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ブラックボックス

提出を来週に控えている課題が進まないので、この前友人と話したことを記録しようと思う。現実逃避、じゃない、はず、多分。


「知性化」について、他専攻の友人A友人Bと話すことがあった。災害や事件が起きた時のことを考えたり知ったりするのはつらいけれど、でも知っておかなければならない。なるべくなら知りたくなかったことを知る必要はあるか。知ったあと、どう蹴りをつけるか。

私と友人Bは、「自分のための情報として取捨選択して変換して、活かせそうなことなら頭の片隅に置いておく」と答えた。

友人Aは「知性化の極みだね」と笑った。

他者の様子や自分の経験を通して心が揺らいだり傷つくことがあっても、それを知識として蓄積させていくこと。あくまでも客観視をして、言語化して分析して、落とし込む。
大学院生として、支援職として、ひとりの人間として、使えそうな知識に分類して保存する。無理やりな意味付けと言われれば、冷たい人間と言われたらそれまでなんだろうけど、きっと私はこれを死ぬまでやめられないだろうなあ。

視点を変えれば、これは一種の逃げなんだと思う。その出来事に対する感情を見ないふりして、ひたすらに事実だけを見る。クリアに見るためにノイズを除去する。感情は中立さを欠くのを知っているから、邪魔だから、いらない。
冷静だとも表現出来るそれは、裏を返せば感情と向き合うのを恐れるまたは面倒がる、即ち逃げているだけだとも言える。

どこまでも第三者としてしか捉えられない。いつだって良くも悪くも他人事だから、だからこそなにかのきっかけで感情が強く揺さぶられると弱い。圧倒される感覚に動けなくなって、嵌った時にはもう何もできなくなってしまう。自分の経験なはずなのにどこか非現実的に感じるのは、その視点でしか見ていられないから。

今日もブラックボックスのなかで蠢く気配を感じながら、それでも中身を開かずに、箱の見た目と重さを観察して、へらへら笑いながら知ったようなことを言う。真正面から箱を開くのは怖いね。子どもみたいなこと、馬鹿みたいだけれど。

境界線が無いよりはあった方がいいだろうし、興奮よりも冷静な方が良いだろうし。でも時々忘れかける主観を手元に置いておく許可を出すくらいは忘れないでいられたらいいのかもしれない。


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