寄り添えば寄り添うほど切なく苦しくなる、物語の特別なエッセンスだなぁと思うのです。

 六太に対しての感情の話をすると、私は、この物語の冒頭で、口減らしのために親に捨てられた六太が、自分が捨てられるのだと知っていて親について行って、捨てられたと分かっていて、家族のために「ぜったい、もどったりしない。」と心に誓っている場面で、何っっって、いじらしいんだ…!と思って、その場面からもう六太に心を掴まれてしまいました。
 だって、4歳ですよ…4歳の子が、親に捨てられて、それをやむを得ないものだと分かっていて、家族のためにとついていくことを選んで、夜の孤独にも飢えにも耐えて、それでもずっと、家族を困らせたくないからと「ぜったい、もどったりしない。」と意志を固めているんですよ…。
 悲しい。切ない。ここの六太があまりにも聡明で、あまりにも健気で、六太のことは大好きになるけれども、こんな悲劇はもう起きてほしくありません。でも、現代の日本でもそういう悲劇、完全になくなってはいないんですよね…。

 物語の話に戻ると、私はもう、冒頭から速攻で、「ぜったい、もどったりしない。」のシーンで六太に、「いっそやりやすい」と笑うシーンで尚隆に、この二人に心を掴まれてしまいました。
 もう、冒頭から、すっごい!好き!!って、一瞬でこの人たちの魅力に引き込まれたのです。

 さて、この経験を経た六太、蓬山から迎えが来て助かるも、今度は麒麟として王を選ぶ役目を担っていると言われますが、受け入れられません。
 この六太の内面も、私はすごく好きなんです。
 だって、六太が信用できないのは、権力者。親に捨てられたのに、その悲しみが親への恨みにならず、権力者への怒りや忌避感になっているんですよ。
 それって六太がとても聡くて優しい子だということだと思うのです。
 親が自分を捨てたのは、やむにやまれぬことだったと理解している。親の苦悩も想像している。親の行動ではなく、なぜそこに至ったのかということを考え、社会の問題に思い至っている。
 4歳ですよ…王を選んだ時でも13歳…とてもとても聡明で優しくて、だからこその「王を選びたくない」という葛藤なのだと思います。

 この六太の葛藤が、王を選ぶという役目を果たしたあとも、「王を信用できない」という形に変わって六太の中に残り続けるんですよね…。
 でも、この苦悩も、私は六太がとても聡明で優しいからこそのものだと思うのです。
 六太にとって、「王」とは、権力者とは、戦に明け暮れて民を苦しめる存在だった。六太にとっては、権力者とは、「王」とはそういうものだと、固定観念が出来上がってしまっていたんですよね。それってかなり致し方ないことだと私は感じていて。幼少期の体験がずっとトラウマになっているんですよね…。
 だから六太は「王はいらない」と言う。「民の王は民自身だけでいい」と言う。
 それは六太が、民に幸福であってほしいと願っている、ということだと思うのです。
 「王という存在は不要だ」と考えているのは、民が幸福であってほしいと願っているからこそ。
 そういう優しい子なのに、自分がやったことは王を選んで、自分自身も権力を持つ立場に就いている。
 それってとっても苦しかったんじゃないかなと思います。
 六太はもともととても早熟な子なのに、王を選んで以降は精神的にも成長が止まってしまっていました。それは、六太が、権力を忌避する自分自身と、権力者の立場にいる自分との間の葛藤で、ずっと立ち止まってしまったからなんじゃないかと思います。

 そんな六太がですよ!!
 この物語を経て、尚隆という自分の選んだ王を心から信頼するようになるのが!!
 本当に!!この物語の胸が熱くなるところです!!

 六太は、「民の王は民自身だけでいい」と思っていました。
 そういう六太の、その頑なだった心を溶かしたのは、尚隆の心のうちにある信念や、民に対する深い愛情だと思うのです。

 だって、だって…思い返してみてくださいよ…六太の選んだ王…何て言ったか…。

「ここはお前の国だ!」ですよ…。
 斡由さえよければ自分が死んでもいい、斡由自身でさえも、すべて滅んでもそれでいい、そう言う更夜に、尚隆が激昂して発した言葉。
「ここはお前の国だ!」ですよ…。

 王の国なのではない。民自身の国。民が望む幸福を手にするためにあるもの。
 国とは、王とはそういうものだと、他ならぬ六太自身が選んだ王がそう言うのですよ…。

「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいるのだ、……更夜」

 この一連の尚隆の本音が発露した怒りと真摯で切実な言葉で、六太は自分の思っていた「民の王は民自身でいい」と、尚隆の王としての在り方は一致していると、尚隆を王として信じて託していいのだと、そう思えたのではないかと思います。
 六太は迷子になった隧道で尚隆に助けられた時に、射すはずのない陽光を感じた、と、麒麟としての本能で感じる王気で、「尚隆が王だ」と確信していますが、でも私は、本能ではなく、自我を持つ六太自身が、尚隆を王として信じた瞬間、託そうと心から思った瞬間は、「ここはお前(民)の国だ!」「俺はお前(民)に豊かな国を渡すためだけにいる」という言葉を聞いた時からなのではないかな、と感じています。 

 良い…良いですよね本当に…。

「民の王は民自身でいい」と言った麒麟の選んだ王が、民に「ここはお前の国だ!」と言うんですよ…。
 六太の切なる願い、ちゃんと王の選定に反映されているんですよ…。
 すごい…運命ですよこんなの…あまりにも物語が美しい…。
 六太が麒麟だから、だから尚隆が王なんですよ…。

 そうして、尚隆という人間自身を信じることができるようになった六太が、本編ラストで「尚隆がいいと言うまで、眼を瞑っている……」というのが、また…良いんですよ……。
 大好きなシーンです。

 その直前に、六太は「尚隆は更夜に約束したように、おれにもおれのための場所をくれるだろうか」と聞いています。
 それに対して、「お前も雁国民の端くれだからな」と肯定した尚隆に、「どんな場所が欲しい」、と聞かれて返す六太の言葉が、もう大好きで堪りません。

 全部良すぎるので、もうこの、物語のラストシーン、全部引用しておきます。

 

「……緑の山野」
 六太は一歩を離れて尚隆に向き直る。
「誰もが飢えないで済む豊かな国。凍えることも夜露に濡れることもない家、民の誰もが安穏として、飢える心配も戦火に追われる心配もない、安らかな土地が欲しい。——おれはずっとそれが欲しかった。親が子供を捨てたりしないでも生きていける豊かな国……」
 ふと尚隆は笑む。
「お前は約束を違えず、俺に一国をくれた。だから俺はお前に必ず一国を返そう」
「……うん」
 六太は頷く。
「ではおれは、尚隆がいいと言うまで、眼を瞑っている……」

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.334

 はああああ…良すぎます……大好き……。

 そう!そうですよね、そうなんですよ、六太はずっとそれを望んでいたんですものね……。
 それはそうでしょうとも…!親が子供を捨てたりしないでも生きていける豊かな国……。そうです…それを…ずっと望んでいたんですよね……。きっと、自分が親に捨てられて、親もそうしたくしてした訳ではないと分かっていて、だから「ぜったい、もどったりしない」と耐えていた時からずっと……。(号泣) 

 そうなんですよ…ずっとそれを望んでいたから、だから六太は「王はいらない」という思考に捉われて、苦悩で足踏みしていたんだと思うんですよ…。

 そんな六太の、「尚隆がいいと言うまで、眼を瞑っている……」、これは延麒の六太が麒麟として王を選んだものとは別の、一個人の六太自身が、尚隆という人間を信じて託した瞬間であって、ニ回目の誓約なのではないかと私は思っています。
 このニ回目の誓約は、「ここはお前の国だ!」と言った、そして更夜という民に、更夜が望む国を作ると約束した、そして「俺は民を生かすためにいる」と六太に怒る尚隆が、国は民のものだと心から思っている、王は民のためにいると心から思っている人間だと確信したから、だから、「民の王は民自身だけでいい」と言っていた六太が、自分自身のずっと望んでいた国の形を言葉にして、そして、蓬莱で育った一人の六太自身として、心から尚隆を民に必要な王と認めて国を託した瞬間なのだと思います。

 このシーン、「眼を瞑っている」という台詞と、権力者を信じていなかった六太が、王を信じて託す構図からか、権力への迎合だとか、思考停止として捉えられることもままあるように感じているのですが、私はこのシーンは、そういうものではなく、むしろそれとは真逆のものだと思っています。

 六太がずっと抱いていた、「王は王という存在だから信用できない」というのは、六太自身の経験から来ているトラウマで、六太がそう考えるようになった背景も理屈もとてもよく分かって胸が痛いのですが、実はこれは「王は王だから絶対的に正しく、信頼していい」というのと同じ、王を「王」という記号で見た理屈であって、私はこの理屈の方こそ、物事を記号で捉えた思考停止の発想なのではないかと思います。
 ですが私は、六太がそこで踏みとどまって動けなくなってしまった背景がとてもよく理解できるので、そこで足踏みしてしまった六太がとても痛ましいと思いますし、この海神という物語は、そんな六太がその頑なになってしまった思考から解放されて、新たな一歩を踏み出した物語でもあると思うのです。

 ここで言う「眼を瞑っている」というのは、麒麟という生き物としての六太は目を瞑って、麒麟の本能や性質との折り合いはつけるけれど、「民の端くれ」としての六太自身、宰輔としての責任と自我を持つ六太自身は、むしろようやく、「王」という記号ではなく、尚隆自身を見ることができた、そしてこれからは六太自身として、本能で選んだ王ではなく、尚隆自身に国を託し、尚隆を支えていく、そういう始まりの瞬間なのではないかと思います。

 だから、私はこの、「尚隆がいいと言うまで目を瞑っている」という台詞は、「何も見ずに全部任せる」ということではなく、「麒麟が王を見るのではなく、六太自身として尚隆自身を見ていく」と捉えられる言葉なのではないのかな、と思っています。

 だって!「ここはお前の国」だから!!
 「民の端くれ」である六太自身の国!!

 「麒麟の六太」ではなく、「六太自身」が、「王」ではなく、「尚隆という人間」を信頼できたことで、ようやく六太は麒麟としての自分と、六太自身の自我との間の葛藤から解放されたのだろうと思います。
 「六太自身」のままであっても、麒麟として、宰輔として、民のためにあれるから。
 この葛藤からの解放でようやく、13歳から止まっていた六太の時間は再び動き出したのではないかと私は思っています。

 うう…六太が「六太自身」でいられるほどに、民を心から大切に想い、王も国も民のためだけにあるのだと心から思っている、そんな尚隆という人間と出会い、王として選ぶことができてよかったね…六太…。六太が六太だったから、選べた王だよ…。本当に出会えてよかった…。
 六太の葛藤を考えるととても切なく苦しく、その葛藤からの解放を考えると、安心感と幸福感で涙が込み上げてきます。



尚隆の意図と試したもの

 さて、ここで再び、六太が選んだ王、尚隆の話に視点を戻したいと思います。
 今度は、尚隆の内面の話ではなく、海神という作品の中で、彼が何をしていたのか、彼の行動にはどういう意図や思いがあったのか、ということについて、私なりに考えてみたいのです。

 具体的には、尚隆が「なぜ漉水の治水をやらなかったのか」と「なぜ突然治水工事を始めたのか」についてです。

 これ、結構たびたび議論が沸き起こるんですよね…。
 実際問題、作中で朱衡や帷湍たち側近は治水をやるべきだという話をしているし、斡由もこのことについて何度も奏上しているし、六太も諫言している。
 それなのに、尚隆が国と民を想う君主ならばなぜ、彼らの言うことを悉く聞かなかったのか、というのは疑問が生まれるところです。
 なので、私なりの解釈はこう思う、というお話をしてみます。
 でも、私、単純なので、基本的にほとんど、作中に書いてあることそのままなのですが…。

 まず、治水をやらなかった、というより、私はできなかった、と思っているのですが、その理由についてです。
 これは、ほとんど六太が作中で言っていることがすべてだろうな、と思っています。
 それと、人手が足りなかったんでしょうね、本当に。本当に。

