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期待しないよ

期待しないという言葉を「他人に対する要求レベルを上げない」と置き換えた人がいた。
それを用いるとしても、私はやはり期待されたかったのだと思う。ちょっとした承認欲求。

文字にするとひどく気持ち悪い、でも、それでも。

こんな前置きをしておきながら、ずっと私は期待されたくなかった。笑ってしまうけれど。

いつだって、わたしという像が作られていく様子を、液晶画面越しにぼんやりと見ていた。

外面だけ見て形に当て嵌めて、きっとあなたならできるって、どこを見て言っているんだろう。でもその型でいることが望まれるならそれでいたほうが周りも喜ぶ。批判もされない。

なりたい自分を見つける前に勝手に作られたシリコン型に、どろどろにした自我を何度も何度も流し込んだ。型からはみ出た部分は期待に沿わないし、残しておくといらないところで引っかかって面倒だから切り落とした。それ以外の強い衝動もなかったし、楽だった。何も考えなくて済むから。喜んでもらえるから。

でも、私の生へのモチベーションと周りからの私へのモチベーションには差がありすぎて、度々叫び出したくなった。耳を塞いでしゃがみこみたかった。しなかった。面倒だから。

期待されたくない、と思いながら、期待されることに身を委ねていた。矛盾のようなそれが生きる術だった。

この間、身近な人から「期待していないよ」と言われた。半笑いの口から出た、細かなガラス片のような音。忘れたい、と思う度に、ちくちくと破片が刺さっていることを主張する。

これは前述の意味とは違う、要求すらしていない、平たく言えば「どうでもいい」という意味に受け取れた。見る気もないし目をかけることもない。文字通り、期待するということをしない。

ずっと「期待されたくない」と思ってきたはずなのに、何故かとても泣きたくなった。
期待されたくなかったんじゃなくて、目を向けることをやめてほしくなかったんだと初めて気づいた。


とても泣きたくなった。


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