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酔って思ったことを連綿と書き残す52「二つの愛」
はしがき。
今回も懲りずに、執筆中の小説、『シン・死の媛』二章の続きです。
小説を書き始めてから知ったのだけど、官公庁や市町村のホームページが結構ためになるというか、無学な私に様々な知恵を授けてくださいます。
文化庁のホームページには「敬語の基本」のようなコラム(コラムなのかな?)がありますし、東京都中央区だと「平和記念バーチャルミュージアム」というコーナーがひっそりとありまして、戦時下の資料や体験談などを溢れんばかりに見ることができます。中央区だけでなく、あらゆる自治体のホームページで、戦時下の暮らしを学ぶことができます。
中央区には大変お世話になっておりますし、前回の落書き、ヒトラー・ユーゲントの件では、大阪や福島の自治体のホームページにも大変お世話になりました。
日本の話を書いている訳ではないので、使えそうな話をいただきながらも、残り半分は完全に個人的な興味で、ついつい見ちゃう。
今回のお話では、二章の主人公である絢ちゃんの協力者であり、敵方の愛妾でもあるラウラ姫がミニコンサートを開きます。
ジョセフィン・ベーカー女史は、ラウラ姫の母体、表面上のモデルとして引用させていただきました。
ただ正確には、全体的なご活躍を幾人かのキャラに振っています。
生い立ちはラウラに。孤児については、書き終えた五章の先の先生に。名声については雨に。スパイに関しては、まさかのステエクに振っています。
なので個人的に、歌姫であるラウラ姫には、是非ともベーカー女史の歌った曲を、作中で歌ってほしかった。
今回の落書きは、そういう主旨です。
あとは、酔った絢ちゃんがツナギに絡むのを、どこかで書きたかった。結果的には最悪なタイミングになってしまった、という、今回のお話です。
ラウラ姫のプレイリストを、以下に引用させていただきました。
三曲目、絢ちゃんが「知らないなあ」と言っていたロシアの曲「長い夜を」は、多分、皆さんもどこかしらで聞いたことのある曲ですし、松山千春さんよりも長く夜を飛べそうな動画を選んでみました。
朝見ても、飛べます。これは、危ない。
*
途中、最寄りの郵便局にて電報を打った後、自宅で朝刊を広げ、煙草の値上げに改めて歎息。ツナギの解読した暗号電文をマイクロフィルムカメラに収める、夜の装衣を纏めるなど、諸事に追われたのち、外出。
途中の煙草屋で勿忘を忘れず買い占め、正午、通信基地四六九九にてツナギと交信。今朝傍受に成功した李宮発着の秘匿通信は、鋭意解読中とのこと。
午後一時、市電、登記所前停留所にて待ち合わせ。先日バーで『偶然知り合った』男性と、レストランみかどでランチデエト。
施工業者の上役である彼は、明るい時間のアルコールにひどく弱かった。グリルドチキンに、ステエク特製ビイルを三杯。彼は、ついうっかりと口を滑らせる。死の回廊の着工は一昨年の四月十五日。同月二十六日、竣工。僅か十二日間の突貫工事だった。
「急拵えの処刑台に、螺旋階段を取り付けるだけだったからねえ、のんびりしたものだったよ」
美柃の仮説は、案外当たっているのかも知れない。『三ヶ月あれば掘っ建て小屋の一つや二つ、こっそり作れそうじゃないですか?』
地下に。
李宮を監視した結果、死の媛の送迎らしき車輌も皆無。美柃の言う『掘っ建て小屋』の手がかりを、どうにか探し出せないものか。
酔い潰れた上役は、カウンタで就寝。
みかどに届いた、カロッテさんからの速達電報には、意外な申し出が添えられていた。
自宅に戻りがてら、その返辞を出しに、再び最寄りの郵便局へ。帰宅後、勿忘を咥え、タイプライターで書類を作成。カメラに収め、ツナギの電文もろとも、フィルムを切り取る。