 詳しく掘り下げます。
 まず国自体が、先王の圧政と空位時代の荒廃によって、尚隆登極時は人口が先王時代の10分の1、物語時点でそこから20年経って、他国に逃れていた民が戻ってきたり、飢えや災害での死亡が減ったりして倍になった、とのことですが、それでも往時の5分の1の人口です。
 それに加えて、鍬さえ入らなくなってしまっていた焦土を1から耕し、20年かけてようやく、緑が増えて民が生活していく分の実りが得られるようになってきた状態です。この物語の時点でようやく、民が自分たちの生活に必要な分を自分たちで耕すことができるところまで辿り着けた、という状況です。
 それまでは、王宮にあった調度品や装飾品を売って民を食べさせていました。
 この描写にも尚隆の優先順位のつけ方がはっきり表れていて、私、この描写もとても好きです。王宮の見栄えや威厳よりも、民の生活第一、ですよね。
 とてもじゃないけれど、ここまでの時点で、民に夫役を課して土木工事なんてさせられない状態だと思います。民にとっては、20年かけて、ようやく自分たちで自分たちの食べる分の収穫を得られるところまで辿り着くので精一杯だったのですから。 

 では、官吏が地方まで出向いて行って工事をやる、というのはどうでしょう。
 あの世界では軍が土木工事なども担っているようですが、この軍についても、物語の時点で王の指示が行き届くのは王師と宰輔直轄領の靖州師の2つ。数としても2つ合わせても1万2500。まず、単純に軍の数にも限りがあります。

 また、官吏の質に関しても、物語当時は、官吏の殆どが、先王が道を失ってからも先王の命に従って民を虐げることで権勢を維持したり、崩壊した国政に乗じて私利私欲を肥やしたりしてきたような者たちで占められています。
 その中で、民の生活に直結する重要な役職に、尚隆自らが厳選した信頼できる人物を置いて、何とか政治を最低限機能させていました。
 そのため、王師と靖州師を使うにしても、それを統率できる人物が信頼できる人物でないと適切な工事など行えない、という問題があります。
 これに何人かの尚隆厳選の人物を当てるにしても、尚隆は「俺には手駒が少ない。」と言っていましたから、その目の行き届く人数にも限りがあるでしょう。

 これに加えて、尚隆は「雁国八州、これは王の臣ではない」ともはっきりと言っています。
 隙を見せたらいつでも謀反を起こしかねない、ということですね。
 元州と対峙する時にも尚隆は言っているのですが、この可能性があるため、軍をすべて地方に派遣して、王都関弓を手薄にするわけにはいきません。
 いつどこの州が軍を結集して攻めてくるか分かりませんから。
 だから王師を派遣するにしても、限られた数しか難しく、国中に存在している河川に一つ一つ派遣するにしても、できたとして、限られた人員で対処可能なところから徐々に手を付けていく、というのがやっとだったのではないかな、と思います。
 漉水は大きい河川のようなので、まだそこまで手を付けるには人員が足りなかったのではないでしょうか。

 そして一方で、各州に任せてしまえばどうか、と言えば、こちらも国の官吏たちと同様、先王の下で甘い汁を吸ってきた者たちや先王に従って民を虐げてきた者たちが上に立っています。
 治水のためにと下した予算で突貫工事を行い、下された予算は私腹を肥やすことに使われては、治水事業が終わったことになっているのに、実際はきちんと工事がなされていない、その結果として後で堤が決壊するといった悲惨なことになりかねません。
 六太が言っていたように、自分の州だけ潤えばいいという考えで、上流だけ潤い、下流がその犠牲になるというような築堤のやり方をされる可能性もあり、それもまた悲惨な結果になる危険性が高く、また州同士の諍いの種になる恐れもあります。

 尚隆は、先王に任じられた州侯や、その州侯の任じた官吏たちを信用しておらず、王の敵として攻めてくることを常に考えて、牧伯を置いて監視させているくらいですから、州の実態が掴めて信用できると判断できない限りは、州に任せるという判断はしないと私は思います。内乱を避けるため、州の軍に力を持たせたくない、という意図もあったと思います。

 そういう訳で、民に夫役を課すなんてとてもじゃないけれどもできる状況ではない、国が取り仕切るには人員も足りなければ国中に河川があって一朝一夕にはいかない、王師と靖州師を地方に派遣しすぎて王都が手薄になれば州の謀反で戦になりかねない、州に任せればまともな工事が行われる保証はなく、かえって悲惨なことにもなりかねない。
 そういう、かなり手詰まりに近い状況だったんじゃないかと思うのです。

 本当に、どこにもかしこにも人手が足りないの!
 特に官には、信頼できる人手が圧倒的に足りないの!
 でも、尚隆は、官の整理よりも、民の生活を潤す方を優先したから!
 そういう国の運営をする人だから!
 そういう優先順位をつける人だから!

 だから、治水に関しては、やりたくてもやれない、やれるだけの信頼できる人手があったら、と、尚隆も頭を悩ませて苦しかったと思うんですよ…。
 だって、民に豊かな国を渡すこと、民を幸福に生かすことを心から望んでいる人だから。
 そういう人が、ただの怠惰で、民の生活を脅かすかもしれない災害対策である大事な治水を、やらないで放置しておく訳がないんですよ…。
 大事だからこそ、信頼できる人物が担わなければならない。でもそのための人手が足りない。悩んでいたと思うのですよ。人には見せないんですけどね…。うう…。

 尚隆の言動や、取っている選択から、この人の意図を考えると、私は尚隆という人物は、徹底して、戦や、人の命を失う恐れがあることを避けているな、と感じます。

 それを顕著に感じたのが、元州からの使者として白沢が王宮に乗り込んできた際の言動です。
「こういう場合、使者の首を斬って元州城に投げ込んでやるのが筋だな」と言いながら、白沢の覚悟を見て王宮へのヘッドハンティングを始めますし、それを断られても、結局白沢のことは「返答を伝える者が必要」ということで無傷で帰します。
 それだけであれば、合理的な人だな、だけで終わるのですが、その後、白沢に対して斡由への伝言として「お前は逆賊になったのだ」と伝えろ、と言いながら、その後「できれば戦いたくはない。気が向いたら斡由に思い留まるよう進言してくれ」と言うんですよね…。
 いや、ええ~~、と思って。この人、麒麟誘拐されて、「できれば戦いたくはない」って言うんだ、って…。その前に、「延麒を返せ」って一刀両断しているのに…。
 そして六太を迎えに行った時は、衣擦れに紛れるほどの声で「あまり心配をかけるな」って、言うのに。
 さらにその後、白沢を見送る時にも、「わざわざ返答の使者を立てて、斡由に殺させたくはない」と言って、王宮の官吏に危険な役目を背負わせませんし、「州宰に危害を加える者があれば、そいつを州侯城への使者にするぞ」と言って、白沢のことも守るのです。

 この一連のシーンで、私は、ああ、この人、一人も死なせたくないんだな、と確信してしまいました。
 徹底して、人の命を守ろうとしているし、戦を避けようとしているように見えます。

 本当に、戦を避けたい、人の命を守りたい、尚隆はそういう、どこまでも優しい人なのだと思います。

 蓬莱で小国の若君だった頃、領主だった頃も同じでした。
 敵が攻めてくることを分かっていて、「降参して敵の傘下に降ればいい」という旨のことを言うし、実際に村上が攻めてきた時は「投降する」と敵方に伝えています。
 私個人としては、正直、このあたりの尚隆の考え方はちょっとどうなのだろうと疑問に思っていて、投降して傘下に降ったからと言って、その先で民がどういう扱いを受けるのか、そのあたりに対する考えが甘いのではないの…?と思ってしまうのですが、でも、本当に、甘いくらいに優しくて、民の命を救うことを第一に考える人なのだと思います。
 甘すぎて、優しすぎて、戦乱の世には向いていなかったですね。
 戦が当たり前の戦乱の世で、民を逃がすとか、投降して戦を避けるとか、そういうことに頭を使う、奇特なほどに優しい人です。
 乱世には向いていなかったけれども、私はそういう尚隆がとても好き。

 尚隆のそういう考え方が表れていると感じるシーンが他にもあって、私はそのシーンが大好きなので、ここで言及しておきます。
 元州謀反の決着がついて、謀反に加担したとして処罰を覚悟する更夜に、尚隆は「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいるのだ」と繰り返し、処罰を拒否します。
 それに対し、更夜が「おれ以外の奴に与えてやればいい」と返したことに対しての返答です。

「俺は欲張りだからな。百万の民と百万と一の民なら、後者を選ぶ」

 これですよ…!これ!!は~~~!好きすぎる!!
 この一言に、一人でも多くの民を生かしたい、幸福にしたい、と考えている尚隆の想いが凝縮されていると思います。

 物語の前半では、尚隆は六太に対して、内乱に対処して玉座を守るには犠牲は避けられないという趣旨で、「殺すまいと無理をして、のちに万殺すよりも、いまここで百殺して終わらせてしまった方がましだろう」と言っているんです。そして、謀反を起こした斡由も同じ趣旨のことを言っている。
 それは権力を持つ者の役割として決して否定されるものではないけれど、それが暴走してしまえば権力者こそが民を虐げてしまうことになります。
 だから六太はこの理屈を受け入れられなかった。

 けれども、尚隆は本心から大義のための少数の犠牲を仕方がないと諦めているのではなく、本心では一人でも多くの民を生かし、豊かに幸福にしたいと思っていることが、この「百万の民と百万と一の民なら、後者を選ぶ」という言葉から伝わってくるのです。

 こっちじゃん!尚隆の本心はこっちじゃん!と思って、ぎゅっと心を掴まれてしまいます。

 尚隆、こうやって、表向きはこう振る舞ってこう言っているけれど、彼の本音はこの一言に表れている…と後から分かる、という部分が多すぎて、いや、こんなのずるいですって…と思ってしまいます。こんなの、好きになっちゃうじゃん…。
 「俺は欲張りだからな」という言い方もいいんですよね…。綺麗ごとではなくて、尚隆のエゴ…。「相手のため」とは言わない、「自分の欲」って言うところが…好き…。あまりにも純粋で、正直で、まっすぐな感情だと伝わってきます。

 尚隆はそういう、一人でも多くの民を生かし、豊かな国を渡したいと本気で思っている人なんですよ。

 尚隆が誰一人死なせたくない人なんだな、というのは、斡由に対して「民を巻き込まずとも、俺とお前が打ち合ってみれば済むことだ。」と一騎討ちを申し出るところ、そしてすべてが終わった後、更夜に対し、「お前は処罰せぬ。元州の諸官、全てだ。それでなくても雁は民が少ない。このうえ減らしたくはない」と言うところからも感じ取れます。
 もう、この辺りに至っては、私にとっては答え合わせのような感じがしていて、そうですよね!この人本当に、誰一人死なせたくない人ですよね!と、あまりの徹底した一貫性に拍手喝采スタンディングオベーションの心地です。

 では、そんな、誰一人死なせたくない尚隆が、なぜ治水をやらなかったのか、そして、なぜ突然治水を始めたのか、という話に戻ります。

 私、これ、尚隆は2つの賭けをしたのではないかなと思っています。

 1つは、「正当な王が立っていれば、自然の理が整い、災害は鎮まる」という、天の理に対する賭け。
 これは少し消極的な賭けでもあるかなと思いますが、先に述べたように、これまで、治水をやろうと思ってもやれる段階にないまま20年過ぎてしまっている訳で、ここまでずっと、「自分が真実、天から国を預けられた王だというのならば、災害は起きないよう天の理が働くだろう」という、天を信じるしかない綱渡りの賭けをし続けてきたのではないかと思います。
 異世界から雁国に渡った尚隆が、天があり、天の理があると聞いて、すぐにすべてを信じられた訳ではないと思うので、「天意というものは本当にあるのか」「自分が本当にこの国の王で間違いないのか」というのを、やりたくてもやれないことを先送りにする中で、「どうにか災害が起きないよう、天運とやらで味方してくれ」という、祈りに近い賭けをして、天というものの存在とその意志を試していたのではないかなと思います。
 州が軍を持って攻めてきて戦になることを防ぐために、大規模な治水工事は行えていない。それは、治水よりも、災害を鎮める王という存在がいることそのものを大事にしているとも考えられるので、本当に天はそれでいいのか?それほどまで王を必要としているのか?という問いを、治水工事が行えるようになるまで災害が起きないで済むかどうか、というところで天に対して図っていたのではないでしょうか。
 実際、天地の気が整って災害が起こらない、って、あちらの世界では確かに存在する事実で、けれどもどの程度なのかは誰にも分からないものだから、信じるしかなかったんでしょうね。
 そうせざるを得ないほど、切迫した状況だったのだと思います。

 もう1つが、民意、民に対する賭けです。
 こちらが、なぜ尚隆が突然漉水の治水をやり始めたか、という話です。

 私、この漉水治水の件、尚隆は何重にも手を打つことで、抱えていた問題を一気に解決しにかかったな、という印象を持っています。
 そしてそれが成功するかどうか、ここに、民意に対する賭けがあったのではないかなと思っています。

