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死の媛外伝「月に乞う/雨に乞う」


 僕の右腕は或る時に不具になった。

 主治医に或る日、尋ねたことがある。この腕は、何発の銃弾を受けたのか。
 蓄えた長い白髪の髭を撫でながら主治医は教えてくれた。15発です、と。
 それから僕は、新たに4発の銃弾を受けた。
 僕の右腕は、とうに死んでいた。

 最初の頃のことだけは明確に覚えている。
 或る寝台の上に横たわっていた。燦州の宮殿広場で銃撃されて、目を覚ました時にはその寝台にいた。端的に言えば、僕は治療を受けていた。そこは清潔な病院ではなかった。
 激痛と投薬とで夢と現を行き来しながら、僕は少しずつ、この現がどこかの牢獄、或いは牢獄めいた場所であることに気付かされていった。右方の視界に映る、鈍色の視察窓。筒状に囲われた、窓のない石室。清潔ではない、何処か。
 どうして生かされようとしているのか。
 女王陛下はどうなったのだろう?
 否。あの銃撃の包囲網からは僕は陛下を守り切れなくて、女王陛下は、きっと恐らく。
 死んでいる。
 纏まらない意識の中で、鈍色の視察窓が時折開いて、見知った顔が二つ三つ、枯葉のように錯誤するのを、僕は目で追いかけていた。
 それこそが、夢だと信じたかった。彼らは、左派だ。

 両腕に妙な感覚が起きて意識が判然とした時、僕の体は寝台の上にいなかった。眼前に、医療器具に囲われた寝台があった。僕が寝ていた寝台だ。長い白鬚の白衣の男、今の主治医が遠くに佇立していた。その他、白衣の男女が何人か、遠くで身を寄せ合っている。僕は両手首に鉄の拘束具をつけられていた。骨身に減り込んで、聞こえない音を立てている。体は情けなく、石造りの床にへたり込んでいた。冷たくて、寒かった。
 自立する力のない僕の頭を鷲掴み、前を向かせる屈強の軍人が一人。
 その背後に、或る見知った男が立っていた。
「あ、」
 声は出せなかった。男は黒髪を後方へまとめ上げ、黒の洋装を纏う。その人は、あの頃と同じように僕を見ていた。うんと子供の頃のことだ。彼は、いつも僕をそうやって見ていた。
 僕を、商材のように。
 程なくして、別の或る男が錆びた鉄扉の向こうから現れた。恰幅の良い、長身の男。軍服に身を包んでいる。僕は、この人も知っている。
 あの人だ。
 10年近く経っても、まるで変わらない。
「始めるよ」
 長身は革の手袋を嵌めながら、僕の前へと歩を進めた。拳銃嚢から拳銃を取り出し、その手に握る。
 これは夢ではない。
 現だ。
「久しぶりだね、天渺宮さま」
 短銃を手にした長身は、僕にそう話しかけた。黒装は黙ったままでいる。
「私のことを、覚えてるかい?」
 よく、覚えている。あなたが僕に、十年戦争のことを教えた。
 そうか。
 この人が、今の左派の総統なのか。
 彼の喉元の紺の徽章が、それを知らしめている。馬が二頭、左右から十字架を喰らおうとする。紺は左派を象徴する色だ。十字架は嘉国の象徴。下地が剥げて、鈍色を帯びている。
 総統は、僕の喉元を持ち上げた。
「てっきり、私たちのために生きてくれると思っていたのに。何故、嘉国の奴隷になったのか。女王陛下の飼い猫になったのか。まずはそこから聞かせてもらおうかな?」
 男娼であることに嫌気でもさしたのかな?
 彼は、どうやら僕の経緯をよく知っているようだった。合図を受けて、頭髪が軍人の手から離される。喉元に総統の指が減り込んだ。呼吸が、不自由になった。自力では立て直せない。
 何度も大きく息を注ごうとしながら、僕は何を言うべきか、逡巡した。何を言っても、言えても、この人たちには聞き入れてもらえないのに。  
 僕はこの人たちの『人形』だった。
 今は、敵。お互いに、敵だ。
「僕、は」
 僕は、この男が。黒装の男が。
「戦争が、嫌いだ」
「ああ。ならば、申し訳ないことをしたかな?」
 総統が、撃鉄を起こす。鈍く厭な音が牢内に響いた。
「燦州は、燦国になったよ。私のものになった。そして、嘉国と戦争を始めた。『革命』さ」
 総統の唇が、僕の唇を這う。
「君にも参加してもらうよ」
 何故なら、君は。
「閣下」
 黒装は、うつ伏せたまま否す。
「今日は、手短に」
「いいよ」
 副総裁。
 天渺宮の、お父上殿。
 僕から手を離した総統の笑みは、勝ち誇っている。僕は世界から弾き出されたように呼吸を忘れて、その一言に茫然とした。
 父、親?
 黒装は僕を見ようとしない。変わらず平伏している。その息子は、拘束されているのに。
「じゃあ、手短にいこう。天渺宮。お前は『燦国』の処刑人になれ」
 意味が、分からない。
「罪を犯したものは区別なく処刑する」
 総統が合図すると、鉄扉が開いて、ゾロリと裸体の老若男女が室内に引き摺り込まれた。文字通りの、引き摺り込まれた、だ。縄で一連に繋がれた肉叢が、引き摺られて這入ってきた。
「罪を犯したものは区別なく処刑する。それが、燦国の新しい法律だ」
 嫌悪感に満ちた目で、総統は肉叢を一瞥する。
「こいつらを殺せ」
 それが、左派の新しい革命か?
 違う。
 これは、ただの怨讐だ。僕や陛下や、嘉国への。
 つまらない、革命。革命とは、人民の未来のために為すものだ。
 虐殺など、革命ですらない。
 自慰だ。
 僕の中に、訳の分からない、理性的じゃない感情が湧き上がっていった。それは、厭悪だった。
 国民を疎かにする革命?
 冗談じゃ、ない。
「厭、だ」
 右肩、左腰、右ふくらはぎ。広場で撃たれた傷が疼く。拘束具が両手首を軋ませる。呼吸が整わない。体じゅうが、気が狂いそうに痛い。気が、遠のきそうになる。これから起こるであろう出来事に、体が勝手に慄えてしまっている。逃げ出したいとも思う。この状況で僕にできることなんて、何もない。でも、僕は命を投げ捨ててでも、どんな醜態を晒そうとも、彼らに抗いたかった。
「断る」
 絞り出すように表明する。眼前の総裁を睨む。お父さんを睨む。絶対に、厭だ。
「僕を、殺せ」
 すると僕の右手の平に、真冬の外気に冷えた銃口が突きつけられた。ゾッとした。心臓がぐるぐると掻き回される。まさか、僕を、嬲る気か?
 悪趣味め。
「僕?」
 総統は、嗤った。「私、だろう?」
 宵花さま。
 そして、僕の手を、総裁は躊躇なく撃ち抜いた。