屋上に出た。
灰と帰した書類は、風に乗せ。
マイクロフィルムは、この子に託そう。
「えのき」
四棟ある、林檎箱の鳩舎。その右端、もっとも素直なその子に呼びかけると、「出番?」と、可憐な空の聯絡員が近寄ってくる。
「そうよ」
扉を開け、フィルムを内包した通信筒をえのきの右足に取り付ける。その体を持ち上げると、彼女の柿目は瞬きを繰り返した。あなたの命令なんて信じないわ、といった面持ち。
でも、いけ。
「グルース!」
合言葉とともに、えのきは、躊躇いながらも飛び立った。真っ直ぐ、西の彼方へ。
別の鳩舎からは、なんとも不服そうな雄の鳴き声。水浴び場の水面を、両翼が連弾する。
「もみじには、大事な時にお願いするから」
弱冠一歳のエース、もみじに話しかけると「旦那以外の言葉には応じかねます」と知らんぷり。育て親のツナギがいないと、伝書鳩とのやり取りすらままならない。さくらに挨拶。こっちを見ない。けやきに挨拶。無視。
日が傾き始めている。
「今日もマニキュア、直せなかったな」
歎息一息、階段を駆け下り、荷物とともにシトロエンに乗り込む。一日が長い。本日二度目の色街、旅館惠山近くへと到達すると、それらしきトラックが一台、路肩に停められていた。見知った男性が、柳行李を荷台へと詰め込んでいる。
「火蔘さん」
トラックの後ろに車を停め、呼びかけると、七三分けの頭がのそりとこちらを振り返った。
こちらが例の、カロッテさんです。
「本日は、ご無理を言って申し訳ありません」
「いや、」
シャツの裾を一捲りした、人参に似たお名前のその人は、生真面目な表情ひとつ揺るがさず、空いた腕で私の手荷物をさらりと引っ攫う。
「持ちます」
紳士然と、足早に路地へ。
「先程聯絡した通り、先にマーケットへ行って、準備しておきます」
途中、柳行李を二梱抱えた、屈強そうな男性と擦れ違う。察してか、こちらへと会釈する。
「あれで、荷物は全部です」
みかどに届いた電報の意外な申し出とは、このことだった。カロッテさんは、トラックの手配とともに、二人の命知らずを雇った。
「大丈夫なのですか?」
カロッテさんも、その人たちも。
「問題ありません」
こともなげに首肯する。
「少なくとも私は、陛下のご意向に賛同します」
それから二時間後。
日没直後、午後五時半。
嘉国女王陛下は、觀南マーケットにお忍びになられた。
「無賃でいいんだ」
そうお伝えになりながら、待ち侘びた市民にご作成の更生服をお配りになる。そして、服を択び終えた人々の、感謝の言葉や切なる訴えに、聢と耳を傾けられた。
朱紺に塗り変わる、天の底。青空市は、さながら陰絵。
そんな人陰、一人ずつへのお声かけをも、陛下は惜しまれない。
お売りになるなら、こちらの方が高く売れるでしょう。
決して情け売りではないつもりです。
お薬が手に入らないのは、よくありませんね。
次は子供服も作ってみます。
シラミがついていますね。
奥さまのお気に召すとよいのですけど。
ご子息のお仕事が、早く見つかるとよいですね。
軌条脇に住むのはお止しになってください。
貴重なご意見を有難う御座います。
あなたも、少しは食べ物を口にしないといけませんよ。
一錢菓子屋もなくなったのですか。
あなたさまも、失業なさったのですね。
美柃が服を合わせ、カロッテさんが整列を、二人の助っ人が荷捌きを。私は、周囲への警戒を。
その間、僅か半刻。
日が落ち切る時分には、私たちは荷を纏め、マーケットを後にしていた。
「何事もなく終えられて良かったですね」
信号待ち。後部座席を振り返り、そう申し上げるも、暫しの沈黙が車内を支配した。二城のネオンを茫とご覧のその面差しは、まるで疲労をお隠しにならない。
「喉が、疲れたな」
やや嗄れたお声で、そう述べられた。御髪に添えられたお手が、ゆるりと断髪の鬘を外される。
