見出し画像

【エッセイ】捨てられないもの 

だれにでも捨てられないものがある。私のそれは、一冊の英和辞典である。厚さは五センチメートル程度、ページ数は記載がないのでわからない。手垢で汚れしまっていて、ボロボロなのに捨てようと思ったことは一度もない。

小学四年生のころだったと思う。私は一冊の本と運命的な出会いをした。それは、母が買ってくれた野口英世氏の伝記だった。小学生ながらに、何てすごい人がいたのか体が震えるような衝撃を受けた。その本を何度も読み返した。こんな素晴らしい人に私もなりたいと心から思った。そして、私は野口氏のような医者になりたいと願い、その時から大学受験まで、勉強に明け暮れる毎日を過ごすこととなった。

とにかく我武者羅に、形振り構わずに勉強した。死ぬほど勉強すれば、自ずと願いが叶うと思っていた。中学校に入ってからも、部活にも入らず、友達と遊びに行くこともせず、学校から戻ると自分の部屋に籠って、毎日夜遅くまで勉強した。そんな私の姿を見て、母は苦しい家計をやりくりして、私を塾に通わせてくれた。私はそれに応えようと、必死に勉強をした。そんな時、母が私に一冊の英和辞典をプレゼントしてくれた。中学生だった私には、少しレベルの高いものだったが、その辞書を、大学を卒業するまで使い続けることになるとは、この時思いもしなかった。

高校に入学し、国立大学の医学部に進学したいという目標ができた。毎日明け方まで勉強し、学年でもトップクラスを維持することができた。しかし大学受験に失敗した私は、夢を叶えることができなかった。あれほど勉強したのに・・・。私の青春はどこに葬ればいいのか。やり場のない虚しさだけが、私の心の中にずっと渦巻いていた。

その後、私立大学の理工学部を卒業した私は、三十年経った今も建設系の会社でインフラの維持管理に携わる仕事を続けている。相手にしているのは人ではないが、傷んだ構造物を調査して診断をする、言わばインフラの専門医のようなものだ。社会的にははあまり目立たない仕事だが、やりがいは感じている。その間に、いくつかの難しい資格試験にパスすることができたし、博士号も所得することができた。社会人になってからも、勉強する場面は多々あった。苦痛に感じたことはない。自然とそうすることができた。学生の頃から、習慣になってしまっていたのだろうか。それでも学生時代にやっていた勉強量の比にはならない。

今になって思い返してみると、必死に勉強したことが、無駄ではなかったのかもしれない。青春時代は勉強に明け暮れたと聞くと、だれもがあまり良い印象を持たないだろう。ましてや夢が叶わなかったのである。スポーツや芸術に熱中したとか、いろいろな遊びを経験したと言う方が余程学生らしくて聞こえが良い。私自身もそう思う。しかしあのダサい日々が私の青春なのである。決して誇らしいものではないが、私の礎になっていることは間違いない。この歳になって、やっとそう思えるようになった。

ふと書斎の本棚に目をやると、あの辞書が目に入った。いつも見えていたのに、気にも留めていなかった。毎日共に戦った戦友なのに、気付いてやるのに三十年もかかった。彼は私の勉強机の傍らにはいつもいた。一体いくつの英単語を調べたことだろうか。何千回、何万回という次元ではないだろう。主だった単語であれば、記載されているページを指先の間隔でピタリと当てることができた。彼は私の夢を叶えようと、自分の身をボロボロにしながら、何年も付き合ってくれた。それなのに私は彼の存在すら忘れてしまっていた。

今や電子辞書やスマホが当たり前のように使われていて、単語どころか訳したい文章がそのまま日本語に変換されて、画面に映し出される。実に効率的で、私の学生の頃にそのような便利なアイテムがあれば、私の勉強時間も、もっと短縮されていただろう。時折、英語の文章を書くことがあるが、辞書を引くようなことはない。彼と私があの頃のようにタッグを組むことは、もう二度とないのかもしれない。

彼は決して便利なアイテムではなかった。重くて持ち運べないし、一つの英文を訳すのに何度となくページをめくらなければならない。そのために、勉強時間はどんどん長くなる。そんな厄介なやつだから、返って愛着が沸くのかもしれない。

現代の学生が私のような年配者になって、スマホを眺めながらしみじみと若い頃のことを思い出すのだろうか。いやいや、そんなことはないだろう。
彼は今も傷ついたまま、本棚の中で眠っている。出番が来ることは、おそらく二度とない。しかし捨てるようなことは決してない。彼の存在は私の青春の証なのである。別れることはない。来るべき時が来れば、共に棺桶の中で灰になろう。

小説を読んでいただきありがとうございます。鈴々堂プロジェクトに興味を持ってサポートいただけましたらうれしいです。夫婦で夢をかなえる一歩にしたいです。よろしくお願いします。