 僕は3発目の銃弾で意識を失った。次回は2発目に。それ以降は、わからない。総統は僕の元に現れては「処刑人になれ」と命じた。断れば撃つ、と。僕は断り、撃たれ続けた。銃弾はいつも僕の右腕だけを撃ち抜いた。手の平、手首、上腕、肩、肘窩、脇、二の腕。撃ち嬲られ、目覚める度に僕は寝台の上で、輸液袋を見た。天蓋を見た。いつも、管に繋がれていた。主治医は頻繁に大声を張り上げていた。彼らは僕が処刑人になることを願った。手荒だった。拷問にも似ていた。僕を諭そうとした。洗脳しようとした。受諾しないならばと投薬を止め、人工呼吸器を外し、危うくなればまた器具を取り付けて、薬を超量投じた。白衣の誰かが泣き喚いている。誰かが、誰かが。熱に浮かされ、夢に支配されて、僕の譫言は、きっと悲惨なものだったろう。その朦朧の淵で、時折、黒装の男が、僕を覗き込んでいる。人の影がいつも彷徨いていた。胸を誰かが力一杯に叩いていた。狂乱。或いは、地獄。
 厭だ厭だ厭だ、厭だ!
 あの喚く声は、僕だっただろうか。誰かのものだったのだろうか。もしかして、黒い男?
 最早、何も。
 何、も。

 主治医の後言曰く、右腕の弾痕の数だけ僕は抵抗したらしい。でも、或る日僕は、処刑人になることを受諾した。
 何故なら、目の前に『先生』がいたからだ。
 僕は、もう声も出せなかった、と思う。目の前の先生が、何かを言っていた。喚いているようにも見えた。耳も、おかしいのか。何も聞こえてはこなかった。ただ、先生の必死な様子だけが瞼に焼きついた。丸眼鏡が、ずり落ちていた。
「こう見えても、急いでいるんだよ?」
 総統が嗤う。
「次、断れば、『先生』を撃つ。いい返事を期待しているよ」
 馥郁たる月桃の香が鼻腔についた。まさに、先生の匂いだった。懐かしくて、愛おしい、南の国の匂い。
 これは、夢?
 現?
「先生?」
 声にならない声で、呼びかける。「死なせない」その言葉は、届いただろうか?
 先生は、どんな顔をしただろう?
 わからない。
 僕は、手折れた。