元の赫い癖っ毛が一纏まりとなり、か細げなお肩へと波打った。
「思いの外、落ち着いていましたね」
美柃が初めてのマーケットをそう懐古する。
「本当に、扶かった」
御髪を解しながら、陛下も大きく首肯かれた。
「ひとえに火蔘氏のお蔭だ」
カロッテさんは実に美事に、集まった人々を苛立たせなかった。彼が採った策は、抽籤だった。
「次もあれば、同じ方法を採用したい」
籤ともなれば、誰も彼も後腐れなく、諍いも起こらない。如何にも実業家らしい、人心収攬に長けた一手だった。
「いつか頼めば、また、引き受けてくださるやも知れませんね」
陛下のご意向に賛同します。カロッテさんはそう仰っていた。心強い一言だった。
「そうだな」
それにしても。
陛下の続くお言葉は、晴れやかになかった。
「市民から明るい話がひとつも聞かれないことには、己の無力さを痛感させられる」
燦国の未来を憂う鳶色のご双眸は、二城の街並みを咀嚼するかのようだった。
「私が嘉国に戻る時、燦国内から李宮へ聯絡を取りたい、と言ったら、やはり反対するか?」
陛下が折に触れ、物資等の支援を呼び掛けられるも、燦国側からは一切の返答も得られていない。その呼び掛け自体、枢機に届いてすらいないのではないかと、常々案じられている。
お気持ちはお察し致します。
「はい」
私は素直にお答えした。信号が変わる。
シトロエンが、私の代わりに声を荒らげた。
「御身、強いては嘉国をこれ以上危険に晒すことを、お認めすることは致しかねます」
ツナギの読み通り、先日、リントヴルム団に新しい部隊が新設された。十万人の有志歩兵による国境防衛部隊『ゲボーゲンハイト』。
応募倍率、二十倍。燦国国民の三分の一が新部隊に応募した。審査結果は明日発表。
十月十五日付で始動する。
それは、陛下もご存知のはずでしょう。
「お気持ちはわかりますが、今しばらくはご辛抱を」
そしてなるべく早く燦国を脱し、次のご展望も一先ずお忘れになっていただきたい。
『潜入者の捕縛、金一千圓也』
ゲボーゲンハイトの報酬は、賞金制。
皆が血眼で、無辜の民のみならず、陛下にすら引き金を引くことでしょう。
「わかってはいる」
落ち着いたご様子で、しかしその視線は、二城の夜景をひたすらにお見つめになる。
「しかし私は、どうすれば後悔なく、燦国を見捨てられるだろうか」
独白は、暗中模索。
「私一人の命ならば、いくらでも差し出すものを」
シトロエンは、ガラガラと音を立て、眼前に迫った色街へと猛進する。
「雨さまも、」
ふと思い出した、先生のお話を奏上する。
「いっそ、自分一人の命なら、と、予々先生に仰っていたそうですよ」
十一歳の終わり。
春の宵花祭で、雨さまは色街の頂点に立ちました。
史上最年少の宵花さま。且つ、女に非ず。
報道も、宵花祭も、色物見たさに類を見ない賑わいを見せたそうです。
「僕は、もう、僕じゃいられないんですね」
色街、前門広場。
箱馬車の中で待機していた雨さまは、同席した先生に或るお言葉を残されたそうです。
迂闊に、死ねなくなっちゃった。
「雨は、死にたかったのか?」
その真意は、雨さま自身にお尋ねしないとわかりません。
「ただ、その日の雨さまのお練りは、観覧されたどなたにお窺いしても、同様のお答えを頂戴します」
美事な見世物だった、と。
「見世物、」
陛下の視線が、奇しくも色街前門と重なる。
「私は、」
ハンドルを左へと大きく切りながら、陛下に歎願する。
「そんな陛下を、見たくはありません」
わかった。
陛下はご首肯ののち、フロントガラス越しに表小路をご覧になった。
「雨は、ここを練り歩いていたんだな」
お言葉を受け、寫眞集の雨さまを想起した。それはまるで、生きたお人形のよう。小さなお躰に金襴の打掛を羽織り、禿を従え、お練りになる。そういえば陛下に、あの寫眞集をご覧に入れていなかった。
