また今日も夜が来る
先日仕事終わりに「夜明けのすべて」を観てきました。以下作品の内容や演出に触れております。未鑑賞の方、鑑賞の予定がある方は閲覧をお控えいただいた方がよいかもしれません。ページを開いてくださってありがとう、また遊びにきてくださったら嬉しいです。
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まずは、いいなあと思ってしまう自分に吐き気がした。特にPMS。山添の「PMSって言えば良いですもんね」っていう表現は、おそらく私が言ったらただの棘になってしまう。でも山添と藤沢の関係性があるからこそ、あの会話は出来たんだ。
誰でも言っていいわけじゃない。当たり前だけれど。
あの映画の中で、きっと誰もが誰かを想っていた。でもその矢印の向きや長さや時間が違いすぎたし、その違いはどうしようもないものだった。想うということはすべて美しいわけではなく、時に重たく、するどく、どろどろしている。それは発した本人がどう思おうと、受け取った人が中身を開けてみないとわからない。だからこそ、緩く細い、時には見えないような矢印が確かにそこにあることが彼らにとって全てだったのだと思う。
パートナーとか家族とか、そういうラベリングをとっぱらった(まあ、同僚や職場での上下関係という関係性はあれど)、透明なかごのなかでゆらゆらとたゆたう彼らをぼんやりと見ていた。
救いはない。家族が自死をした事実は消えないし、会社も潰れないとは限らない。PMSもパニック障害も完治しないし、もっと病状が悪化するかもしれない。
それでも、あの空間はたしかにあたたかかったし、誰ひとりも否定せず、そこには透明な籠が編まれていた。あの中にいたことはきっとその後の灯火になる。大切にされたという経験は、きっとあかりになる。
地球の自転が繰り返される度に運ばれるあたらしい夜も、その度にきっと照らしてくれる。夜は明けてもまた必ず来る夜を乗り越えられる、方位磁針となる。
なんとなく、泣きたくなった。
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