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【エッセイ】家族鍋

我が家の冬の週末は、毎晩のように家族でお鍋を囲んだ。その理由は、ただ私が好きというだけのことだった。
我が家は、妻と息子二人の四人家族なのだが、彼らは私のわがままに、毎晩のように付き合わされてきた。
私の子供の頃は、お鍋と言うと、水炊き、うどんすき、寄せ鍋と種類が少なく、私自身も、お鍋よりカレーやとんかつの方が好きだった記憶がある。しかし、今はしゃぶしゃぶ、かにすき、ちゃんこ鍋などは言うまでもなく、豆乳鍋、チゲ鍋、トマト鍋、カレー鍋など、新しい鍋も増え、数え切れない程のお鍋を味わうことができる。これだけの種類の鍋があるのだから、週末の晩御飯だけお鍋をローテーションで食べれば、飽きるようなことはないと思うのだが、彼らには、その意見はなかなか受け入れられなかった。彼らにとっては、お鍋はお鍋なのである。

本音を言うと、お鍋自体がたまらなく好きという訳ではない。何が好きなのかと聞かれると、明確に答えることができない。お鍋を食べるときの雰囲気なのだろうか。確かに会社の人達や友達と食べる鍋に、それほど興味はない。家族と食べる家族鍋だけを愛しているのである。

息子たちがまだ小さかった頃は、何も文句を言わず、平和に食べることができた。我が家のお鍋に入れる具材は、どちらかというと野菜が中心なのだが、彼らはどうしてもお肉を食べたがる。
「お肉ばかり食べてへんで、野菜もちゃんと食べなあかん」
私から厳しい注意事項が発せられる。
「わかってる、ちゃんと食べてるで」
子供たちから元気な返事が返ってくるが、いつも食べ終わる頃には、野菜たちがぷかぷかと鍋の中に浮いていた。

彼らが食べ盛りの中学生、高校生になると、お肉の争奪戦が勃発した。妻はお肉を最初から投入しない。お鍋が中盤戦になる頃に、冷蔵庫から生肉を取り出してきて、おもむろに鍋の中に投入する。三人はいち早くそれを察知し、即座に臨戦態勢に入る。投下された瞬間にお箸を巧みに操って、まだ生の状態のまま自分の陣地に引きずり込む。なぜかこの争奪戦は、お肉がきれいに三等分され、とりあえず平和に終わるのだが、これがお肉の投入のたびに何度も繰り返される。結構面倒くさい。

締めはうどんかラーメン。鴨なべの時はそば。トマト鍋の時はパスタ。煮込むのに暫し時間が空くので、妻がせっせとお世話をしているにも関わらず、息子たちは一時食卓を離れて休憩する。妻の「そろそろできましたぁ」といういつもの合図で、テーブルに駆け戻ってきた彼らと、またまた争奪戦が始まる。これもまた面倒くさい。

冬の恒例のルーティーンは、十年近く続いただろうか。今では長男は就職して家を出ていき、次男は大学生になって、バイトに明け暮れて夕食時には家にいない。もうこのルーティーンを行うこともなく、今は妻と二人で静かに鍋をつついている。もう争奪戦をする必要もなくなった。

「面倒くさかったな」

妻にそう言ってはみるものの、それはそれで楽しかったということが、今になって分かった気がする。そうでなければ、何十回とあの面倒くさいルーティーンを繰り返してはいなかっただろう。



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