私が嫌いな人の話

会社が潰れそうで、共倒れしたくなくてもがいています。

大変ですね、転職活動って。
自己PRも志望動機も確固たる証拠がないと薄っぺらに見えてしまいます。私の場合、たった4ヶ月(3ヶ月?)しか働いていないのでこれといったきらびやかな業績とか資格とか1個もないんです。いくら会社都合とは言えども、掲げられる紋章がゼロというのは苦しいものです。

不思議なもので、何もないじゃん自分!空っぽ!ジ・エンド!な状態になってしまうと、もういっそ全部無かった状態まで戻したくなってしまいます。過去とか肉体とか人間関係とか、今までの生きた証…いえ、そんなご立派なものではないですね…汚点というか濁りというか…取り敢えず他人の記憶にある自分、SNSに残った自分、そういった痕跡を1つ残らず消し去ってしまいたくなります。
これを精神科に訴えれば、きっと沈みゆく会社を辞めた後、何かしらの保障で少しは生きていけるのかもしれません。まぁ、身体は動くしまだ前を向いていこうと思えるし、そもそも私のミジンコレベルのプライドが許しませんが。

ここで、私が嫌いなことについて少し書きます。

私は、人の死を可哀想だと言うだけの人が、或いは、辛さを分かち合おうとせずに、泣いたりご鞭撻を宣うばかりで手を差しのべない人が、嫌いです。

だって。
すっごく卑怯じゃないですか?

実際に辛いことは全て終わってから、赤の他人のように傍観していた自分を棚に上げて眉をひそめるだけで善人面なんて。それで善人だと、自分は人間としての美徳があると、そう思わせようとするなんて。全くもって卑怯です。

それで誰かを救った気持ちになってエゴを満たすというなら、ごみ拾いでも読み聞かせでもしていれば良いんです。
傷ついた人が、精一杯作った笑顔で振り絞ったありがとうで、満たされるような下らない自己肯定感にどんな意味があるのでしょう。

命がけで誰かを救おうとか、正義を軸に行動しようとか、覚悟も意地もなくて泥臭さが嫌いだなんて態度で示すような人に、善人面されて感謝を促されるなんて、悔しいだけです。

生の感情は消費コンテンツじゃない。
本当に見たいなら、最後まで奥まで手を突っ込んでズブズブに汚れてしまえば良いのに。絶望も希望も、生き様も、全部全部知って苦しめば良いのに。
こう考える私は、どこかおかしいのでしょうか。

あぁ、別におかしいかどうかなんて非常にどうでもいいんですけどね。こんな風に申し立てたところで、分からない人には届かないんです。そんなことくらい、昔から知っています。

でも、だから、時々考えてしまいます。
何処かに、ズブズブに汚れて苦しくて、必死にもがいている人がいるのかな、と。
何処かに、汚れを厭わず、少し奥まで手を伸ばそうと足掻く人がいるのかな、と。

そしたら、もしかしたら…少しは目を腫らす日が少なくなるのかな、と。

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