その旨を申し上げると、
「是非、見せてくれ」
「私も、よろしいですか?」
勿論です。
明日、寫眞集『雨』を携えることをお二人にお約束し、シトロエンは陛下御一行を無事に旅館へと送り届けた。着きしな、帳場にて一通の電報を受け取る。
今日は、しばらく終わらなさそうだ。
「なんだ?」
陛下、もとい、梅さまがその電文をお覗きになる。
ウタカイアリ」イツハン」ナポレオン
「九時、か」
紅梅の間、衣桁に掛けた装衣に手早く着替えながら、どうしようか、思案する。次の待ち合わせは四十分後の七時。それから九時にレストランみかどに到着するには、いささか無理がある。
しかし、待ち合わせの相手が『彼』ならば。
「案外、いいかも」
デエトプランを練り、脱ぎ捨てた更生服を折り畳む。その長襦袢姿を凝と見つめる、一人の少女。
「どうしたの?」
座布団にちょこんと坐り、私が娼妓姿に変身する様を、さちは待ち望んでいたかのようだった。
「お着物を見ると、」
至極真面目な様子で、衣桁の常盤緑の色打掛へと視線を移す。
「つい、解きたくなってしまうんですけど」
今宵は、止してください。
晩食が運び込まれたのと等しく、お暇をいただき、娼妓姿で街へと繰り出した。待ち合わせ場所は旅館の程近く。表小路の道向こうにある、馴染みの待合、松風。
「もう、いらしてますよ」
女将のちいさんが二階へと案内する。ステンドグラスのあしらわれた飾り障子を引き開けると、茶色い男が、その小さな躰を座椅子に預けていた。
真朱で統一された、小ぶりな一室。睡蓮を模した美事な行燈が、男の榛色の髪を赫く染める。
丸眼鏡は、先生と同じ。
「やあ」
左手には両切り煙草。二十四銭に値上がる、幾星霜。吸い終わりかけのそれは、早々に灰皿の住民と化した。
「ご無沙汰して居りました」
特に、気兼ねする間柄でもない。挨拶もそこそこに、彼の傍に坐り、一献を頂く。
「ひやおろしだよ」
彼と会うのは、ひと月ぶりか。
ぐい、と飲み干すと、冷たい液体は食道を伝い、体内を溶岩のように熱くした。彼の名前は、キネという。愛用のカメラ、キネ・エキゼクタに因む。
我々の協力者。報酬は、性交。
前払い制。
「今日は、ゆっくりしていられませんの」
早々に、上前へと滑り込ませたキネの左手を、着物越しにそっと掴む。
「何分ぐらい?」
冷酒を含んだ分厚い唇が、私の喉に二口目を流し込む。そのまま畳の上へと絡げ、私に有無を言わせない。塗りたての洋紅は、あっけなく舐め取られてしまった。
「九時に、みかどへと参りますわ」
喘ぎ声に紛れてそう申し伝えると、案の定、キネはニンマリとした。
「それは面白い」
駱駝色のズボンを颯爽と下ろす。
「是非ともご相伴に与りたいものだね」
そうしていつも通りの、苛烈な性交。果てるのも、早め。
この感情に称する言葉を、私はいまだに知らない。
「ご苦労さん」
もう一つの条件、私の中で果てたキネは、一錢銅貨を一枚、私に咥えさせた。
「旦那さんによろしく」
残りの四枚は、彼の手の内。
「あと、四回?」
息を整え、尋ねると、
「莫迦言え」
舌を這わせ、もう一枚。「若旦那には負けるよ」
残りは、まとめて頂戴した。
「ところで、夜明けの雀は鳴いていたかい?」
颯爽とズボンを履き、背伸び。
「鳴いてなかったでしょ」
キネの発言は、或ることを示唆していた。
「なぜ、それを?」
私が未明に雀陵にいたことを、キネは知っていた。
「先客がいたからさ」
うっすらを笑みを浮かべ、幾星霜に火を点けた。その火種を、勿忘も貰う。
「君だよ」
ふた筋の紫煙が、ひとつになる。
「私服姿の君は初めて見たね」
カアキの外套、かっこいいじゃないか。手酌で一杯しようとしたキネを止め、咥え煙草でお銚子を取る。
「ご用でもおありでしたの?」
