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『The toy』想い出のおもちゃのゆくえ

自分は一人っ子。
だけど、少し年下のいとこがいた。
それは、母の姉の子ども。
その家庭は決して貧しい家ではない。
何なら、上に二人姉がいて、三姉妹そろって小学校から私立という
外から見れば、立派すぎるくらいの家。
大人の間でどのような力関係が働いていたのか分からないけれど、
私が買ってもらったもの、持っていたもの、
(お洋服やおもちゃなどありとあらゆるもの)
「わたしのもの」と思っていたものは、時期が来ると、
問答無用で強引に母に奪い取られ、いとこのもとへ行ってしまった。
自分がどんなに嫌と言おうが、まだ遊んでいるおもちゃであろうが
そんなことは関係なかった。

母親が神経質なこともあり、お洋服もおもちゃも、
新品同様とまではいわなくとも、きれいなものが多かった。
というか、きれいに使うように躾られてきた。
そんなおもちゃたちは、いとこの「モノ」になったとたん、
ボロボロになってしまう。
そんなものを見るのが悲しくて仕方なかった。

※ここからが本題
そしてつい先日、私は、今は亡き祖父に買ってもらって、一緒に遊んだ、
とある「おもちゃ」を思い出した。
『Scalino』 「つみきのビー玉コロコロ」 って呼んでたかな。

会うことがそう多くない祖父が直接自宅に買ってきてくれて、一緒に遊んだ、思い出のおもちゃ。
もれなく、いとこの家へいっているはず…。
たどると、いとこ三姉妹の次女が結婚するときに持っていき、
今や、全く知らぬところで、知らぬ子どもたちの「おもちゃ」に
なってしまっていた。(実際に知らないわけではない、かつて会ったことはある。)
もちろん傷だらけ。
言葉にならず、ただただ悔しくて、悲しかった。
そんな感情を抱く、自分の心の狭さに余計自己嫌悪にも陥った。

同じおもちゃの新品を買えばよい、という問題ではない。
その「おもちゃ」つまり、
『The toy』 には贈った人の「想い」ともらった人の「想い」
そして、様々な「想い出」が詰まっている。

『The toy』は、自分から奪われた後、自分が知らないところで、
もはやあげたつもりもない人、ほぼ他人にぼろぼろにされ、
わたしのおもちゃではなくなってしまっていた。
そんなものは見たくない。触りたくもない。

このくらいの年齢になると、
もしいつか自分に子どもができたら、こんなおもちゃいいな、
などと考えたりすることがある。
私は、自分でいうのも何だが、それなりに質の良いものを
与えられていた。
けれど、それらは今ことごとく、他の人のもとで使われている。
もしくは不要となったものは捨てられていた。
そう簡単に買えるものではない分、
何よりも想いが詰まっている分、悔しさや悲しさが増す。

これは、物への執着、というものなのだろうか。
「執着」ときくと、いいイメージはない。
「愛着」という言葉もあるが、…。
こんな「執着」を持つことはいけないことなのだろうか。
『想い出』はつのるばかりだ。

#おもちゃ #知育玩具#Scalino#昔の思い出
#大切なもの


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