藤本和子 塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性

相変わらず、在宅勤務は続いている。私の勤める会社では7月から普通に、「顔を合わせて」勤務することを推奨するという。なぜ、21歳の時の私は、この会社に入ろうと思ったのだろうとしみじみ思いだすくらい、自分の価値観と会社の価値観にずれがある。これだって、会社から貸与されているPCで書いているというのに。ambivalentな状況が続いても、人は慣れる。

そんな最中に、本好きの友人のインスタを見て、この本の存在を知った。「北米の黒人女性」とは、今の私にとってまさにHot Wordだったから、すぐにAmazonで買った。そして、たまげた。この本は、すべて著者の聞き書きによるもの(相手の話したいことを話したいように、質問はそれに合わせて、というスタイルをとっている)、そしてこれが80年代に出版されていたということ。

あらすじなどは、こちらで。

読んでいて、とても面白かったというより、もう私が横で彼女の話を聞いているのでは、と錯覚するぐらい、著者の文章が上手い。アメリカ南部の空気を知らないのに、まるで夜中に一緒に話を聞いているようだ。何よりここに登場する黒人女性は決して特別な人たちではない。著者の伝手であったり、「あー、その話なら9×j*kさんに聞けばいいわよ。電話しといてあげるわね」みたいなノリで、どんどん輪は広がる。ただ、その一人一人の話が、こちらの想像を超えて、豊かで深い。「豊か」というのは、経済的な意味でなく、精神的な意味において。

興味深かったのは、「塩」についての記述。

(略)表題の塩食う者たちとは、塩にたとえられるべき辛苦を経験する者たちのことであると同時に、塩を食べて傷を癒す者たちでもある。蛇の毒は塩を食って中和する。「蛇の毒」は黒人を差別し抑圧する社会の毒である。(略)ジョージア州クレイボーンという町には塩水性の沼沢があって、そこでは隠者が修行をしているし、傷を負った犬が傷を癒すためにやってくる。ヴードゥーの言い伝えでは、塩をまくと魔除けになる。このように、「塩」には重層的な意味が重ねられているが、塩を食らう者たちは生きのびること、再生することを願う者たちであるし、体内にあって多すぎても少なすぎても逆効果になる「塩」という基本的な生の要素を分かち合う者たちでもある。生存の根としての塩、その塩を食らう共同体。

日本でも昔から塩は身近にあり、食品の保存はもちろん、身を浄めるためや盛り塩にも使われている馴染み深いものだ。それが、遙かアフリカにルーツを持つ人々も同じように塩を用いて、魔除けやひいては「生きていくために欠かせないもの」となっていることに驚きを隠せなかった。ここを読んで以来、遠い北米にいる黒人女性が一気に身近に感じられた。日本は鎖国を長い間していて、運よく、奴隷にならなかっただけで、私も彼女たちと同じ立場に置かれていたかもしれない。だって、私たちはきっとルーツの部分で非常に近しい世界観をもっているのでは?とこの文章を読んで以来、感じている。

自分の根本のルーツとの「接続点」(ここで語った女性がアフリカに行った時の経験を話に出てきた)とも繋がるけれど、この話は私たち自身の話でもあるのだ。先ほどの「塩」も然り、日本では古来から自然を敬い、畏れてきた。土を耕し、米を育てながら、コミュニティを作り、文化を育んできた。何よりも「スマート」であることや「light」や「slim」であることを推奨することが多い今の日本では、このルーツは忘れ去られている。

この「接続点」の話をしていた彼女は、アフリカで自身の「接続点」を発見して以来、自分自身の中にもある目には見えない先祖代々から受け継がれてきた力を信じられるようになったと語っている。目には見えないけれど、生まれた時に既に自分に備わっている力。自分自身の本当のルーツ。この年齢になってようやく私にもそれが意味することが分かる。お墓参りに行った時に、祖父母、曾祖父母以外の人々の名前を見ると、こんな人たちがいたのか、という思いとこの人たちの誰一人が欠けても、今の自分はいないことに静かな感動を覚えたことがある。これは、北米に住む黒人女性の話だけれど、決して他人事ではないのだ。私たちも彼女たちほどではないにせよ、そういった生まれた時から備わっている力をあまりにも過少評価しているように思った。

ここまで、自分の印象に残った箇所のみピックアップする形で書いてきたが、正直、この本はすべてのページに「生きていくこと」の啓示のような文章だらけで、とても1回で読めたという代物でもない。そして、これはタラタラ読む本でもない(私の場合)。しっかり時間を作って、集中して読む。この本を読むための時間を作ることは、幸せ以外の何物でもない。

このような名著が復刊し、今、私の手元にあることに感謝したい。世代を超えて、多くの人に読んでほしいと思う1冊だ。

さて、私は7月1日に会社に行くのであろうか?自分でもどちらになるかまだ分からない。私の本能(ルーツとも言える)に従うことだけは決めた。ダメだという状況に迎合して、慣れる必要はどこにもないのだ。

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