2002年からの武術エッセイ
いくら武術だからといって、目を突いたり、金的を蹴ったり、指を折ったりする、そんな技術を使っていいわけがない。
しかし、武術というものは、そんなことを前提に攻防技術が成り立っている。
これらの技術は、使えばとりかえしがつかなくなる。相手を一生不具にしてしまう、あるいは命さえ奪ってしまう。やったほうもやられたほうも人生をだいなしにしてしまう。
この武術というものは、現代においては「悪」なんだと思う。
使うのは、だれかの命をまもるためか、自分の命をまもるために使うときだけ・・・。
しかし、まもるためとはいえ、相手をこわしてしまうということは、まぎれもなく「悪」だと思う。
現実としては、相手が「悪」だから、自分が「正義」となって闘ったなんて単純な図式にはならない。
相手が「悪」だから自分もしかたなく「悪」になって闘ったという見方のほうが現実的だろうと思う。
これは人間関係における最「悪」の事態であり、極力避けてとおらなければいけない場面である。
武術だなんだと言っても、結局は「悪」の技術だ。
それをどう扱うかは、自分次第・・・。
世の中を嫌って、それにのめりこむか?
金儲けの手段として、上手に切り売りするか?
チャラチャラと技をコレクションして骨董趣味にはしるか?
いずれにしても武術はおもちゃじゃない。
宗教でもない。
骨董品でもない。
武術はまぎれもなく「悪」の技術だ。
学ぶのも教えるのも、これは「悪」の技術を扱っているのだという認識が必要だと思う。
もともと武術は「悪」の技術なのだから、良識ある人を育てない。
だからひとを選んで、良識ある人につたえなければならないと思う。
2005年8月記す。
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