【連載小説】小五郎は逃げない 第32話
決別 3/3
子供の頃はよく友達にいじめられていた。しかし、悔しくて泣いた記憶などなかった。剣術を始めてから誰にも負けたことがなかったが、龍馬に始めて試合で負けた時も悔し涙など流すことはなかった。池田屋で新選組の襲撃を受け、仲間を置いて逃げた時に、走りながら泣いていた気がする。友が死に行く姿を思い浮かべると、意識することなく泣いていた気がする。自分が苦しくとも、辛くとも泣くことはなかった。しかし、親愛なる友の苦しみには耐えきれない、耐えきれずに涙してしまう。桂はそういう男だった。
「小五郎、明日があるぜよ。帰るきに」
以蔵は桂の腕をつかむと、優しくそう言った。桂は無言のまま抗おうとしたが、桂は駄々をこねた子供が親に引っ張られるように、龍馬が待つ寺田屋へと歩みを進めた。
二人は夜の闇の中をとぼとぼと歩いた。
「小五郎よ、何でわしがあそこにおるとわかったきに」
以蔵が徐に聞いた。
「何となくだ」
桂が愛想なく答えた。
「何となくかえ。それでわざわざ木刀を持ってきたがかえ」
「そうだ」
「何となくやなくて、何もかもわかっちょったがやないきに」
「いや何となくだ」
「なんやえらい愛想のないやつやき。まあ、どっちでもええぜよ」
龍馬が待つ寺田屋までの道すがら、二人の他愛もない会話が続いた。会話と言うか以蔵が一方的に話しかけ、桂が愛想なく返事をしていただけだった。その桂がぼそぼそと独り言のように話し出した。
「以蔵殿、運命とはわからぬものだ。三日前の夜、あなたが四条大橋の上から垂らしてくれた一本の縄が私の運命をつなぎ止めてくれた。私は無我夢中でしがみついただけなのに、縄が私を岸へと引っ張り上げ、そのまま引きずられるように今日まで来た。お陰で身も心も死にかけていたがほんの少しだけ希望が持てた」
「なんやき急に、気持ち悪いぜよ」
以蔵が茶化したので、また桂がむっとした表情で黙り込んでしまった。
「縄のお陰って言わんとちゃんとわしのお陰って言えばええきに。縄が勝手に人を引っ張っていきやせんぜよ。そやけんど、わしかて小五郎と明日の約束をしとらんかったら、さっき黙って斬られちょったがかもしれんきに。今度はおまんがわしに縄を垂らしてくれたがぜよ。わしがそれにしがみついたら、急に生きる気が沸いてきたきに。礼を言うぜよ」
とぼとぼと歩く桂に、以蔵が少し嬉しそうに言った。
「そうか」
薄暗がりの中で桂が微かに微笑んだように以蔵には見えた。
「ところで小五郎よ。わしも長州に行くぜよ。もう帰る所もなくなったしもうたきに」
「そうか。しかし、条件が二つある」
「条件?そりゃ何やき」
「トラもいっしょだ」
「ほー、もう一つは何やき」
「二度と人を殺すな」
寺田屋の土間に入れてもらっていた寅之助が急に吠え出したので、龍馬が二階から様子を見に降りてきてみると、桂と以蔵の姿がそこにあった。
「桂さん、どこ行っとったぜよ。なかなか戻ってこんきに心配しとったぜよ」
龍馬は桂の顔を見るなり叫ぶように言った。
「いやいや、いろいろありまして・・・」
桂がばつの悪そうな顔をして言った。
「わしの心配はせんのかえ」
以蔵が機嫌の悪そうな顔で言った。
「ところで明日の準備はできたかえ」
龍馬は以蔵の話など聞いていない。
「いろいろあって遅くなってしもうたけんど、準備は万端ぜよ。あとは決行するだけぜよ」
以蔵は疲れた顔を覗かせながら、笑顔で言った。
龍馬に招かれて二人は龍馬の部屋に戻り、三人で食事を共にした。明日の決戦に備えて酒は飲まないことにした。その席で龍馬から以蔵と桂に贈り物が渡された。それは羽織と袴だった。
「おまんらは武士やき、武士らしく戦わなならんぜよ。ほがな乞食みたいな恰好で戦ってはならんきに。立派なものは用意できんかったけんど、着物を用意してきたぜよ。これを着て、武士らしく、武士として戦ってきーや」
龍馬はそう言って、風呂敷に包まれた着物を一着ずつ以蔵と桂に渡した。
「何とお礼を言っていいのか、言葉がございません。このお礼はいつか必ず返させていただきます」
「龍馬、すまんのぉ。こりゃ、気が引き締まるってもんぜよ」
桂と以蔵はそれぞれに礼を言った。
「いやいや、気にせんでええぜよ。礼もいらんぜよ。わしの願いはおまんらが生き延びて、さらの日本を作ってくれりゃ、そんでええきに」
龍馬は笑顔で言った。そして、明日に備えて今日の疲れを癒すべく、二人は早々に深い眠りに落ちた。
<続く……>
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