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おもう

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#心

イタリアで作ったひとつの歌

記憶にある中で、私が自分の曲を奏でてみようと試みたのは、小学校の低学年の時だ。 ピアノの練習を一通り終え、その延長でテキトーに鍵盤を鳴らす。 それはまだ和音も調性もちぐはぐな即興音楽だったように思う。 一つ鳴らした音から、次に鳴らす音を考えるのが楽しく、そして一度奏でたものはすぐに忘れ、常に新しい気持ちで新しい音を作る感覚。 イタリアに留学し、そこで経験したのは言葉の壁であったが、外国語の壁というよりは、感情と言葉の間にある壁。 この「ありがとう」という気持ちを、g

そのままの自分でいること

茨木のり子の詩が好きだ。 図書館でふと手にした「ポケット詩集」。 その一篇に『 汲む ー Y. Y に ー 』があった。 (上記 詩より 一部抜粋) 初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人と思わなくなった時 堕落がはじまるのね (中略) 大人になってもどぎまぎしたっていいんだな 変に恰好つけなくていい。 不恰好でも、 その人らしさがあれば 伝わるものがある。 大切なことを守り続ける。 それで十分だということ。 『 いつまでも大

他人の本心とは、自分がどのようにその人を信じているかってこと

「あの人の本心がわからないわ」 なんて言う人がいるが、私は誰の本心も知ったことがない。 本心とは、そもそも誰の真実なのか。 読み取られる側の真実なのか、それとも読み取る側の真実なのか。 人はある程度、自分に嘘をついて生きる。 もし、「私は自分に嘘をつかない」 と言う人がいたら、嘘をつかないという言葉が嘘だろうと思う。 みんなから「優しいね」「良い人ね」と思われている人は、上手く生きている分、どこかに嘘がある。 みんなに同じように接したら、傷つく人ができてしまうこと

何でもぱっぱか決められる心でいよう!

咄嗟の判断も迷わずに「これ!」と言える人ってすごい。 私はそんな風にパキッと決められる人に憧れているから、 下手な真似をするんだけど、 「これ!」と言っておきながら、実は迷ってることがよくある。 THE 優柔不断である。 周りからは迷いのない人と思われるが、 実際はめっちゃ迷ってる。 そういう時、わたしは挙動不審だ。 きっと先を考えすぎるから迷うんだ。 今を規準に自分を見つめて、 自分の心に余裕があれば、 何を選んでも良い結果につながるのだと思う。 そ

『自分の感受性くらい』

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 私の好きな詩人、茨木のり子の『自分の感受性くらい』の 最後の一節。 ものすごく強い言葉だ。 ドカンと心に刺さる。 衝撃が走る。 何だろう。 「そうだよね」なんて 簡単な共感文句では済まされない重み。 茨木のり子の言葉は、 グサッと刺す鋭さがあるのだが、 そこに強制がない。 この詩を読んでいると、  自分の心の弱さにはっとする。 そして大切なことに気づかされる。 向かい合うべきは他人ではなく 自分な

ご気楽人間でいたいと思います

日常で、わたしは自分の言動をほとんど信用していない。 嘘でたらめがあまりにも多いから。(笑) 何でって、みんなに笑っていてほしいから。 そんな自分のことも自分の思考も、 良くも悪くもはっきり見えているから、 テキトーであることには自信が持てている。 私が楽しく笑っていて、損をする人はいないから、 「あなたといると元気が出ます」 みたいな人も現れたりして、 「太陽みたいですね」とか、 「サンシャイン」とまで呼ばれている。 そうなると、言う側も言われる側も、笑顔が止まらな

その人を信じているから心に響く言葉が生まれる

思いを言葉にするなんて、出来っこないって思うんだけど もしかすると、複雑な気持ちの揺れを単純に一言に表せるのが言葉のいいところなのかもしれない。 ある人が発した言葉の中に、隠された真相はあるかもしれないし、ないかもしれない。 ただ単に発しただけで、何も意図してない中に、受け手が解釈を加えることもあるし、 すごく悩んで選んだ言葉なのに、その過程を受け取る側は全く気づかないこともある。 つまり、含み、ニュアンスは確実ではなくて、 そこを探っても、探らなくてそのまま受け

楽しさを決めるのは自分の心

楽しいことを思い出して あの時のようにはいかないなぁと 今が嫌になることがあれば、 辛いことを思い出して あの時は頑張ったなぁと 自分が輝くこともある。 どんな時も、楽しさを決めるのは 場所とか 時間とか 一緒にいる人とか そこですることとか じゃなくて 自分の心が楽しいと決める。 だから楽しいと感じる自分を大切に、 小さなことで笑っていこう!