 それから僕は、色んな夢を見た。
 最初に、先生と暮らしている夢を見た。町外れの洋館で、先生は毎朝珈琲を淹れる。先生は珈琲豆の蘊蓄を話し、茶請けのチョコレイトをひとつまみ。そうしていつまでも仕事に行こうとしない先生を、僕は生真面目にたしなめている。先生は、書斎から持ち出した写真集をおもむろに広げた。南国の宮殿。美術館。海の景色が纏められている。一緒に行ったねえ、と笑っている。お弁当、美味しかったのにどうして残したのさ?先生の問いに、僕は答えられない。声が、出ない。僕の中から、声が消えている。
 王宮の書斎で物語を書く夢を見た。
 一点の曇りもない英雄が、囚われてしまった親友を扶けようと立ち上がる。意気揚々と旅に出る。一食を得る方法も、寝床を得る方法も分からない。英雄は犯罪を犯した。親友は、処刑された。
 お父さんと出歩いている夢を見た。父は、白シャツに紺の袴を合わせていた。茶褐色の中折れ帽と、黒革の手持ち鞄。乳白色の鼻緒の下駄。和洋折衷の破茶滅茶な装いで、僕を真昼間の色街へと誘う。僕は小さくて、お父さんに手を引かれている。ここが有名な赤鳳楼だよ。お父さんは言う。有名な娼妓がいたんだ。しょうぎ?こま?お父さんは苦笑いをしている。可愛い女の子のことだよ、と言っている。そうなんだ。僕にはよくわからなかった。
 義理の姉に子供ができて、その子と王庭を走り回る夢を見た。女の子だった。二人で鬼ごっこをした。隠れていた鬼さんから「おじさん」と呼ばれる。なんだろう?と振り返ると、その子は小さな手に伊呂波紅葉の枯れ葉を持って、綺麗だよ、と言った。でも、落っこちてきちゃったの、だからつけてあげないと。そう言う。つけたいのかあ、どうしようかなあ、と思案する。とりあえず木の上に乗せて返してあげようよ、と言った。その小さな体を肩車にして、「届く?」と尋ねる。「届かない」と小さな体が答える。じゃあ、その子は僕たちが面倒を見ようか。それとも、お母さんならなんとかしてくれるかもしれないね。女の子は、枯れ葉を僕に渡した。「じゃあ、おじさんにあげる!」僕は、受け取った。その枯れ葉は、緑と赤の混じった、醜い枯れ葉だった。
 それから。それから。

 目が覚めると、そこには変わり映えのしない、輸液袋と天蓋が在った。落ち着いた様子で働く白衣の人たちが居た。主治医が僕の瞳孔に蝋燭の光を揺らめかせていた。先生が、僕を抱き寄せて静かに眠っていた。浴衣姿だった。丸眼鏡はつけていない。
 先生?
 左手を幾ら褥に這わせても、その肢体はどこにもなかった。僕の体は確かに先生に抱かれているのに、寝台の上には何もない。それから何度意識が落ちて、何度目覚めても、先生は僕と一緒に眠っていた。月桃の匂いがいつまでも消えなかった。抱かれている感触が拭えなかった。でも、先生は傍にはいなかった。先生の肢体を幾度となく探したけれど、結局行き当たらなかった。
 どうしてこれが、夢なのだろう?
 現なら良かった。

 僕は、それから女になった。
 黒いドレスを身に纏う、処刑人になった。市井に『死の媛』と名付けられた。今も、僕は月桃の夢から醒めない。あれから月をよく見上げるようになった。今宵は、西方の満月だ。
 死の回廊で、いつものように希った。桜の花片と血溜まりが、一面を濃紅に仕立て上げている。
「どうか私に、先生を殺させないで」
 月は、橙雲の間を彷徨う。
「そのためなら、私は喜んで国民を殺めよう」
 琥珀の光は薄暮に紛れて普遍的だ。
「だから、私の前に先生を連れて来ないで」
 いびつでまだらな表情は薄く、硬く、冷たく、変わらない。
「私は、殺」

「お前はいつもそうやって自分を犠牲にしようとする!」

 突如、つんざくような怒声が耳朶を叩いた。
 先生の声だった。
 壇上を振り返った。顔を覆うレースの布が振り払われた。長髪のかつらが僕の顔を叩いた。
 いない。
 場内を見遣った。仄暗い城内は、群衆が亡霊のように揺れていた。いない。
 月桃の香りは絶えない。先生は、いない。
 いない。いない。
 うろうろと探す度に、僕の右腕は慣性で揺れた。まるで、心のようだった。もう、迷ってはいけないのに。迷えないのに。
 先生。僕は。
 もう一度、言ってよ。
 そう言いたくても、叫びたくても、声に出来ない。右手と共に、僕の声は死んでしまった。