とくとく、と、いい音。
「夜明けの雀が好きなんだよ」
左手に盃、右手には幾星霜。
「毎日の日課さ」
明日の日の出は五時四十八分。
嬉しそうに呟き、一献を煽る。
「多分、君が撮りたかったものは、その硬貨の中にあると思うよ」
思わぬ一言に、銚子を置く手が驚いた。座卓と銚子が、その音を表現する。
「え?」
座卓に置かれた、加工の施された一錢銅貨、五枚。
「トラック。五十台はあったかなあ」
もっとあったかも知れない。振り返りながら、煙草を咥える。
「僕は雀が大好きだよ」
キネの職業は、ジャーナリスト。
「特種は、政府が高く買い取ってくれるからね。謎だらけの雀は、金の生る場所さ」
背広も腕時計も、一級品。
「そのトラックは、」
キネから、仔羊の情報を受け取れるとは夢にも思わなかった。
「あの後、すぐに?」
だとしたら、少し口惜しい。その表情を読んだのか、丸眼鏡の奥は、すっと細まる。
「残念ながら」
にやけた口許で煙草を咥え、私にお酌をしてくれた。
「日没前だったよ」
意外な答えだった。
「日没?」
「簡単、簡単」
私が一献を傾けるのを待ち構えたかの如く、その唇は口内の水分を吸い取る。
「不逞な輩を、欺くためさ」
私たちはそれから連れ立って、レストランみかどへと赴いた。
午後九時。
扉の前からでもわかるほどに、店内は賑わっていた。キネの後に続いて中へと這入ると、娼妓の来店に、感歎の声が次々と揚がる。
「これは、これは」
「え、何?」
様々な反応は想定内です。
思いがけないことに、カウンタ席に私服姿の少尉を見つけた。『女性時代』を読んでいない。
「お一人さま?」
空いていた、少尉の隣席へと腰掛ける。彼の私的な来店よりも、女性時代を読んでいないことの方が気懸りだった。熱でもあるのだろうか。
「別に」
ふいっと、視線を逸らされる。見るとテエブルには、ウヰスキーとチーズの盛り合わせ。
そういうことでしたか。
付き合いましょう。
「ねえ、シェフ」
娼妓よろしく、ステエクを呼びつけると、あいよ、と鷹揚な返辞。
「同じものをふたつ頂戴な」
キネは着席せず、愛機片手に店内を徘徊している。しかし、始まればいずれここに戻ってくるでしょう。
「それと、グリルドチキンを三つ」
註文を受けたステエクが、笑いを噛み殺しているのは一目瞭然だった。
「なんで三つ、」
少尉が不服そうに申し立てる。当然でしょう。
「ラウラ姫を味わうには、それだけじゃ勿体ないわ」
なぜなら彼女は。
「歌姫なのですから」
程なくして、凛、とドアベルが鳴り。
「Добрый вечер !」
ラウラ姫が現れた。
意外だったのは、その衣装。
「спасибо, что пришли !」
それは、陛下が先日仕立てられた、銘仙のワンピースだった。カロッテさんの奥方が金二百圓で別注した、美事なお誂えの更生服。それに太帯のベルトを締め、打掛のように純白のレースをあしらっている。燦国の、白の囚われ姫。
「コンバンハ!」
ピアノの前に立ち、集まった聴衆へと大きく手を振る。
「キョウハ、アリガトゴザマス!」
本当のラウラは、こちらの言葉を流暢に話すことはさながら、『女性時代』のような小難しい文章も読むことができます。
「サア、ハリキリマショウ!」
キネが戻ってきた。スツールの前に立ち、よし、と、シャッターを切る。そう、ここからがいちばんよく見えるのです。着席したジャーナリストの右指は、惜しみなく時間を切り取る。
ピアニストの打鍵に合わせ、一曲目は『サンタ・ルチア』。ナポリへの愛を軽やかに歌い上げた。二曲目は『二つの愛』。
聴衆を惹きつけて止まない、ラウラ姫の愛らしく、孤独を透かした無二の歌声は、ナポリからパリへと浮気する。
いつかパリを見ることが、私の夢。
パリ行きの船に手を振る、そんな明るい素振りは、歌詞とも相俟って、まるでラウラ姫そのもののようだ。