 まず、治水より以前に目下の元州謀反への対応です。
 これは、先にも書きましたが、私はとにかく尚隆は、戦を避けたい、民の命が失われることを避けたい、という意図で動いていたのだと思います。
 だから、斡由ともできれば戦わず、投降を勧めたかったんだろうなと。
 尚隆が「斡由を試せ」と言って講じた策は、すべて斡由に投降を勧め、血を流さずに事を終結させるためのものだと思います。

 諜報によって元州軍の数と実態を把握、そして元州と裏で手を組んで背後から関弓を攻めるはずだった光州の州侯等を更迭することで光州を無力化し取り込む。
 そして王師の軍で頑朴を包囲。
 ここで、頑朴の対岸に堤を築きます。

 これね~~~、水攻めに使える位置に堤を築いて、「斡由を試せ」って言うんですけど。
 いいですよねこれ。絶対、水攻めなんかするつもりないんですよ。
 だって水攻めなんかしたら、付近の民の命が失われることになるから。
 尚隆は絶対にそんなことは意図的にやったりしない。敵を倒すために民を犠牲にする選択なんか選ばない。
 するつもりはないけれど、そうできるところに堤を築いて、斡由にプレッシャーをかけて斡由を試した。
 策士すぎますよね~~~!
 ごめんなさい、私、正直、ここの尚隆が策士すぎて、痺れてしまいます。

 本当に斡由を試したんだと思うんですよ。
 水攻めの可能性に気付く位置にあえて堤を築いて、大軍で取り囲んで、それで斡由が、元州の民のために、元州を守るために自分の野心やプライドを捨てて投降してくるかどうか、それを試したんだと思います。
 私の想像ですが、尚隆は実は、斡由が元州のために投降することを期待していたのではないかなと思っています。
 だって、斡由は先王の時代から、空位の時代、そして手が回りきらなかった尚隆の王朝初期に、明らかに他の州より豊かに土地を治めて民を潤し、元州を取り仕切っていた人物ですから。
 中々に敬意や興味を抱いていたんじゃないかな、と思いますし、本当に心ある人物なら見出して取り立てたいくらいのことを考えていたかもしれません。
 それが、元州で謀反が起きてしまって、よく荒廃から民を守っていた志の高い人物かと思ったらやっぱり裏があるのか~?と。本当はもう少しじっくり見極めに時間をかけたかっただろうなと思いますが、事を起こされてしまったら、すぐ見極めるしかありませんよね。
 元州軍を圧倒する大軍で取り囲んで、水攻めの可能性を匂わせて、それで元州のために勝負にこだわらずに投降してくるか、話し合いの余地があるか、見極めようとしたのではないでしょうか。
 斡由が投降してくるなら、話し合いで穏便に済ませて、斡由のことも朱衡や帷湍たちのように取り立てるつもりがあったかもしれません。

 ですが、斡由が取った行動は、尚隆の期待通りにはいきませんでした。
 堤、切っちゃいましたからね…。
 これは、残念な結果でしたよね…。
 堤を切って、対岸の民を犠牲にしようとしてしまった。
 元州の民のために治水が、堤が必要だと言っておきながら。
 あくまでも戦の勝敗に拘って、戦で民が犠牲になることを厭わない選択をしてしまった。
 私はこれが、この戦において、尚隆と斡由の間で、明確に勝負がついた部分だと思います。
 尚隆は、誰一人失いたくなくて、誰も命を落とさないように、戦にならないように動き続けています。元州の民も、元州の官吏も一人も傷つけずに済むように動き続けているんですよ。対して斡由は、追い詰められて、頑朴を守るために対岸の新易を沈めようとしました。
 元州の民も雁の民として守ろうとしている尚隆と、新易の民を元州の民として守ることを放棄して犠牲にしようとした斡由との間の明確な差だと思います。
 そうなるならば、これはもう、斡由とは対峙して決着をつけなければならなくなります。
 それで最後の尚隆の登場と、一騎討ちになるのではないかな、と思います。

 本当に、尚隆の取る策って、悉く、人の命を極力奪わずに済む方法を模索しているんですよ。
 小松時代には自分たちが投降すると言い、雁の王としてのこの元州謀反への対処では、諜報・敵陣への潜入・民の扇動・水攻めを示唆することでの心理的揺さぶり・そこまで至りませんでしたが、交渉……。
 ここまで全部、事を穏便に、「できれば戦いたくはない」の言葉を実現するために講じた策だと思うのです。
 挙句に、最後の最後に一騎討ちって…。とことん民を戦に巻き込まない…。この人本当に徹底していませんか…。

 しょっちゅう王宮を抜け出して市井に降りていくのも、それが尚隆にとっての幸福で、息抜きの面もあったと思いますが、民の生活を見て民が必要としていることを模索しながら、同時に、国を知り、各州の状況を把握するためでもあったのだと思います。特に、謀反や内乱の恐れが大きくなっている、この物語の時点では尚更その面は重要だったのではないかと思います。
 そうして自ら情報収集をすることで、謀反や内乱の種を事前に察知し、事があった時に早急に対応できるように備えていたのだと思います。
 実際に、元州軍の内情も把握していましたし、そのことが乱の鎮圧に大きく役立ちましたからね。
 戦を避けたくて、民を戦に巻き込みたくなくて、そのために、いつだって自分が誰よりも行動する、尚隆はそういう人だと思います。

 余談なんですが、ここまで徹底的に、誰一人失いたくなくて行動している尚隆を見ると、驪媚に牧伯の任を依頼する時に、「万が一、事があったときには命を捨ててくれと言うに等しい。」と告げて頭を下げるシーンが本当に胸に迫ります。
 どんなに身を切られる思いで頭を下げたのだろうと…。絶対にそんなこと、頼みたくなんかない人なのに。
 そこにこもる真摯な思いに触れたからこそなのだと思うと、驪媚の覚悟の強さも一際重く感じられます。
 誰も死なせたくない人だからこそ、わざわざ自ら直接話に行ってすべて正直に配置の意図を話したし、頭を下げたんですよね。驪媚にはそのことまで全部、ちゃんと誠意も本心も伝わっていたと思います。だから驪媚はあそこまで覚悟を持って尚隆を信じ、同志として国のために忠義を尽くしたのだろうな…。

 話を戻しますが、尚隆は確かに斡由を試したのだと思いますが、この一連の策を講じるのに、絶対に必要なものがあるのです。

 それが、人、です。
 対岸に堤を築きながら頑朴を取り囲んで、斡由にプレッシャーをかけるのにも王師の軍に数が必要ですし、いくら光州の動きを封じたとはいえ、他の州のことも警戒しなければならないため、関弓も靖州師だけでは手薄になってしまいます。
 だから、尚隆の策が成功するには、王師・靖州師に加わる民が必要なんですよね。

 私、これこそが、尚隆の2つめの賭けであり、尚隆が本当に試したものだったのではないかと思います。

 すなわち、元州謀反を知り、王師が謀反に対処するための人を集めている、という報を聞き、民がそれに呼応するかどうか、です。
 結局のところ、ここがうまくいかなければ、尚隆の策はすべて破綻してしまうのです。

 民が王師の軍に加わらなければ、頑朴で対岸に堤を築きながら元州軍を包囲し、斡由にプレッシャーを与えるだけの圧倒的な数の軍を置けないので、斡由は元州軍を出して真っ向勝負になってしまいます。
 そうなれば、戦になって民の血を流すことになりますし、斡由を試してどんな人物か見極めることもできません。
 数の利、地の利からも、王師に不利な戦いにもなります。
 これは、戦を避けたい、民の血を流したくない尚隆としては大失敗ですよね。
 最悪の場合、民の命を失い、自分も玉座と命を失うことになります。
 尚隆は当初、「なんとしても禁軍七千五百で包囲せよ」と命じているので、包囲だけであれば、王師の軍だけで成功させる見込みはあったのかもしれませんが、それでは堤は築けませんし、そちらに人手を割けば頑朴包囲に失敗し、正面から交戦に至ってしまいます。
 また、関弓を守る民が集まらなければ、他州が隙を衝いて攻めてきて、そこで交戦が起きる可能性もあります。

 そういう訳で、尚隆の一連の策が成功するかどうかは、民が王宮からの呼びかけに呼応するかどうかにすべてがかかっていたのだと思います。

 ただ、その前にもちろん、それが成功する前提で、他の要素に対してもいくつも手を打っています。
 元州を見に行って元州軍に勧誘されて、元州軍の数や実態を把握していますし、光州州侯を更迭して、光州の動きを封じていますし。
 でも、それらは全部、民が集うという賭けに勝った時に意味を成す準備です。

 この準備を整えた上で、尚隆は、民に元州謀反で麒麟が捕らわれている、王の危機だと噂を流して民を募れ、と言うんですよね。
 王は賢帝で台輔は幼く慈悲深いと噂をばらまいて民意を操作しろ、と。
 帷湍には詐欺師とか言われていますし、尚隆本人も悪ぶった言い方をしていますが、これは実のところ、とても切実な賭けだったのではないかと思います。

 それに対して、民が、予想以上に呼応するんですよ……!!
 もう、私、ここが、海神の個人的サビです。

 当初、尚隆は、民を兵卒として集めるのは、関弓に軍勢を置いておいて、他州への牽制とするため、と言っていますが、民の側から、頑朴へ行って兵卒として戦う、と言って立ち上がるんですよ…。
 国を守るため、豊かな生活を守るため、自ら立ち上がるんです。
 何て強くて眩しい人たち。この雁の民たちが、私はたまらなく大好きです。

 そうして立ち上がった民の数は、尚隆の予想よりも遥かに多かったのだと思います。
 最終的に、頑朴に向かった民だけでも、二万の軍勢になっていましたから。
 これ、尚隆は関弓に三万の武装した民を置いておけ、と指示していましたが、実際関弓の方にはどれくらいの民が集まったのでしょう。
 指示通り三万集まって牽制のために置いていたとしたら、合わせて五万の民ですよ…。凄すぎませんか…。
 だって、国全体の人口が六十万しかいないんですよ。
 それなのに、自分たちの生活を守るため、その生活を実現してくれた王を守るために、兵卒となって戦う、と志願した民が五万ですよ…。
 なかなかそんな風に、自分で行動しようと思うのは、難しいことじゃないですか。
 それを、兵卒として、危険があるのも分かっていて、前線に出ようと行動するって、その精神、勇気、行動力、とても胸が熱くなります。私もこういう風に、自ら立ち上がって行動できる人間でありたい。

 そして、このように民が集まったことで、漉水治水を阻んでいたすべての障壁が取り除かれたのだと思います。
 すなわち、治水工事を行うための人員がいる(集まった兵卒二万!)、それを取り仕切る信頼できる王師がいる(成笙が指揮権を持って派遣されているため、治水の方にも成笙選りすぐりの信頼できる人物に取り仕切らせられるでしょう)、光州の動きを封じたため、王都の背後をついてくる心配がない、他州に関しても、関弓に集った民が武装して牽制している、加えて王師に加わる民の呼応は国全土に響いているでしょうから、他州がその状況であえて王都に攻め上ろうとはまず考えられない。

 私、尚隆はこの状況が出来上がることに賭け、この状況が出来上がった好機を見逃さずに利用したのだと思います。
 だから、民が集う機運を感じた段階で、「行軍の途中で役夫を募り、頑朴付近の漉水に堤を作れ」と指示を出し、頑朴に向かった民には戦わせるのではなく、治水工事を行わせたのだと思います。
 治水のことも重要視していたから、治水工事を行える絶好の機会を見逃さなかったのだと思います。

