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2002年からの武術エッセイ

今日も休日出勤・・・でしたが、なんとか今、仕事が終わり久しぶりにこのエッセイを書いています。

桜の花が咲き、桜の花が散り、世間の春がのどかに過ぎていくのを横目でみながら、必死こいて働いておりました。
それでもなんとか、ゴールデンウイークには少しは休めそうです。
でも、へたに休んで体調崩すんじゃないかとの懸念もありますが、な~にそんなことは知ったことじゃございません。
連休中は思いっきり釣りを楽しんでやる~って感じです。

話がかわりますが、このまえテレビで「少林サッカー」をやっていったので、なんとなく見ていたんですが、そのときの主人公の意気込みや理想を見ていると、なんか若かりしころの自分を見ているような気がしました。
いやいや、勘違いなさいませんように!
私は自動車を空高く蹴り上げることなんてできませんから!
・・・・・あたりまえか・・・。

主人公の夢は「少林拳」を広めること。
そのためになんとか「少林拳」の素晴らしさを世間にピーアールできないものだろうかといろいろ考えてやっていましたね。
私も若かりしころ、彼と同じ理想に燃えていたことがあります。

「少林寺拳法」と「少林拳」はまったく別のものなのに世間では同じだと思っている。
なんとか「少林拳」こそが中国少林寺に伝わる拳法だと世間に知ってもらいたい。
そして「少林寺拳法」は日本人が考えたもので、技術的にも中国拳法の技術ではないということを知ってもらいたい。

太極拳はもともと武術なのであり、一説にはもう武術としての太極拳は無くなっており、それがもとになってできた体操としての太極拳しか存在していないなどと世間では言われているが、今なお武術としての太極拳は存在しており、少林拳と比べても優劣のつかないくらいすぐれた拳法であるということを広く知ってほしい。

中国拳法の門派は、少林拳と太極拳だけではなく、数百に及ぶ門派が存在しており、なかでも中国では形意拳と八卦掌が名門だと言われている。それにもかかわらず、日本ではほとんど知名度がない。
形意拳、八卦掌という門派の素晴らしさを世間の人に知ってもらいたい。

現代柔道は古流柔術とカラダの使い方がまったく違う。
柔道をやる人は剣道もやるということはあまりないし、剣道が強くても柔道ができるとはかぎらない。
しかし、柔術ができる人は剣術もできるのであり、剣術がうまい人は柔術もうまい。
これは、剣道の基礎は柔道の基礎とまったく関係ないが、柔術と剣術の基礎は共通しているからである。
したがって、柔道の基礎と柔術の基礎はまったく違うものである。
こんなことを広く世間の人たちに認知してもいたい。

そのためには、どうすればいいか?
まず、専門誌に投稿した。
自分の友達などに、一生懸命説明した。
自分で教室を開き、教えた。
演武会を開き、見てもらった。

しかし、効果は薄かった。
自分の腕が未熟だったこと。
世間の人たちが武術そのものに興味がなかったこと。
当時、新興宗教などがはやっていて、その一味ではないかなどと勘違いされたこと。

原因はいろいろ考えられるが、でもやはり一番の原因は、この平和な時代に武術など必要ないし、そのうえ、その中身の認識などどうでもいいと思っている人たちが多いということだろう。

今、考えると確かにそのとおりなのだ。
しかし、そのときは、どうしてこんな面白くてためになるものを世間の人たちはやらないのだろう?などとのぼせあがっていただけだったのである。

今の時代に武術が面白いなどとおおまじめで取り組んでいるほうがめずらしいのであり、それが変わっているということを思い知らされたのは、世間ではなく私のほうだったのだ。

まさに「少林サッカー」は、若かりしころの私の滑稽さを見せ付けてくれた映画でした。

今、私は自分の学んでいる武術を世に広めたいなどと考えていない。
これみよがしに演武することさえ無意味だと思う。
たしかなのは、武術というものが私の人生にとって非常に重要な役割をはたしているということだけである。
これは、わたしにとって、たまたま武術が重要なだけであって、他の人たちにとっては無用のものであっても、なんら不思議ではない。
なかには武術がその人の人生において害をなしていることだって充分にありうる。

要は、この時代遅れと言われている武術から、自分が何を学ぶかということが重要なのであり、武術そのものが重要なのではないということだ。
良いものを学ぶことができるならば、学び続ければいいし、何も得ることが無いならば興味を持つ必要もないし、あるいは、自分の虚弱なプライドの隠れ家になってしまうようならば、今すぐ武術から離れるべきだろう。

あくまでも武術は武術でしかない。

だから、もう武術を恩着せがましく教えるのはやめにしようと思う。自分が何を学ぶかだけが最優先だと思う。
教えることが学ぶことになるというのはわかっているが、所詮、武術は心でやるものだから、自分のこころすらふらふらしているのに、どうして他人にこころのありかたなどおしえることができようか。

少なくとも今の私には自分の修練で精一杯で、他人を教えるなどとだいそれたことなどできはしない。

ん~ん、だいぶ疲れているかな?
くら~い文章になってごめんなさい。

でも、武術って面白くてやめられないんだなあ~。
2004年4月記す。

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