黒の囚われ姫の、ファウストのように。
ステエクから供されたウヰスキーを口に含み、少尉をちらりと見遣ると、半減したグラスを片手に、ラウラ姫だけを見ている。その火照りを帯びた眼差しは、『女性時代』を見つめる晝間の彼に等しい。
その心はパリにではなく、ラウラに手を振っているのでしょうね。
拍手と声援を受け、「アリガトゴザマス!」ラウラ姫は目一杯の愛嬌を客席へと振りまいた。「シェフ、ウヰスキーチョウダイ!」
その一言に、客席がどっと笑う。シェフも苦笑い。「イイノ、イイノ!」厨房へと駆け込み、ウヰスキーを急かす。私と少尉は、一つも笑わない。何故なら、恋を夢見る歌姫は、この後、総統閣下の枕元に連れて行かれるのだから。
氷の溶け出す前のウヰスキーを、喉音を立てて一口。
「次は、故郷に恋をするわ」
グラス片手に、ラウラ姫が何かを思い出したようにふっと吹き出す。
何かを言いかけて、口許に人差し指。
歌い出した曲は、聞き覚えのない曲だった。
露西亞語。
ラウラが叙情的に、儚げな声音で歌を紡ぐ。
月夜の下、長い道のりを歩いてゆく。遠く鳴り響く歌とともに。
ピチカートとフェルマータの繰り返し。民謡かな、と思い、耳を傾けていると、三番の歌詞が、まるで違う曲想へと転じた。
「На этой базе есть объект, который проводит эксперименты на людях.」
あの基地には、人体実験を行う施設がある。
「направляюсь на юг в поисках нефти.」
石油を求め、南へと向かう。
そして何事もなかったかのように、曲想は元曲へと戻っていった。見渡す限り、歌詞の改竄に気づいた観客はいない。無論、少尉も。
月夜の下、長い道のりを歩いてゆく。
歌い終えたラウラ姫は、私に向かい、愛らしくお辞儀をした。
「なんて歌ってたんだい?」
キネが、私にそう尋ねる。三番の歌詞が本当なら、燦国は遅からず、暗渠と化すでしょう。
「昔は良かったね」
確かに、そんな歌でした。あなたの愛する、雀の地のように。
今日という一日がようやく終わる。
日付の変わる、午前零時。
通信基地、四〇四〇。
話したいことが山のようにあります。
「長い道のりの件、了解致しました、どうぞ」
ラウラの報告にも、ツナギは朗らかなモールス信号を返してきた。あなたは今、どこにいるのでしょう?
「仔羊、数えましょうか? どうぞ」
明日あたり、雨かも知れない。基地の小窓には薄雲がかかり、隙間風は湿気を孕んでいる。
「あなたは、眠れていますか? どうぞ」
ツナギが、ちぐはぐな問い返し。どうしよう。
「ぐっすりです。どうぞ」
暫しの沈黙。
「嘘つきですね。どうぞ」
「あなたこそ嘘つきです。どうぞ」
「好きです。どうぞ」
「仔羊、どしましょ? どうぞ」
「僕の鼾、煩くありませんか? どうぞ」
言いたいことが、山のようにあるのに。
「うかない、です。どぞ」
どうにも、眠い。
「さては、酔ってますね? どうぞ」
手許が覚束ない。
「はい」
どうぞ、とすら、打てなかった。
「正午、ナポレオンに会いに行きます。どうぞ」
途端に、目が覚めた。
「愛してる」
「了か、」
通信が、不自然に途絶えた。
私は、それにすら気を留めなかった。
ただ、最後のその一言が嬉しくて、無防備にもそのまま、惰眠を貪った。陽光が、西向きの小窓から弱々しく差し込むまで。
ツナギが、帰って来る。
我に返った机上には、彼の解読した暗号電文が幾つも散らばっていた。外は、雨。
時刻は、正午。
「やだ」
慌てて書類を掻き集め、レストランみかどへと急ぐ。
それが、最後の会話だったとも気づかずに。
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