 私、これがすっごい好きなんですけど、頑朴に兵卒として志願して向かった民たち、そして王師が行軍しながら道中で集めた民たちは、ほとんど武器を持たずに築堤をしに行くんですよ…。
 良くないですか…民が武器を取らなくていい国。民の戦いは、鍬を持って土地を耕すこと、土嚢を築いて災害から命と実りを守ること。
 何て美しく理想的な国なんですか…。
 いいですよね…。尚隆、本当に、民を戦わせる気がなかったんだろうなって、思うんですよ…。
 関弓に置いた民は牽制のためで、頑朴に向かった民には築堤をさせる。
 本っっっ当に、徹底して、民の命を犠牲にしない。守ろうとしている。
 尚隆が、官吏の整理をせずに据え置いていたことや、治水を後回しにしたことも含めて、徹底して戦が起きないように動き続けていたのは、民を戦わせたくないからだと思うんですよ。きっとまだこの時点の雁では、戦になれば民を動員せざるを得ないから。
 王師や靖州師といった、職業軍人だけで対応できる状況になっていないから。
 もっと言えば、小松の時代に「逃げればいい」「投降すればいい」と言っていたのも、民を死なせたくない、の他に、「民を戦わせたくない」、というのもあったと思うんですよ。
 これも徹底しているんですよね…とにかく民を戦わせないようにしようとしている。
 でも、正直なところ、私は小松が村上や河野の傘下に入ったら民は戦わずに済んだかというとそうではなくて、属国の民としてむしろ前線に送られることになるのでは…と思うので、そういうところが、尚隆の、乱世の領主としては甘いのでは…と思うところなのですが、そういう人だから、国同士の侵略戦争のない常世の王にはこれ以上ないほど理想的な人物だと思うのです。
 戦と言えば内乱だけで、内乱では敵対する側も守るべき民だから。
 徹底的に民を戦わせない、戦を避けようとする尚隆は、元州の民のこともその守る範疇に入れていると思います。
 徹底的に民を戦に巻き込みたくない人が、外敵のいない世界で王として治める国では、民の戦いは武器で殺し合うことではなく、土地を耕し命と実りを守ることになるんだなって、個人的に胸が熱いところです。
 天帝の理想とした国を限りなくその意図どおりに統治できる王が尚隆なんじゃないかな…なんて、思ってしまいます。これは贔屓目すぎるかもしれませんが。

 さて、だから私は、尚隆の漉水の治水は、できる条件が揃ってからすぐに動いたのだと思っています。
 これ、色々と飛び道具を使っているから、すべてを計画的に進めてこうなった、という訳ではないと思うのです。そもそも元州が事を起こさなければこの状況にはなっていないのですから。
 光州州侯を更迭したのだって、私は元州謀反を利用したのだと思っています。
 だって、何もないのにいきなり更迭なんかしたら、言いがかりだ、と反発されて、別の争いの火種になってしまいますから。
 でも、元州の謀反を掴んでいることで、お前たちはどちらの味方なのか、と揺さぶりをかけながら、王の側につくように要請し、内々に話をつけることができたのではないかと思います。
 六官三公の罷免にしたって同様です。突然罷免するかのように言い出しますが、突然罷免したら争いのもとなので、元州謀反と宰輔誘拐を理由に、協力を取り付ける体で、とか、尚隆は多分そのあたり、反発が起きないように裏で先に手を回して話をつけていそうだなと思っています。
 だから、すべてが計画的だったわけではなく、尚隆は、起きた状況の中で、極力犠牲を生まない対処をしようと手を打ち、そして最後に民に賭けた結果、予想以上の呼応があって、治水まで可能な状況が生まれたということなのではないでしょうか。
 ここで治水工事をやり始めたのは、そういう奇跡だったのだと思います。

 この状況を見逃さない尚隆、早業ですよね。この早業を見る限り、やはり尚隆は治水のことを無視していた訳ではなく、やらねばらない、とずっと頭にあったのだと思います。
 帷湍にも六太にも斡由にも、「どうしてあいつは、いままで懶けていた付けを、この非常時に払おうとするんだ!」とか「いまさら点数稼ぎのつもりか」とか、散々に言われていますけれど、私は、尚隆はやれる限りの最短で治水をやり始めたのだと思います。

 遅かったのではないの!早すぎるの!
 条件が揃ってから速攻でやったから、動きが速すぎて、「なぜ今までできるのにやらなかった!?」と思われてしまうだけで、本当は、遅かったのではなく、早すぎる手の打ち方だったのだと私は思っています。
 できるのにやらなかった、遅い、と言われてしまうくらいに、早かったんですよ。

 尚隆は、民意に対する賭けに、期待していた以上の成果を得たのだと思います。
 だから、ほとんど戦うことなく、命を失うことなく、斡由を試して元州を内側から崩壊させた上に、一騎討ちに持ち込んで決着をつけることができた。
 その上、災害が起きて間に合わなくなる前に取り掛からねばならなかった漉水の治水工事にまで取り掛かることができた。

 私、これ、尚隆は嬉しかったんじゃないかと思います。

 そもそも元州との戦いの行く末も、民意にかかっているところがありました。
 だから尚隆はそこで賭けをした。民意に委ねたのだと思います。
 そうしたら、民は尚隆が思っていた以上に応えてくれて、尚隆が思っていた以上にできることが増えた。

 尚隆は、民意に賭けた時、きっと呼応してほしいと思っていたと思います。
 なぜならば、彼は民からの「願い」が必要な人だから。

 かつて領主として治めた国で、民から託された「願い」を叶えられなかったと、後悔している人だから。
 一度、託された「願い」を返す先がないからと、民に殉じて命を終えようとしていた人だから。

 小松が滅亡し、六太に命を救われた尚隆は言うんですよ。
 「若、と呼ばれるたびに、一緒に託されたものがある。一声ごとに託されて降り積もったものを、俺は連中に返してやれなかった。……もう返す術がない」と。
 「……連中の願いだ。俺はそれを一身に背負っていながら、もはや降ろす術がない。生きている限りただ意味もなく背負い続けていかねばならない。……いくら能天気な俺でもさすがに嫌気が差す……」と。

 その言葉を聞いた六太が、尚隆に問うんですよね。
 「……お前、国が欲しいか」と。

 これに、「欲しいな」と即答する尚隆が、私はあまりにも胸が痛くて大好きなのです。
 こんなに、こんなに純粋に、自分の想いに正直になれるって素晴らしくないですか…。それくらい、純粋な、心からの想いなんですよ、この「欲しいな」の一言は。

 これは尚隆自身の「願い」なのだと思います。民から託された、「願い」を返す先を、尚隆はただ純粋に、何よりも渇望していたのだと思います。
 その尚隆の想いに、それは私利私欲や権力欲といったものではないと感じた六太が、尚隆に誓約して彼を王にしたんですよね。
 だから、最初の誓約で、尚隆を王にしたのは、彼自身の「願い」だったのではないかと思います。

 六太の誓約を受け入れる時の尚隆の言葉もとても好きです。
 「——臣に迎える。ただし、必ず一国だぞ。城だけでも土地だけでも許さぬ」

 すなわちこれは、「『願い』を返す相手が欲しい」ということだと思うのです。

 だから尚隆は、民を試したのだと思います。
 お前たちは、本当に俺を王と呼んでくれるのか、と。
 本当に俺を必要としているのか、と。
 「願い」を託し、結果を受け取ってくれるのか、と。

 尚隆には、民からの「願い」と、それを返す相手が必要だったのだと思います。
 そして彼はおそらく、必要とされなければ生きられない人なのだと思います。
 一度、民から託された「願い」を降ろす先を失ってしまったから。返せないまま終わってしまったから。
 大切にしていたもの、託されたものをすべて失って、託されるものを欲して異境に渡った人だから。
 そして、一度すべてを失っているがゆえに、一度失敗している自分が本当に王でいいのか、と、民は本当に自分を求めているのか、と、そう問いたい気持ちもずっと抱えていたのではないかと思います。

 だから、雁の民が、呼びかけに応じて立ち上がったこと、国の安寧のために王を必要とし、自ら国と王を守るために戦おうとしたこと、尚隆はとても嬉しかったのではないかと思うのです。
 頼られて、託されて、「願い」を受け取ってそれを返す、尚隆はきっと、それが生きる原動力になる人。
 全部滅べばいいと言った更夜に、「民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ⁉」「民のいない王に何の意味がある。」と本気で怒る人だから。
 誰よりも切実に、民から国を、「願い」を託されたい人。
 私はそんな尚隆が大好きです。

 尚隆は、民が立ち上がり、王を必要としたこと、自分たちの生活を守ろうと戦おうとしたことで、雁の民を、自分が「願い」を託され、そして返す民なのだと、それが民にも必要とされているのだと、確信できたのではないかと思います。
 六太がこの物語を通じて、尚隆の本心に触れてようやく自分自身になれたように、尚隆も民から必要とされていると実感できたことで、託された「願い」とそれを返す相手を得て、心から「雁の王」になれたのではないでしょうか。

 だから私は、尚隆は作中で「斡由を試せ」と言っていますが、もちろん斡由のことも本当に試した一方で、尚隆が本当に試していたものは、自分を王に選んだという天と、豊かな国を与える相手である民の意志、天意と民意の2つだったのではないかと思います。

 切実な賭けだったと思います。尚隆は、民に必要とされたかったのですから。

 

民の選択と託したもの

 対して、そんな尚隆がその意志を図った、民たちに視点を移してみます。
 私、ここが!1番!海神で泣けて泣けて、心が震えるところです。

 この、民が呼応するところ、私はとても大好きなのですが、たまに誤解されがちに思っているんです。
 それはどういうことかと言うと、この民たちが、尚隆が指示してばら撒いた噂に扇動された民衆、王という絶対的な権力者を、王だからというだけで無邪気に信用している民衆に見られてしまうことがままあるのです。

 でも、私はそうは思っていないので、この立ち上がった民たちの心情、行動について、ここで私なりに深堀りしたいと思います。

 あのですね、私、これに関しては、ちょっと尚隆も悪いと思っていて。笑
 いや、嘘です。尚隆は、半信半疑だったんですよね。民が自分を必要としてくれているかどうか。だから、切実な祈りにも似た賭けをしたんですよね。分かるんです。
 分かるんですけど…!!

 尚隆がね、「王がどれだけ賢帝で台輔がどれだけ慈悲深いか噂をばら撒け。嘘八百並べてでも民をかき集めろ。民意を操作するしかないのだ」みたいなことを仰ってですね、アジテーターみたいな振る舞いをするからですね。
 だから帷湍からは詐欺師とかって言われますし、読者からは、立ち上がった民が扇動に乗って権力者に利用された危うい民みたいに思われることがあるんですよ。
 私、ここまで散々書き連ねてきた通り、基本的に尚隆の言動のほぼすべてを好意的に解釈していますが、これだけはね、読者から雁の民が誤解される、という、これは尚隆の責任ですよ、と思っていますよ。

 だから、僭越ながら私が、尚隆に代わって、民たちへの誤解を解くチャレンジをさせていただきます。

 私は、彼らは単純に、噂を流され、扇動されて、安易にそれに乗っかった訳ではないと思います。

 彼らは、自分たちの頭で考えて、国にどうあってほしいかを選び、それを実現するために、自分たちにできることを行動した人たちだと思います。

 まず、この海神の民たちは、先王の時代と、その後に続いた空位の時代に、命を繋いで生き抜いてきた精鋭の生き残りたちです。
 ずっと雁にいて荒廃を耐え凌いできた民や、他国に逃れて国を持たぬ荒民としてでも何とか生活して雁に帰ってきた民たちと、その子どもたちです。
 新王が登極してからも、鍬が入らないほど固まっていた焦土を根気強く耕し、20年かけて食べていけるだけの実りを得るまで努力し続けてきた民たちです。

 そんな彼らは、苦難の中でも希望を失わずに根気強く、生きることを諦めずに行動し続けられる、屈強な精神力と生命力を持った民たちだと思います。
 そんな、ここまで懸命に命を繋いできた民たちが、命の危険があるかもしれないのに、戦おうと立ち上がるんですよ。
 そこに、どれだけの覚悟と強い想いがあったことでしょうか。

 私、本当に、この民たちが立ち上がるシーンが好きです。
 彼ら、みんな、家族のためや、自分や家族が生きる国を豊かで平和な国にするために立ち上がるんです。

 「王が将来、この子を豊かに暮らせるようにしてくれるなら、いまあたしが王のために死んであげてもいい」
 これを、それまで自分たちが食べていく分の実りも得られない土地を耕して生き抜いてきた民が言うんですよ。

 「おれの両親も兄弟も飢えて死んだ。——おれはお前や子供たちに、そんなふうになってほしくない」
 これは、さらに前の空位の時代を知っている民の言葉だと思います。
 子供に食べさせる作物も十分に育たず、妖魔の危険に曝され、その妖魔すら飢える荒廃を耐えてきた人の言葉。そんな過酷な状況でも、生き抜いてきた民の言葉です。

 ここまで、過酷な状況の中でも、生きることを諦めずに生き抜いてきた屈強な精神を持つ彼らが、なぜここで死ぬかもしれないと覚悟をしてでも戦おうと立ち上がったのか。
 それは決して、扇動されて乗せられたからなんかじゃないと私は思います。

