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【エッセイ】背番号21

 辛く悲しい思い出ほど、なぜか記憶に残ってしまう。それは懸命に生き、苦難を乗り越えた証なのか。自分の苦しみなら耐えられる。しかし、愛すべき人の心痛には耐え難い。代われるものならそうしたいが、自分の力ではどうしようもできない。せめて、その痛みを和らげることができればと願うしかない。
 
 私の息子は、小学生の頃から根っからの野球小僧だった。決して上手くはないが、社会人になった今でも野球を続けている。当然ながら、高校時代は硬式野球部に所属し、毎日練習に明け暮れていた。夏の甲子園出場とまではいかないが、高校三年生の地区予選には、スタメンに名を連ねるという夢があった。小学生から練習を続けてきた彼のスキルなら、決して叶わない夢ではなかった。
 彼が高校二年生になった夏の頃だった。ある朝、彼の腹部を激痛が襲った。救急車で搬送された病院で盲腸捻転と診断され、その日のうちに手術が行われた。医師からは、もう少し処置が遅かったら命に関わっていたと言われた。それから、約一ヶ月の入院生活を終えて、高校に復帰した時には、すでに秋の大会が終わっていた。この大会は、主力である三年生が引退して、次の世代を担う二年生の力が試される、言わばレギュラー争いを左右する大切な大会だった。彼はそれまで血の滲む思いで練習をしてきたにも関わらず、ただ指をくわえてそのチャンスを見ているしかなかった。
 
 復帰したからと言って、それまでの彼の実力がすぐに発揮できるものではない。失われた体力が彼を不調のスパイラルへと巻き込んでいった。そして練習試合にも代打ですら出場させてもらえなくなっていった。夏の地区予選まであと半年。彼は私に小さな声で言った。
「このままやと、スタメンに入られへんかもしれへん」
 
 愛すべき息子の心の叫びを聞いて、じっとしている父親が世の中にいるだろうか。翌朝から、私たち父子の挑戦が始まった。私たちは、毎朝五時に起床して朝練を始めた。彼が小学生の時から練習に使っていたシャトル(バトミントンの羽)を私が投げ、彼が打ち返す、それを毎朝二百回。全力でバット振る彼も苦しかっただろうが、シャトルを投げるのもたいへんだった。ボールと違ってスピードが出ないから、より力を込めなければならない。それにボールを投げる時と違って、ダーツを持つような握り方になるので、前腕部を痛めてしまう。プロ野球で先発する投手でも、一試合に二百球は投げない。練習を終えて会社に出勤すると、右手が震えてパソコンのキーを打てないときがしばしばあった。

「外角のボールが、どうしても打たれへん」
 私は練習を続けていくうちに、コースを投げ分けられるようになっていた。それに伴って、彼は外角の球を上手く逆方向に打ち返えし、飛距離を伸ばしていった。しかし、彼が復調していくと同時に、彼のチームメイトたちの実力も向上し、その差をなかなか埋められない。彼は焦った。焦りがミスを誘い、練習試合でも思うような結果が残せない。
「今日も、打てんかった」
「諦めるな、最後まで諦めたらあかん」
 こんな会話がたびたび続いた。

 そして、半年後の五月。最後の夏の地区予選のベンチ入りメンバー二十人が発表される日がやってきた。その日は仕事を早く切り上げて、彼の帰りを待った。夜の九時頃、帰宅した彼の口から小さな声で無情な言葉が漏れた。
「あかんかった」
 病床から這い上がって、あんなに努力したのに、彼の夢は夏を待たずに終わった。
 その夜、私は眠ることができず、夜明け前に散歩に出た。大好きなgreeeenの曲を聴いていると涙が溢れてきた。
 —私には何もできなかった。
 —無力な父だった。
 虚しさだけが私の心の中に渦巻いて、私は迷子の子供のように、大声で泣きながらうす暗い道を歩いた。
 
 翌日、私は会社帰りに本屋に立ち寄り、『それでも僕は夢を見る』という本を買った。当時流行っていたパラパラ漫画だ。主人公の男性は何をやってもうまくいかず、夢見ることを諦め、うだつの上がらない人生を病床で終えようとしていた。その刹那、かつて絶交した友「ユメ」が現れる。そして、「ユメ」の勧めで誰宛てにでもなく手紙を書く。夢に向かって必死に生きる見知らぬあなたへ。私はあなたのことがすごく輝いて見える、羨ましく思えると・・・。
 私はその本に手紙を添えて、彼の部屋の机の上に置いておくことにした。
『大きなハンデを背負って、最初から勝ち目のない挑戦だった。しかし、弱音を吐かず、諦めることなく、最後までよく頑張った。父は君のことを誇りに思う。君は、人に羨ましいと思ってもらえる生き方をしたな』
 手紙には、背番号21番を付けたユニホーム姿の彼のイラストを書き添えた。彼がその本と手紙についてどう思ったのか、いや読んだことすら知らない。しかしその本はしばらく彼の本棚に無造作に置かれていたが、彼が大学卒業後に就職して家を出て行った時に、本棚からその本だけが姿を消していた。



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