 壇上をひとしきり彷徨い歩いたあと、僕は今一度、空を仰いだ。
 月ではなく、真反対の方角。
 東方の時計塔から僕を見下ろす総裁の御姿を仰ぎ見た。
 彼は、嗤っていた。

 僕は、歯向かわない。失敗もしない。
 僕が信じるべきものは、ただ一つ。先生が僕の人質という、その事実だけだ。
 歯向かえば先生は死ぬ。
 失敗すれば先生は死ぬ。だから、月よ。

 夢を見させないでくれ。
 どうか私を、完璧な『死の媛』にしてくれ。迷わせないでくれ。それで、いいんだ。
 犠牲なんかじゃ、ないんだよ。それが僕なんだ。何よりも大切なんだ。怒らないでよ。もっと、怒ってよ。僕は間違っているんだ。でも、そんなのは嫌いだよね?
 この匂いを消してよ。

 先生。


***


 僕が月桃という花を知ったのは、雨と一緒に南国に旅に行った時のことだったよ。
 一泊二日の強行旅だったけどね。あれは、いい思い出になった。

 僕たちの住む二城という街は、山間の盆地の街だった。二城には鈴蘭という花がある。
 南国に咲いていた月桃は、鈴蘭のようで、少し趣が異なっていたんだ。花弁の先端が赤くて、ちょっと群れてて、長細くて、まるで多頭の龍頭のように口をパックリパックリと開けている。可愛いというよりは、お客さんを引き摺り込もうとしている色街の道端の娼婦達みたいな、毒々しい花だった。
「なんだか、不思議な匂いがするね」
 雨が花弁の先端に鼻を近づけて、盛んに嗅いでいる。僕もそれに倣おうと顔を近づけて、こっそりと雨に接吻をした。あの頃は、僕は盛んだったんだ。性欲にまみれていた。今はもうだいぶ、落ち着いてきたけどね。
 初めて見るその花のことを、僕たちは宿屋の女将から教えてもらった。
 それが月桃という名前であること。名前の由来は、葉っぱが三日月で、花が桃に似ているからとも、海外からやってきた品種で、海外の呼び名を当て字にしたと言われているとも。
「お気に召されたのなら、月桃のお茶や、紙や、精油や香水もありますよ」
 とても親切なその女将は、自前の香水を僕の喉元にちょんちょんとつけてくださったのだけど、なかなか南国美人な女将さんでね。
 あれもいい思い出になったよ。後述を参考のこと。