 ではなぜか。
 それは、彼らにとってはもう、新王登極からの20年で、既に王の治世の結果が出ているからだと思うのです。

 鍬が入らず、雑草すら生えなかった焦土が、緑が広がるほどに、自分たちが食べていけるほどに、作物が実るようになっているんです。
 飢えや妖魔に怯えることなく、さらなる実りを期待して、希望を持って前に進むことができる。
 そうした実績と、確実に暮らしぶりが良くなっているという実感、努力と行動で前進し続ければさらに暮らしが良くなると信じられる希望、それを与えてくれたのが王だったから、だから彼らは、遠い玉座にいる、見たこともない王を信じ、王を守ることが自分たちの生活や家族を守ることだと信じて立ち上がったのだと思います。
 日々の実りを得られること、妖魔に怯えずに済むこと、希望を持って前進できること、国の終焉と言われた荒廃を生き抜いてきた民たちとって、ここまで来ることができたことが何よりも価値があり、何に変えても守りたい大事なことなのです。
 日々を自分たちの力で食べて生きていけることがどれだけ素晴らしいことか。立ち上がる民たちの姿は、私に何度でもそのことを思い出させてくれます。
 努力すれば報われる、そう希望を信じられることはそれだけでとても恵まれていることなのだということも思い出させてくれます。

 あの民たちは決して、大仰に煽られた流言に踊らされた判断力のない衆愚なんかじゃない。
 自分の目で見て、暮らしぶりを実感して、だからこそ、王が失われることでまた訪れるかもしれない空位や、王がすげ代わるかもしれない不透明な未来よりも、今そこにいて、自分たちに人間らしい生活と希望を取り戻させてくれた王を信じて、自分たちの未来を自分たちで選択し、それを勝ち取るために行動したのだと思います。

 私はそんな、どんな境遇の中でも諦めずに生き抜いて、希望を失わずに努力と行動をし続けて、そして自分の未来を自分で考えて選び取れる、そんな強くて不屈の雁の民たちが大好きです。

 そんな民たちが信じて選んだのは、尚隆の流させた噂なんかじゃなくて、尚隆の治世の実績なんです。
 妖魔すら飢える荒廃を耐え、鍬の入らない焦土を耕して、生き抜くことに心血を注いできた彼らが、今ここでなら、自分が死んででも守りたいものがある、先の世代に残したいものがあると、そう思える国が既に実現されているんですよ。
 それが、尚隆が20年かけてやってきたことの結果だと思います。

 「ほかの誰のためでも行かんよ、おれは。だが、お前たちのためだからな」
 この民の言葉の通り、ただ王のため、ではなくて、自分の家族のためなのです。
 家族の豊かな生活と未来を守るために、立ち上がるのです。
 それを守るために、今の王が必要だと、そう判断しているのです。

 よかったね尚隆…官吏の整理や税の横領を放置してでも争いを避け、何よりも民の生活水準の向上を第一に考えてやってきたことが、ちゃんと民に届いていたんだよ。
 だから民は、王を信じて立ち上がったんだ。自分たちの未来を託したんだ。
 託してほしいと、切に願った尚隆の賭けに民が応えたのは、20年かけて民と尚隆自身が築いてきた、努力し続けてきたものがちゃんと実を結んでいるからだと思います。

 本当に本当に、雁の民が熱くて感動する!
 この行動力!精神力!希望を信じる心!立ち上がる勇気!

 これは決して、「王にすべて任せておけばいい」「王が王なのだから、王というだけで信じておけばいい」という話ではないと私は思っています。
 そう読んでしまうのはもったいないと思うのです。
 民たちは、ちゃんと見ていたと思います。王の統治ぶりを。自分たちの暮らしぶりの実感を。見て、考えて、選んで、行動したのです。
 とても理想的な人としてのあり方だなと思います。
 私も、この人たちを見習って、どんな時も、自分の目で見て、自分の頭で考えて選択して、そして勇気を持って行動できる人間でありたい。
 この人たちの姿は、私の憧れであり、生きる指針です。

 六太について触れた時に、六太は六太自身でいられるようになったのではないか、と述べたのですが、民も、民自身でいられる国を望んでいたのではないかな、と私は思うのです。
 それはつまり、荒廃や、為政者による圧政で、本当はそんなことしたくないのに、苦境で仕方ないからと諦めて、子供を捨てたりなんかしなくていい国。自分たちの手で、自分たちに必要な実りを生み出して食べていける国。
 頑朴行きを志願した女性が言った言葉は、まさに六太が望んでいた国と一致しています。
 諦めなくていい国。立ち上がる希望を与えてくれる国。自分たちが、自分たちのままで生きていける国。自分の手で、未来を掴み取れる国。
 六太が六太自身でいられる国、というのは、民が民自身でいられる国でもあって、民はずっと、そんな国を一緒に実現してくれる王を待っていたのではないでしょうか。
 この民たちだからこそ、六太が麒麟で尚隆が王なのだと思います。
 民たちの望む国、望む王、その民意があまりにも矛盾がなく強くて、民たちの心の強さ、王の選定に反映された願いの強さがそこに見えるような気がします。

 「我らがお待ち申し上げたのは、延王君——尚隆さまでございます」
 驪媚が六太に伝えたこの言葉は、そんな民たちの意志を体現しているようで、私はこの台詞もとても大好きです。
 民たちが立ち上がる描写と重なって、たくさんの民たちの言葉のように思えるのです。

 雁の民の気質や国民性、本当に大好き!
 作中ずっと、出てくる登場人物みんなが、意志が強くて熱い人物ばかりですよね!
 朱衡・帷湍・成笙が尚隆に取り立てられるきっかけとなったエピソードは全員の意志の強さや心の熱さが光っているし、驪媚の覚悟と最期はまさしく意志の強さの成せるもの、少春の昇仙エピソードもかなり意志と覚悟が決まっているし、立ち上がった民たちの精神力と行動力はここまで述べてきた通りです。
 出てくるエピソードがどれもこれも皆、心が強く、覚悟を持って行動している。
 本当に皆、意志が強く、熱くて行動的な人物ばかりで、彼らの生き方を見ていると、こちらも胸が熱くなって、希望と勇気をもらえます。

 この人たちの物語だから、海神はこんなに生き生きとしていて、生命力と精神力が迸っているような、熱い物語なのだろうと思います。



超えていくべき存在として斡由

 一方で、元州謀反を引き起こした張本人の斡由。物語を、彼に注目した視点からも考えてみたいと思います。

 斡由はね…。難解な人ですね…。何度読んでもこの人の本心が私には見えてくる気がしません。どれが本当の斡由?と思ってしまうんです。
 でも今回、再読して、様々な視点でこの海神という作品について解釈する中で、斡由はこういう位置づけなのかな、と自分なりに感じたことをまとめてみます。

 私は、斡由は「混沌の中で生きた人」であり、「固定観念に捉われた人」でもあるのかなと思います。
 そしてそのどちらも、超えていかねばならないものとして描かれているのではないかと感じました。

 元々、斡由はこの謀反を起こすまで、先王の時代から70年以上、先王の圧政の中でも空位の荒廃の中でも、よく土地を治めて元州を守ってきた人でした。
 そして、謀反を起こした理由も、当初は漉水の治水という、理のある大義名分を掲げています。だから元州諸官は、当初自分たちには理があると思い、謀反の自覚なく、斡由に賛同していた人が多かったのだと思います。
 しかし、斡由には裏の顔があり、自分に異を唱える官吏を秘密裏に暗殺していたり、それを更夜にやらせて罪を被せていたり、父親とその身代わりを幽閉していたりと、裏で犯していた罪が次々と暴かれていきます。
 そして最終的に、物事が自分の意図したとおりに進まず、王師に加わる民は膨れ上がるし、それを見て元州内からも離反者が続出するし、追い詰められた斡由は結局、当初掲げていた御旗であった漉水治水まで見えなくなり、勝負に拘って堤を切って元州の民すら犠牲にしようとして、大義名分を失って尚隆の前に敗れるんですよね。
 私、この、最後がね、斡由はもう完敗だと思うんですよ。
 先の項目でも触れましたが、元州の民も雁の民として守ろうとしていた尚隆と、新易の民が元州の民であることを度外視して犠牲にしようとした斡由と。
 ここで完全に、この戦において、どちらが為政者に相応しいか、明暗が分かれたなと私は思っているのです。
 まあ、それ以前に、自分に反対するという理不尽な私情で官吏を暗殺していた斡由と、誰一人死なせたくなくて天に縋りながらでも奔走している尚隆には決定的な差があったと思っていますが。

 ただ、この斡由の二面性を、断絶しているものだと捉えてしまうと、斡由という人間がよく分からなくなってしまうところがあります。
 私はずっと、この二面性が分からなくて、裏こそが本当で、表の顔は演じていただけ?とも思ったのですが、演じていただけで70年以上、荒廃の中でそれに抗い、他州が焦土になる中で、王都より豊かな土地を維持できたか?とも思いますし、それ以上に、演じていたなら最後まで演じ抜いて、堤を切らずに元州とその民のために投降すればかっこよかったし、尚隆の期待にも適って、話し合いで穏便に済む終わりもあったのではないか?とも思うのです。

 そう考えた時に、もしかするとこの人は、ずっと変わらず混沌の世界の生き方をしている人なのではないかなと、思うようになりました。
 混沌の世界とは、先王が道を踏み外し暴虐の限りを尽くした時代と、空位により災害と妖魔の被害が国中を襲っていた時代です。

 つまり、斡由は先王の時代に、先王に阿って民を虐げ殺そうとしていた父親と対立し、その父を幽閉して民を守った訳ですが、このやり方は、王朝末期の混乱や悪政、その後の空位の混乱の中で、大義のため、多数の民のために「ある程度致し方ない」と被らざるを得なかった罪だと思うのです。
 この当時の斡由は本当に、自分が罪を犯してでも民を守ろうとしていたのではないかと思います。王が民を虐殺し、高官たちがそれに阿る、秩序の崩壊した世界では、正義を貫くため、守りたいものを守るために、自分も汚れてでも対抗するしかない、ということは往々にしてあると思います。

 また、斡由にはこの時、先王が道を失い、国官も先王に阿る者たちに専横され、州侯である父も同様に先王に阿る中で、2つの価値観が強く生まれたのではないかと推察します。
 それは、「王というものを信用できない」と「元州を守るためには自分が実権を取らなければならない」というものです。

 この、「王というものを信用できない」というのは、六太の言っていたことと似ているようで、少し違うものだと思います。
 斡由は当初、六太の誘拐の目的はとりあえず漉水、と言いますが、実際の要求はそれだけではなく、「王の上に上帝位を置いて、そこに自分をつけろ」というものでした。

 これに、権力者というものすべてを忌避し、「民の王は民自身だけでいい」と思っていた六太は反発し、ここで六太と斡由の間には意見の差が生まれます。
 また、この要求に対し、驪媚が反論したことで、驪媚と斡由の論戦が始まります。
 私、この論戦大好きで。
 斡由は「梟王は王として選ばれたのに圧政を敷いて民を苦しめ国を荒廃させた。だから王の選定など信用できない。王を形骸化し、別の者が実権を持てばいい」という趣旨のことを言い、これに対して驪媚は、「王ならば道を失えば天の理が働いて、いずれ斃れるけれど、天の理が働かない上に寿命のない仙が道を失えば、止める仕組みがなくより悲惨なことになる」といった内容の反論をするんですね。

 私、この驪媚の反論がとても聡明で大好きです。ある種冷たさすら感じる、合理的な反論だなと思うのです。
 驪媚の言い分はつまり、「王であろうとなかろうと、人は誰しも道を失う場合がある。それならば、道を失った時に天の仕組みによって斃れることになる王が国を治める方が、寿命のない仙に実権を渡し、天の仕組みが働かないより遥かに安全だ」ということだと思います。
 驪媚のこの聡明さ、合理的な考え方、私は大好きです。
 完璧な人間などいないからこそ、その中で比較的悲劇を防げる道を選択すべき、という非常に論理的な考え方だなと思っています。
 驪媚のこの、物事の本質を見抜く聡明さ、私はずっと大好きで、この人はどうしてこんなにも賢いのだろうと敬愛しています。
 500年後の戴国で、まさにこの驪媚が危惧したことが現実になってしまったんですよね…。500年前にこの危険性を見抜いている驪媚の聡明さ、本当に憧れます。

 これに対し、斡由は明確に答えず、「梟王を選んだのもまた天だから、天は信用できない」と繰り返すので、話は平行線で終わってしまうんですよね。「王の選定は信用できない(王が道を失うことがある)」という斡由の意見と、「王でない者が王よりも権力を持ち、道を過った時に天の制御が効かないのはより一層危険」という驪媚の意見はどちらも正しくて、もっと深めればとても先進的で面白い議論になったのではないかと思うので、個人的にはここで話が終わってしまったのは残念でした。
 私はここから、斡由は先王時代の末期から空位の時代を生き抜く中で、「王は信用できない」という価値観があまりに強くなっているのではないかな、と感じました。
 ここに加えて、王も国の政治のあり方も信用できず、州侯である父が王に阿る中で、斡由には「自分が実権を持たなければならない」という意志も強く育まれたのではないかと思います。
 だから「自分が上帝位につく」というのが、斡由にとっては本当に最適解だと思っていたんだろうなと思います。
 「他に相応しい人がいれば譲る」とも言っていますが、斡由にとってはきっと、他に相応しい人はいないんですよ。だって、相応しい人がいない中で、実権を奪い、指揮を執って民を守ってきた人だから。斡由の世界はそういうものとして出来上がってしまっているのではないかと感じるのです。

 でも、時代は変わっていきます。新王が登極したことで、「多少間違った形でもそうするしかない」としてきた部分に、疑問を抱き始める人が出てきて、それから斡由の歯車は狂って行ってしまったのではないでしょうか。
 確かに斡由が民を守るためにしたことは必要悪でしたし、先王時代や空位の時代は「州侯である父が病に臥せっているから」という理由で斡由が実権を握ることは、国の秩序自体が崩壊しているのだから仕方ないという考えが主流だったのでしょうけれど、時代が変わり、その線引きを厳しく見る人や、秩序や形を重視する人が増えてきたのだと思います。
 それに対し、斡由は秩序通りになれば自分が実権を手放さなければならないと分かっていることから、更に「必要悪」を重ね、自分に反対意見を述べる人たちを秘密裏に暗殺させてきたのではないでしょうか。
 そうして箍が外れて、本来守るべきである元州の民を暗殺するという、取り返しのつかないところまで行ってしまったのだと思います。

 私は、こうした斡由が囚われたものは、この物語の中で、六太や民たちが超えていったものだと思います。
 「王は王だから信用ができない」は、六太がかつて抱えて超えていったもの。
 「必要悪」は、かつての荒廃の中で、親が子供を捨てる時に使われた理屈で、新しい時代に立ち上がった女性がきっぱりと拒否したものです。

 私は、この海神という作品は、「固定観念を超えていく」ということを描いているのではないか、と思っていて、「王は王という存在だから信用できない」という固定観念を、六太は超えていくし、民たちは最初から超えていて、「王」という記号ではなく、20年の治世の結果を見て自分たちの頭で考えて判断しています。
 そう捉えると、斡由は逆に、「王は王だから信用できない」という、先王時代に培われた固定観念に囚われてしまった人ではないかと思うのです。
 元々は、固定観念に抗って、王や州侯に抗って義を貫いた人だったのに、いつの間にか、積もり積もった別の固定観念に囚われていったのだと思います。
 王は本来敵ではないのだから、きちんとした目で見極め、話をしていたら、奪わずに済んだ命があったのではないかと思います。

 「必要悪」の理屈についても同様です。
 先王時代、空位の時代と続いた荒廃の時代には、その理屈が必要だったのだと思います。
 斡由は民を守るために父親を幽閉して実権を奪ったし、民は生きるために子供を捨てた。
 それは決して正しいことではないけれど、そうせざるを得なかったのだと思います。
 でもそれは、ずっとそこに捕らわれていいものではなくて、本当は超えていかなければならないものだと思います。

 だから、民は「必要悪」を超えた。六太も固定観念を超えた。
 けれども斡由は、「王は信用できない」そして「自分が実権を握っていないといけない」という意識が強すぎて、そこに捕らわれ続けたのではないでしょうか。

 私は斡由のことを、二面性のある人と思っていたけれど、二面性ではなく、一続きなのかなと思うと、しっくりくるような気がしています。
 斡由はかつて民を守ったけれど、そのためには汚れた役割も担わなければならなかったこと、また、末期の王朝と空位の時代の荒廃と抗う中で「自分が実権を握らなければならない」「王は信用できない」という価値観が育まれ、それらに拘り続けたこと、これらによって、本来守るべき民を犠牲にする、という、取り返しのつかない過ちを犯し、そのことにより為政者として完全に敗れ、斃れたのだと思います。

 新しい時代が来て、かつての価値観を超えていくべき時が来ている、斡由はそのことに気付くのが遅れ、時代の流れに取り残されてしまったのではないでしょうか。
 新王登極後、元州以外の州が徐々に豊かになっていったことを、民たちは実感していて、斡由はそのことによる民の王への支持を軽視してしまったことも、同じことなのではないかと思います。

 そして斡由は、暴走させてはならなかった価値観を暴走させ、言論封殺と民の暗殺を行った。これは完全に暴君のやり口で、斡由はそれに気づかずに、自分が王よりも為政者に相応しいと思い続けていましたが、この時点での斡由はもう、もしも王なら暴君となった末期の王だと思います。
 自分の意にそぐわないから民を殺す為政者は、もう道を失っています。かつて自分が抗い、憎んでいたものに、斡由自身がなってしまっていると感じます。
 かつて民のために善政を敷いた為政者が、やがて暴君になることがある、斡由が抗った梟王自身がそうした例そのものでしたが、斡由もその例に近いものがあるのではないかと思います。

 斡由の「間違ってでも多少の犠牲を生んでも大義を実践する」という姿勢があったから、秩序の崩壊した動乱の時代に、守られた民は数多くいたと思います。
 けれど、斡由は時代が変わって、秩序が回復していく中でも、それまでに培われた価値観に囚われてしまったから、だからかつて民を守った、汚れた行いも必要、というあり方が、本来守るべき民に向くことになってしまったのではないでしょうか。
 王であれば一切の犠牲を生まないということはなくて、王であっても、秩序を持って国を治めるために、犠牲を出したり、人を裁かなければならなかったりすることはあります。
 けれども、為政者が生むその犠牲は、決して「自分のため」であってはならない。
 「国のため」「民のため」でなくなった時、それは権力の濫用と暴走になります。
 斡由は新王が立って、時代が変わった時に、「王は信用できない」「自分が実権を握り続けなければならない」という価値観に強く囚われたことから、自分の立場を守るために秩序を捻じ曲げ続け、自分の立場を守るために言論封殺を行い、民を暗殺するようになったのだと思います。

 この、自分が生む犠牲が、いつの間にか「民のため」ではなく、「自分のため」のものになっていることを、斡由自身も気づいていたような気がします。
 だから、自分では手を汚さず、更夜を誘導して、更夜に罪と責任を押し付けた。
 これも尚隆との対比が顕著で、尚隆は、斡由の誘導により暗殺に手を染めた更夜が、六太の主も同じ命令をするかもしれない、と言うのに対して、「俺は六太に人殺しなどさせない。こいつにやらせるより、俺がやった方が早いからな」と言うんですよね。
 これ、とても尚隆らしいと言いますか…この人、本当に、民を戦わせたくなくて奇策を講じて一人で奔走する人だから…。民や臣下に、人を犠牲にすることをさせたくないんですよね…。自分はいつでも最前線で戦うし、武器だって取るのにね。小松が滅亡する時だって、最後まで民を逃がすために最前線で敵と戦ったように。
 為政者である以上、何の犠牲も生まないということは難しく、特にこの物語のように王朝初期の混乱している状態では尚更です。
 けれど、その犠牲は「国と民のため」でなければならないし、為政者はその犠牲の責任を忘れてはならないと思います。
 尚隆のこの「俺がやった方が早い」という言葉には、為政者として、自分が責任を引き受ける覚悟が表れていると感じます。
 驪媚に「万が一、事あったときには命を捨ててくれと言うに等しい。」と告げて頭を下げたのも、その役目を負わせる責任が自分であると引き受けているからだと思います。
 避けられない犠牲を、「国のため」「民のため」の範疇にとどめ、その責任を自分が負うこと。それが為政者の覚悟であり、尚隆の言動には、その覚悟がはっきりと見えます。

 新王が立ち、秩序が回復していく中で、斡由も、立ち上がった民たちのように、王の統治を見て固定観念を超えていけていたら、「自分のため」に民を犠牲にするという権力の暴走に至らず、王と対話して解決するとか、そこまでは無理でも少なくとも周囲に話をして、もっと他の道を探ることができたかもしれません。
 でもそうはならなかったから、斡由は民の意志の前に敗れたのだと思います。
 よりにもよって、その新王は、誰一人死なせたくなくて奔走し策を巡らす人だったから。
 斡由はその策の前に、民の犠牲を軽視したことが露呈し、それが決定的な敗北となったのだと思います。
 元州諸官の離反が決定的になったのも、堤を切って新易の民を犠牲にしようとしたことが最大の要因ですから。
 単に戦の勝敗だけではなく、為政者として、完敗です。

 そしてこのことに、斡由が気付いたのは、尚隆が斡由の前に現れて、「民を巻き込まずとも、俺とお前が打ち合ってみれば済むこと」と言った時、そして「温情とやらを大盤振る舞いしてやるから、見張りを立てて自傷させぬように」と言った時なのかなと思います。
 えっもうここの尚隆も大好きなんですけど、本っっっ当に、徹底して誰も死なせないようにしていますよね…。元州の民も含めて、戦で民の命を失わないようにしている。斡由が堤を切ったせいで開戦してしまったのに、民の呼応と元州からの離反者続出で圧倒的に有利な状況で、攻勢に出ずに一騎討ちに持ち込むって、もう完全に、単なる戦の勝敗よりも民の命を優先しています。
 ここまでの策全部、できる限り民を失わないために巡らせたものでしょ…。
 そして斡由の命すら救おうとする。徹底していませんか…。

 ここで斡由は、尚隆という王がどんな人物だったのか、それを見誤っていた自分と、為政者としての敗北と世代交代を悟ったのではないでしょうか。
 私は斡由に対して、この人何がしたいんだ?と思うことが多々あるのですが、1つだけ、これはこの人が何をしたかったのかはっきり分かるな、というところがあって、それが最後の、尚隆に斬りかかるところです。
 これ、斡由は尚隆に決着をつけてもらいたかったんじゃないかなと思います。
 世代交代を悟ったから、決着をつけて、敗れて去りたかったんじゃないかなと。

 私は斡由がおとなしくしていれば、尚隆は斡由を助けて何らかの地位に取り立てるつもりがあったんじゃないかと思っているのですが、斡由はきっと、次の時代には行けない人なんですよね。あまりに理不尽に民を犠牲にしてきたから。
 混沌の時代の理屈はもう通用しない。施政に伴う犠牲も許容される範疇を逸脱して権力の濫用に至ってしまった。だから斡由がしてきたことは許されない。
 一介の民としてやり直すことはできたかもしれないけれど、少なくとも為政者ではいられないです。尚隆にも完敗しているし。
 だから、斡由は、混沌の時代の為政者として、新時代の為政者に敗れ、為政者のまま死にたかったんじゃないかなと思います。

 本当に私は斡由のことはあまり理解できていないのですが、ただ、斡由は最後、決着をつけて敗れて死にたくて、新時代の王に敗れて世代交代のバトンを渡したくて、尚隆に斬りかかったんじゃないかなと思うのです。
 ただ、斡由の望み通りにはならなくて、斡由に致命傷を与えたのは、六太と更夜、二人の声でした。かつて荒廃の中で親に捨てられた二人の子ども。
 その子どもたちが、自分たちの未来を選択した、その民の声によって、斡由は致命傷を負うのです。何というか、やはり、最後まで、斡由は民の意志に敗れたのだな…と思って何とも象徴的なシーンだなと思います。

 でも、この後、瀕死の致命傷を負った斡由に対し、尚隆は「……いま、楽にしてやる」と言って、首を斬るんですよね…。
 はあああ…ため息出ちゃいますよ。
 尚隆、ここでも、人の「願い」を叶えるじゃん!!