 雨は見た目、どうしたって男の子には見えなかったし、僕とも年が離れていたから、僕たちは兄妹、という設定で宿に泊まらせてもらっていた。まあ、笑っちゃうほど似ていないよ。香水の件の、雨のあの時の表情なんて、女将さんは一体どう思ったんだろうねえ?
 えっちで困った兄ちゃんを見る妹、だったのかな?
 あの夜、宿屋で美味しいご飯を食べて、お風呂に入って、僕たちは静かに何度もまぐわって、普段なら雨はすぐ僕から離れてしまうのだけど、珍しく、僕から離れようとしなかった。可愛い妹だった。
「お腹、すいたの?」
 いくら男娼だからといっても、雨はまだ10才になったばかりの子供だ。行きの電車でもお弁当を食べたけど、雨は半分しか食べなかったし、宿屋の夕食も、実はほとんど僕が食べた。よく考えたら、雨と一緒に食事をするのは初めてだったから、伸び盛りの子供とは思えない食事量に、ちょっと、あれ?って思っていたのだ。なんか、遠慮したのかなあ、とか、慣れない旅でそれどころじゃなかったのかなあ、とか、或いは、日々の仕事に疲れていて(なんせ「お休みの日がない」だなんて車内で言っていたし)食べられないのかな、とか。
 そうね。ちょっと心配だったんだ。
 僕のそんな問いに、ふるふる、と、雨は首を横に振って、尚もしがみついてくる。おお、どうした。珍しいな。
「いい匂い」
 雨が、そう言った。
「ああ、これ?」
 月桃のことか。雨の小さな頭を持って首筋に近づけてやると、彼はもっと僕にしがみついてきた。クンクン、と嗅いでいる。
「気に入ったの?」
 尋ねると、何故かぐずった。モニャモニャ、としている。雨はまるで大人のような子供だけど、ふとした折に、子供だ。ただ眠いだけなのかもしれない。もしかしたら、もう寝てるのかも。まぐわった後は大人だって寝老けてしまうのだから、子供はもっとそうなのかも。生憎、経験ないからわからないけども。仕事中の雨は、眠らない。よく考えたら、この後、雨は睡眠を取るんだ。
 変な気分だった。
「いい」
 ふにゃふにゃ、とした声で、雨は僕の腕の中をモゾモゾと蠢動している。本当に珍しい雨ちゃんだった。僥倖。幸運。役得。いい思い出!
 こんな素直に抱かれてる雨は、初めてです。
 よーし。
 僕はちっちゃな体を、ぎゅうぎゅうに抱き締めにかかった。
「いや。いやだ」
 そうでもなかった。雨、起きてた。雨ちゃん、しっかりと冷静だった。いつも通りだった。ごめん。なんか、雨ちゃんはちょっとだけ魔がさしてただけだったみたいだ。思いっきり嫌がられて、僕を跳ねのけて、雨ちゃん、あっちの布団に逃げてしまわれた。
 僥倖終わり!
 でもね。今日は秘策があるのだよ。
「?」
 僕にされた『或る事』に、雨は、まるで仔猫のような動きをした。
 そうね、なんていうか、またたびの匂いを嗅いだ猫みたいな。
 ふふ、と僕は内心でほくそ笑んだ。
 そう、実は僕はあの後、月桃の香水をもらったのだよ。女将から。
 お代金は10分ぐらいの愛撫でした。短時間だったけど、結構エグいこともしたよね。
 気前よく香水をいただきました。
 それを、雨に垂らしつけたのだ。黙っててごめんね。まさか、雨が月桃をそんなに気に入るとは思ってなくてさ。
 どっちかというと僕が欲しくて、そうしたんだけどね。
 雨はそんな僕の述懐をよそに、首元に垂らされた液体を手で拭って、クンクンと嗅いでいる。何した、みたいな感じで、僕の方をまっすぐに見ている。雨の目の色は薄い琥珀色で、闇夜だと本当に白目しかないように見えるんだけど、なんていうかなあ。猫だよね。
 目もそうだけど、雨自体が、とにかく猫っぽくて。
 可愛いというか、なんていうか。
 怒ると本当に、ご立腹だし。
 気に入った玩具があると、ずっとそれを触ってて。
 悟ったようでいて、そうでもなくて。
 こんなふうに、夢中になったり。頭良いけれど、馬鹿みたいに素直というか。意外と何も気にしていなかったり。
 まあとにかく、猫だ。
「はい」
 僕は香水を雨に手渡した。
「好きに嗅ぎなさい」
 雨は、香水の瓶を「どうしたの、これ?」といった面持ちで見つめている。そして、本能のままに嗅いでいる。よほど気に入ったんだろうなあ。
「明日、いっぱい買って帰ればいいさ」
 言うと、雨はこっちに戻ってきた。僕の布団にいそいそと潜り込んでくる。どうしたの。今日は随分と甘えん坊だな。
 そしてピッタリと抱きついてきた幼い子供の体を、僕は手繰り寄せる。楽しかった、のかな?
「楽しかったね」
 僕がそう言うと、楽しかった、と雨が言った。「もっとお休みを貰えばよかった」
 はは、と、僕は笑う。可笑しな話だよ。
「10歳の仕事人にしちゃあ、殊勝すぎるね」
「しゅしょう?」
 僕の胸元から、可愛らしい顔がぴょこんと飛び出てきた。いやあ、君ならその言葉分かるでしょう?と思ったけど、初めて会った5歳児の雨のような、まるで無垢な様子だったから、ああ、そっか、と思う。
 この子には、まだきちんと結びついていない言葉がたくさんあるのかもしれない。
「健気、ってことさ」
「?」
 首を傾げる子供を、僕は抱きしめる。雨は、抵抗しない。そのまま、お昼になるまで一緒に寝た。
 善い夜だった。

 僕はその日からずっと、月桃の香水を使っている。そうだね。あの時も、僕は月桃の香水をつけていたよ。君は傷だらけになっていたから、何も見ていないし、覚えていないだろうとは思うけどね。
 あれは本当に、見ていられなかった。

「処刑人になる」
 先生を殺さないで。

 そんなことを後々の雨に言わせてしまうなら、僕はあの日、月桃の香水を女将からもらったのは、とんだ失策だったと思っているよ。
 誰かの重荷になるなんて、僕の一番嫌いなことさ。君も、それを知っているはずなのにね。

 なんていうか。難しいよね。

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