 決着をつけてあげるじゃん…新時代の王として、民の「願い」を叶える王として、斡由からのバトンも、受け取るじゃん…。
 本当に、どこまで人の「願い」を汲み取り、叶えていく人なんですか…。

 正直、私は、斡由はあれだけのことをしておいて、まだ尚隆に決着つけてもらおうとするんですか!?求めすぎじゃないですか!?と思うのですが、尚隆は…受け取るし「願い」を叶える人ですよね…。
 斡由も雁の民の一人だし、自分が来るより前に、雁の民を生かしてきた人でもあるから。

 自分が王に立つ前に、民を少なからず守った人だから、だから尚隆は、最後までずっと、斡由に手を差し出し続けていたように感じます。
 それから、国の安寧のため、どうしても生まれる犠牲の責任は為政者として引き受けなければならないから、尚隆はそれを自分が引き受ける覚悟が人一倍強い人だから、だからその役目を尚隆は引き受けるんですよね…。
 これ、六太にその責任を負わせない、という意味もあるのかなと思いました。斡由は六太が尚隆を守るために発した命によって、六太の使令に喉を噛み切られ、瀕死になっていたから。
 それを、尚隆が止めを刺すことで、尚隆は「俺は六太に人殺しなんかさせない。」の言葉を守り、その役目と責任を自分で引き受けているのです。
 あ…あまりにも有言実行過ぎて、言動が一貫していて、この人本当にどこまでも自分に課した覚悟と他者への優しさに溢れた人だなと思います。大好き…。

 それと、漉水の治水、着手できたのは、民を集められたり他州の動きを封じられたり、そういう条件が揃ったからで、それができたのはある意味、斡由が大逆という事を起こしたからではないかと私は思っているので、そのことも、尚隆が斡由からのバトンを受け取った理由の一つでもあるのかな、と、少しそんな風に思ったりもします。

 

更夜の望んだもの

 さて、そんな斡由に拾われ、射士として仕えていた更夜からも、物語を見ていきたいです。

 今回この作品を再読して、私が1番新鮮に新しい視点で読めたのが、更夜に関する部分でした。

 更夜は、空位の時代の荒廃した雁の中に生まれ、こちらもまた六太同様、口減らしのために捨てられた子供でした。

 同じように、時代の悲劇の被害者になってしまった二人ですが、更夜は、麒麟であったがゆえに蓬山から迎えが来た六太とはまた違った、数奇な運命を辿ります。
 妖魔に拾われて育てられるんですよね…。

 それゆえに、その後も妖魔が恐れられ、忌避されることから、人々から迫害され、どこにも居場所がないままさすらい続けて生きていました。
 でも、育て親である妖魔が人を襲わないようになれば、人が妖魔を恐れて傷つけることはないはずと信じて、いつか人の輪に入れると信じて、妖魔に人を襲わないように説き続けた、そのために自分の食事を我慢してでも獣の肉を妖魔に与える努力を続けた、純粋な子です。

 それでも人々から迫害され、追われて攻撃される中で、更夜は斡由と出会います。
 まずここが、私の中で1番印象の変わったところでした。
 というのも、私が思っていたより、このシーンの斡由がかっこいいんですよ。
 妖魔を恐れずに更夜に話しかけるし、よく笑うし、何より、更夜がずっと求めていた、人の手の温かさを更夜に与えてくれた人なんですよね。
 そして、更夜を自分と一緒に連れて行こうとして、「ろくたも……一緒?」と問われて、眩しいほどの笑みで「もちろんだ」と返すんです。
 妖魔を妖魔だというだけで厭わない。これが、堕ちてしまう前の、輝いていた頃の斡由の姿なんですね。
 往時の斡由は、反体制的な反骨精神で自分の正義を貫いていましたから、こういう荒廃の中にいるはみ出し者に対しても受け入れる素地があったのかな、と思ったりします。

 初めて、妖魔のろくたと一緒でも人の輪に入っていいと言われて、ずっと求めていた人の手の温かさに触れて、更夜は嬉しかったと思います。斡由に対しての恩義は計り知れません。

 けれど、これが物語が進むに連れて、どんどんと反転していきます。

 斡由が更夜をけしかけて、妖魔のろくたを利用して、斡由に反対する官吏の暗殺を行わせるんですよね。決して直接命令はせずに、不安を語り、言外に含みを持たせて、更夜が自ら行動するように仕向けました。
 もう、このシーンの更夜が、あまりに可哀そうで辛すぎました。
 歯の根が合わないほど震えて、顔面蒼白で、それで官吏は城外に追放したと言う更夜を、斡由は「よくできた射士だ」と笑って褒めたたえるんですよ。
 怖すぎました。サイコパスか…?ここの斡由が本当に非道すぎて恐ろしいです。

 更夜は無垢な子供の頃に斡由に拾われて、斡由に恩があるし、斡由のところ以外に居場所もないし、心を殺して斡由に従い続けてしまうんですよね…。辛い…。更夜には他の選択肢なんて見えなくなっているのに、それを利用する斡由が卑怯すぎるし恐ろしすぎました。
 更夜はこれを繰り返すうちに、すっかり心が荒んでしまい、いつの間にか殺戮に対しても心が動かなくなっていました。これ、防衛本能ですよね…。平気になった訳ではない。ずっと苦しんでいたんだろうなと思うのです。
 人から迫害される中で、唯一手を差し伸べてくれた恩人が、殺人を唆しながら罪を押し付けてきて、もう何も信じられなくなっても心が壊れてもおかしくないです。
 そうして心の荒んだ更夜は、「他人なんか、知らない」「斡由だけ、良ければいいんだ」「全部滅びてしまえばいい」と言うんですね。
 ここから、先に述べた「ここはお前の国だ!」という、尚隆の激昂シーンに繋がります。

 もう本当に、このシーンの、「民のいない王に何の意味がある。」「死んでもいいと抜かすのだぞ、俺の国民が!民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ⁉」と言って、声を荒げて激昂するほど民を想い、民から必要とされることを求めている尚隆が本当に大好きなのですが、ここで、更夜は当たり前に尚隆に民として扱われて、当たり前に「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいる」と言われるんですよ…。
 そんな居場所はずっと求めていたけれど、どこにもないんだと心が荒んでいる更夜は、この時はそんな綺麗事を信じるほどおめでたくない、と返すのですが、けれどもこの時、尚隆の真剣な心と言葉は更夜の心に響いていたのだと思うのです。

 だから、更夜は「できればお前の妖魔を動かすな。飼い主の前で斬りたくはない。お前もだ。」という尚隆の言葉に従って、斡由が尚隆に斬りかかった時、咄嗟にろくたを止めたのだと思います。
 私は、このシーンは、尚隆が王だと確信し、尚隆を助けたかった六太だけでなく、更夜も、希望を信じられる国の未来を選び取った瞬間なのだと思います。

 それからもう1つ、物語が反転するという意味で象徴的に感じられる描写があります。
 それが、「襲わないと言っても、妖魔を信じて近づく者などいない。斡由でさえ——ろくたを撫でたことはないのだ。」と明かされる部分です。
 これね…。まあ、それは人間の心理として、仕方ないと思うんです。受け入れると言って、そういう姿勢を見せていても、怖いものは怖いですからね…。
 仕方ないことで、これに関しては誰も悪くないと思いつつ、更夜にとっては悲しいな…と思いました。

 だって、更夜は育て親である妖魔のろくたと一緒に受け入れてもらえる居場所をずっと探し求めていたのですから。
 ろくたと別れてもいいのであれば、六太と出会い友人となった時に、六太と一緒に関弓に行くこともできたし、その後も一人でなら人の輪に入れる機会は何度もあったのです。
 けれども、ろくたと一緒にいたいから、育ててくれたろくたと離れたくないから、だから更夜はどこにも属せず、ずっと一人で生きてきたのでしょう。
 更夜はそういう、恩を大事にする優しい子供だったのだと思います。そういうところを、斡由にも利用されてしまったんですよね…。

 ろくたと一緒にいるために、人のいる場所で人と一緒に生きたいという望みを諦めていた更夜にとって、「ろくたも一緒?」に対して、「もちろんだ」と返して手を差し伸べてくれた斡由は、それは眩しい存在だったと思います。
 斡由だけ良ければいいと思ってしまうくらいに特別な存在だった。
 けれども、その斡由ですら、妖魔に触れてはくれない、というのは、悲しい断絶を感じます。

 さて、そんな更夜ですが、斡由が絶命した後、自分も処罰を受け入れると言いますが、尚隆は処罰しないと言います。
 ここで、尚隆は、「俺はお前に豊かな国を手渡すためだけにいる」と繰り返し、「俺は欲張りだからな。百万の民と、百万と一の民なら、後者を選ぶ」という本心を見せるのですが。こういう尚隆の本心が見える場面が大好き、という話は先に触れたとおりです。

 これに対し、「どんなに国が豊かになっても、その国におれのいる場所はない。……妖魔の子だから」と返すんですよね…。
 これ私、すごく好きで。人と妖魔は混じり合えない、という、現実の厳しさだったり、世界の理の隔たりを感じます。これより前の場面で、更夜が自分のことを「荒廃の申し子」と認識しているのも、悲しいけれど、そういう人間の存在って、忘れられたり、取り残されたりしてはいけないな、と感じる言葉です。
 斡由は荒廃の中で理屈をひっくり返して抗ってきた人だから、だから「荒廃の申し子」という、荒廃によって生まれたはみ出し者の更夜に手を伸ばして内側に入れることができたのかな、とも思います。

 斡由は荒廃の中での生き方を貫いたから、新しい時代に行くことは拒否したけれど、更夜はずっと、人の世で生きていくことを望んでいました。
 そんな更夜に、尚隆は「お前とその妖魔に住む場所を与えよう」と言うんです。
「妖魔に襲われることのない国だ」と。
 人が妖魔を疎むのは、荒廃した国で妖魔が人を襲うからで、荒廃がなくなり妖魔が人を襲うことがなくなれば、更夜の言うことを聞いて人を襲わないろくたのことを、誰も恐れなくて済む、と。

 は~~~大好きです…。
 いや本当に、「珍しい妖獣だと、それで済む」と言う尚隆、あまりに器が大きい…。
 本当に柔軟で度量の広い人。そして、どんな民も、その民自身のまま、生かそうとする人だなと思うのです。

 ずっと、育て親のろくたと一緒に社会に居場所が欲しかった更夜に、その願いのとおりの居場所を約束しようと申し出るんですよ。
 ここでも尚隆は、民の「願い」を掬い上げて、それを叶えようとするんですよね…。
 物語が、美しすぎませんか…。
 尚隆にとって、更夜もしっかりと民の一員で、「荒廃の申し子」だから、と置いていかない、というのが…良いですよね…新しい時代への希望に満ちていて…。

 そしてここで、尚隆は手を伸ばして、妖魔のろくたを撫でるのです。
 ここ!ここ!ここです。
 わ~~~!斡由ですら撫でたことがない、と明かされたのが、ここで尚隆がその断絶を超えていくんだ~~~!!と思って。
 ここが、今回再読して、物語が美しくて新鮮に感動したポイントでした。

 何だか本当に、この海神という作品は、「固定観念を超えていく」作品で、「前時代の荒廃を超えていく」作品でもあるな、と思うのです。
「妖魔は人を襲うもの」という人の忌避感や恐怖心を超えていこうとしている。
 そういう国を作ると約束している。
 そしてその約束をした王は、妖魔を更夜の家族として受け入れ、更夜以外に誰も触れたことのなかった妖魔に初めて触れるんです。
 妖魔と一緒に人の輪に入りたかった、そんな更夜の願いを、口約束だけでなく、行動でこれまでのすべてを凌駕して叶えると示すんですよ…。

物語が美しい…。そして尚隆があまりに器が大きい…。大好き…。
 民の「願い」の降ろす先を心から求めた人は、本当に民の「願い」をどこまでも掬い上げる。
「荒廃の申し子」も、置き去りにせずに新しい時代に連れていく。

 これまでに、尚隆の民を想う想いは、六太が六太自身でいられることを可能にし、そんな尚隆が20年かけて築いてきた国は、民が希望を持って、民自身でいられる国、六太が望んだ、親が子供を捨てたりしなくていい国そのものなのではないか、という話をしてきました。
 民が民自身でいられる国、というのは、更夜に対しても同じで、かつて荒廃の中で捨てられ、妖魔に育てられて生きてきた更夜にも、妖魔が家族のまま受け入れられる国、更夜が更夜のままでいられる国を、尚隆は約束したのだと思います。

 そんな未来、そんな国を信じた更夜の、「……いつまででも、待っているから……」。
 言わずもがなの名シーンですね。 
 希望に満ちていて、切なくて、何度読んでも胸に込み上げるものがある、大好きなシーンです。

 物語が!!美しすぎませんか!!!(何度目)

 本当に、物語の軸が一貫していて、様々な場面でその意味合いがすべて繋がっている、というのが、あまりにも美しくて、私はこういう物語の構造が大好きです。
 十二国記って、全体的にそういうところがあって、別の国、別の時代の話が、実は同じ意味合いで繋がっているとか、裏表になっているとか解釈できるのが私は大好きなのですが、海神は、一つの作品の中でそれと同じ読書体験ができるので、何度でも咀嚼してしまう作品です。

読めば読むほど新しい発見があって本当に楽しい。そして美しい。



物語が美しい!

 物語が美しい、という話にたどり着くことができたので(いかんせん長すぎる…ずっとここをゴールに描いて書き綴っておりました)、最後に物語全体の話をしたいと思います。

 私は、この海神という作品について、どうしても主張したいことがあって、それは、この作品が、他の十二国記作品と断絶していない!ということです。

 と、いうのも、他の十二国記の作品では、「王であろうとなかろうと、一人ひとりが自分自身として立つことが大事」だとか、「王がいない世界でも民が自立できる方法の模索」といったことが描かれていることが多いのです。(具体的には、『風の万里 黎明の空』とか、『図南の翼』、『黄昏の岸 暁の天』あたりがそのような物語になっているかと思います。)
 一方で、この『東の海神 西の滄海』という作品は、王が謀反を解決して、民が王を支持して大団円、という物語の形をしているため、一見すると、優れた王がいれば解決!という、単純な王制礼賛に見られてしまいがちのように感じます。

 でも私は、この作品は、そうした単純な王制礼賛ではなく、他の十二国記作品と断絶したイレギュラーな作品でもなく、十二国記の他の作品にも共通するメッセージを内包した作品だと思っています。

 それはなぜかというと、私が、この海神という作品を通して、「民が自分自身で立つことが大事」というメッセージを受け取っているからです。

 この作品では、民が王を選んで行動するから、権力礼賛のように見られかねない部分がありますが、これまでに書いてきた通り、私は、この作品で描かれた民たちは、生活の実感から自分たちの目と頭で判断して、自分たちの未来を選択したのだと思っています。
 「王が王だから選んだ」のではない。「王が王だから信用できない」でもない。

 そういったことではなく、自分たちのそれまで歩んできた道と生活の実感、それらを実現できた要因を、自分たちできちんと判断したから、だから自分たちの生活と未来のために、それまでに生活水準の向上を実現してくれた王を守ろうと立ち上がったのです。

 そもそも、土地を耕し、焦土から緑の芽吹く農地を回復させたのは、他ならぬ民たち自身です。
 王や王の厳選した側近たちはそれが可能になるように環境を整えるべく奔走しましたが、実際に耕したのは民たちです。

 だから民たちには、誰よりも、自分たちが手を入れたものが報われる実感があったのだと思います。
 彼らは、自分たちで作り上げた、自分たちの力で手に入れたものを、自分たちの手で守ろうと立ち上がったのです。

 この民たちの姿は、まさに「民が自分自身で立つ」の体現そのものだと思います。

 民が王を選んだのは、尚隆の統治のあり方が、民が自分たちで立てる環境を作り続けてきたからだと思います。

 私は、この作品は、固定観念を超えていくこと、自分の目と自分の頭で考えることの大切さを教えてくれる作品だと思っています。
 だから私は、この作品が大好きなのです。

 「王が王だから信じればいい」という話ではなく、「王は王だから信用できない」を超えていく話だと思うのです。
 六太は「王は王だから信用できない」を超えて、自分自身の目で見た尚隆自身を信頼したし、斡由は「王は王だから信用できない」に囚われたけれども、最後の最後で敗北を悟って自ら幕を引いた。
 民は「王」という記号でなく、自分たちの生活の実感から自分たちの未来を選択した。
 驪媚も、更夜も、「王」という記号ではなく、尚隆自身の態度と言葉、そこから見える心を信じたのだと思います。

 彼らの生き方や、選択を見ていると、自分の未来を自分で守り、良くしていくには、固定観念を超え、自分自身の目で物事を見て、自分の頭で判断し、そして希望を信じて行動することが肝要なのだと、そのことを何度でも教わることができると、私はそう思っています。

 それから、この物語は、誰もが「己自身であること」を獲得していく物語なのではないか、とも思いました。

 これまでに書いてきた通りなのですが、この物語は、役割と己の自我との間で葛藤した六太が麒麟の性ではなく、六太自身で尚隆自身を見ることができるようになり、民が飢えや荒廃によって「仕方がない」からと子供を捨てなくて済むような未来を自分たち自身で選択し、荒廃の中で生まれ育った更夜が育て親の妖魔と一緒に暮らすことのできる国を約束され、その約束を受け取りました。
 これらはすべて、自分が、「仕方がない」と諦めることなく自分自身のまま生きていける未来を獲得していく物語、「仕方がない」を越えて、「己自身であること」を獲得していく物語だと、私はそう受け取っています。
 斡由も、為政者としての敗北を認め、為政者として死ぬことを選んだのは、最後の最後で「己自身であること」を貫いたのではないかと思います。

 この、「己自身であること」って、『月の影 影の海』で、尚隆が陽子に語った「王の資質」であり、『風の万里 黎明の空』で、陽子が自分の民にこうあってほしいと示した姿そのものだと思います。
 だから私は、この作品で描かれた、雁国に生きる人々の姿は、他の十二国記の作品で提示されている「己自身の王」になるために、「己自身の王」であるために、それぞれがそれぞれの戦いに向き合った姿なのではないかと思っております。

 一方で、彼らがそうした「己自身であること」を獲得できるように、そんな国を実現すべく奔走していた尚隆ですが、私は彼自身もまた、この物語の中で、「己自身」を取り戻すことができたのではないかと思います。

 尚隆は一度、自分が領主として治めていた国と民をすべて失い、民から託され背負っていた「願い」の降ろす先がない、と、生きるよすがを失っていました。
 託されたものを返す先がないから生きていけない、と民に殉じて死ぬつもりだった尚隆は、他に託される国があったから生きることを選びました。

 そんな尚隆が、民たちの呼応を受けて、雁の民に必要とされていることを実感することができた。そして、雁の民からも「願い」を託されていること、彼らが「願い」を返す先として受け取ってくれる意志があることを実感することができた。
 その民たちの呼応と意志によって、尚隆は自分を雁の王と認めることができ、雁の王としての自分自身を手に入れることができたのではないかと思うのです。

 私は、雁の王としての自分自身を手に入れることができたこの物語は、尚隆にとっての実質的な登極の物語だったのではないかと思います。
 自分自身を取り戻した尚隆と六太が、自分自身として王と麒麟になることができた、だから「お前は約束を違えず、俺に一国をくれた。だから俺はお前に必ず一国を返そう」「ではおれは、尚隆がいいと言うまで、眼を瞑っている……」は二人にとっての二度目の、本当の意味での誓約のシーンなのだと思います。

 それを象徴するように、元州の乱の平定後、尚隆は改元し、元号を「白雉」としています。
「白雉」と言えば、十二国の世界で、王の登極と崩御の時に鳴き、それを知らせる霊獣です。

 これですよ!
 いや、私の解釈でしかありませんが、本当に、この物語が、尚隆にとって本当の意味で登極に至るまでの物語だったのだなと思うのです。
 尚隆も、六太も、民たちも、皆がそれぞれに戦い、互いに必要とし必要とされ合って、「己自身」を取り戻せたこと。それが尚隆の王朝の本当の意味での始まりだったのだと思います。

「白雉鳴号。雁国に一声あり」ですね。

は~~~美しい。物語があまりに美しい。大好き。

 かつて「願い」を託されてそれを叶えて返すことができず、その重いものを返す先を切実に求めていた人が、立ち上がった民からも、六太からも、同志として戦った官吏たちからも、更夜からも、斡由からも、たくさんの「願い」を受け取り、託され、叶えていく物語だと思うと、この作品があまりにも美しい輝きに満ちていて、読めば読むほど大好きになって堪りません。

 余談になりますが、尚隆は小松の民から託されたものを返せなかった、彼らの「願い」を叶えてやれなかった、と言っていますが、私は、実は小松の民の「願い」は1つ叶っているのではないかと思っています。
 それは、尚隆が生きたことです。

 小松の民たち、尚隆には怒られてしまいましたけれど、「どうかお屋形さまばかりは、落ち延びてくださいませ。」と懇願していたんですよね。
 それは小松再興のため、民が苦難を堪え忍ぶため、と言ってはいましたが、彼らは、大切に育ててきた若を、ただ死なせたくなかったのではないかと私は思うのです。
 尚隆は小松の若だった頃から、よく領民たちと一緒になって賑やかに過ごして、領民たちから慕われていましたし、あの場で尚隆に「落ち延びてください」と懇願した彼らは老爺たちであったことを考えると、自分たちが見守り育てた若、という感覚で、大切に想ってきたのではないかと思います。
 だから、彼らは家の再興と言ってはいますが、あの懇願は、ただ、尚隆に生きてほしいと思っていたのではないかと思うのです。

 尚隆は、小松の民たちの「願い」を叶えてやれなかった、降ろす先がない、と言っていましたが、実は尚隆が雁の王として生き続けることは、小松の民の「願い」を1つだけ、叶え続けることになるのではないかと、私はそんな風に思っています。
 これはもしかしたら、ただ私の「願い」なのかもしれませんが。



ラストシーンが美しい!

 本当に、この作品は、読めば読むほど、物語の構造的な美しさに気づくことができますし、何度読んでも、人の生き方や熱い想いに胸を打たれます。

 結びの言葉に代えて、ラストシーンの美しさについて語って、この感想文を終わりにしようと思います。

 終章、こちらもとっっっても美しくて大好きです。
 こちらの美しさは、物語の構造的な美しさというより、情景描写の美しさを感じています。

 斡由の乱から10年が経ち、諸官の整理も行って、国情が落ち着いた頃の玄英宮の日常風景。
 本編ラストの二度めの誓約シーンから時が経って、より一層仲が深まっている尚隆と六太が可愛らしいです。
 二人で出奔計画を立てているのも微笑ましく、心が和みます。
 そしてここでも、他国へ出かけるのも、豊かな国を見て自国の参考にするためなのだから、本当に、自分たちが楽しみながらもいつも国と民のために動いているのだな、という信頼も感じてしまいます。
 そして二人は仲良く騶虞に跨り、外界へ飛び立ちます。

 この後のラストの1文が本当に美しくて。

見降ろす下界には一面の緑野が広がっている。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.341

 あ~~~~~!!!!!
 美しくないですか!!!!!

 情景が直に心に伝わってくるかのような描写。
 そして、あれから10年経って、本編時点より更に緑が広がるようになったということ。
 そこに至るまで、尚隆も六太も、官吏たちも民たちも、変わらず熱く邁進し続けたのだろうと、この1文でその10年に思いを馳せてしまいます。

 この国は人が皆頼もしいから安泰だな~と、幸せな気分で満たしてくれる、最高のラスト1文です。

 そして、ここで大団円でクライマックスかなと思うと、最後にもう1つ、別のクライマックスが待っているのです。

 巻末の史書です。

白雉八十七年、元を改め、大元とす。元年、上、乗騎家禽の令を発す。騎は古来、馬、牛、妖獣なり。これに妖魔を加えて四騎とす。家禽は六畜なるを、これに妖魔を加え、七畜とす、と。各社、城門、里閭にこれを高掲せしめ、青海黒海の沿岸、金剛山にまで国土の尽くにこれを発布せしむ。十二国を俯瞰するに、三騎六畜に妖魔を加うるは、是れ惟だ雁国にのみ於いてす。

新潮文庫「東の海神 西の滄海」P.342

 いや…。もう…。感動ですよ…。胸に込み上げるものが熱いですよ…。
 更夜に約束した国の、実現のために法律が作られている…。
 いや~~~~~もう…本気じゃないですか…。国が変わる、政治の大切さってこういうところにあるなと実感します。

 一面に広がる緑野も、妖魔とともに暮らすことのできる国も、皆の選択と行動が実現したもの。
 望む未来のため、何かを「仕方がない」と諦めることなく自分が自分自身でいられる国を作るため、誰もが考え、選択し、行動し続けてきたのだと伝わってきます。
 そして私はこの国が、今では500年超の大王朝となって栄え続けていることを知っている。
 そのことは、この国の人々のそうしたあり方が、ずっと変わらずに受け継がれてきたのだろうと、確信させてくれます。

 この作品で描かれた、どんな時でも希望を失わずに、物事を自分の目で見て自分にできる行動を考え、動き続けられる、そんな不屈の強さと明るさを持った雁国の人々が私は大好きです。
 立ち上がった民たちも、奔走した側近たちも、足掻いて犠牲になってしまった人々も、元州の官吏たちも、更夜も、斡由も、六太も、尚隆も、皆が常に自分で考え、選んで、行動したものは、着実に未来へと繋がっていったと思います。

 選択と行動が望む未来を作ると、この作品はいつでも私にそんな希望を与えてくれるのです。
 私の心に広がる一面の緑野はその希望の象徴です。


 雁州国よ、未来永劫、平穏豊かで幸福であれ。

 
 ありったけの愛を込めて。
 これは私の、感想文という名の、雁州国へのラブレターです。

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