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馬乗りになるあなたと、首を絞められるわたし


※暴力的な表現を含みますので感受性の強い方は注意して閲覧してください※

昨今、自分の子どもに暴力を振るう親が社会問題になっておりますが
報道だのなんだのを見ておりますと思うのです。
『すっげー外野が喋ってんな』と。
全然リアルじゃない。ホンモノの痛みがそこにはない。
そんなわけで虐待被害の当事者が、親ってなんだろう子どもってなんだろう虐待ってなんだろう、そんなことを考えていくよー。

得手不得手

わたしの母はそもそも『母』が向いていない。
認識しうる限り、記憶がないのでアレだけどきっと『妻』も向いていない。
結婚生活は2年6ヶ月だったと聞いていいる。
おそらく、母は婚姻関係を継続させるつもりは毛頭なかったのであろう。
結婚し、孕み、離婚した。
元はと言えば我が家の祖母が原因である。
言葉を選ばないが去年亡くなった祖母は老害であった。
母が専門学校を出てすぐの頃、「一人暮らしをしたい。」と祖母に言うと
親不孝者!となじられ、しずしずと泣かれたのだと聞いた。
それ以来、そんなことは到底口に出せず実家から会社に通っていた。
家を出る手段は『結婚』以外に存在していなかったのだ。
幸いと言ってはなんだが、祖母は「早く結婚しろ」「孫を見せないなんて親不孝」
と言うタイプのいわゆる古典的老害だったので、
母は当時働いていた大手企業の社内で男を捕まえて結婚してわたしを孕んだ。
美人でよかったな、母よ。

自慢の孫と呼ばれて

さて、物語はわたしが1年生になるまで割愛する。
その頃わたしは母の実家におり、そこから少し遠い小学校までバスで通っていた。母のアメリカへのただならぬ憧れにより5歳からやってる英会話、祖母が母の為に買ったピアノを今度はわたしが弾いてほしいというただそれだけで始めさせられたクラシックピアノ、母が顔に水をつけるのが怖いから娘にはそうなって欲しくないと1歳になる前から通っていたスイミング。エゴまみれの習い事のせいで7歳の割には多忙な日々だった。
その上、お手伝いもキチンとする子どもだった。
特にわたしは祖母の客人にお茶出しをするのがとても好きだった。
丸盆の上に『客人用』と教えられた竹製のコースターを置き、
蓮の絵が描かれた湯呑みを湯通しして、色の淡い煎茶を注ぐ。
常備してあるおせんべいやらを一緒に乗せてに持っていくと
「あらあよくできたお孫さんねぇ、気がきくわぁ、ありがとう。」
と褒めてもらい、(いま脳内再生してちょっとイラっとした)
「うちのはこういうのが好きなだけなのよ。」
と、満面の笑みを浮かべた祖母が謙遜する。
客人が帰られてからわたしに向き直って、
「りんちゃんは本当によく出来た子ねぇ。」と喜んでくれるのだ。
今聞くと吐き気すら起こるが当時はこれを『褒めてもらった成功体験』
としてインプットしてしまっていた。そりゃ性格歪むわ。
こんなものはまだ可愛い方で祖母の問題行動は死ぬまで尽きないのだが
母はわたしに隠れてそんな祖母に抗議し、わたしの育ちを案じたが、
結局祖母とわたしにぎゅうぎゅうに挟まれ、歪みをわたしにぶつける始末になる。


涙と怒鳴り声とわたし。

正直に申し上げると、一番苦しかった時のことは忘れてしまった。
体が、心が、記憶しておくことを放棄したようなのでそれに倣う事にした。
ソレが始まったのは小学4年生か5年生だった、と思う。
当時の担任の先生からもらったお手紙に「あなたは何度言っても家に帰ろうとしなかったね。」とあるのでその頃にはもう家に帰るのがしんどい子になっていたのだろう。
何度も眺めた教室からの夕日を今だに覚えている。
クラブもない、委員会もない、補習もない、それでもひとりで教室に残って外を眺める。わたしの様子を見にきたアンリ先生とおしゃべりをする。帰りなさいと促されるけど、下校時刻を過ぎてもなんだかんだと理由をつけて5時、時には6時まで学校にいた。もちろんその時も習い事は忙しかったから、何かある日はまっすぐ家に帰った。祖母とずっと話すのはストレスが溜まるので習い事に向かうギリギリまで自室で本を読んでいた。7年続けた水泳を辞めるのと入れ替わりに始めた体操教室、相変わらず楽しい英会話、どちらも祖父が車で送ってくれ、帰りは仕事帰りの母が迎えにきてくれた。
ママ友が教室をやっていたお習字と、大嫌いなピアノは近所だったので自転車で通った。
ピアノ、大嫌いなのに辞めたいのに、泣きながら弾いていた。
辞めたいというと、冷たい目で「あなたの好きにしなさい」と言われるのだ。
わたしにとっては『辞めたらあなたをいまよりもっと嫌いになる』という呪いの言葉に聞こえていた。
ピアノの練習は主に土日に、母が聴いているときにやるのが暗黙のルールだった。
別の階で弾いているのだが、家事が終わるとやがてこちらに近づいてくる足音が聞こえる。進捗が悪いと怒られる。自分は音感ない癖に。
結局、中学生で塾に通い始めるまで7年やっていた。
でも大人になった今はもう一曲も弾けない。嫌いだから。
この頃からわたしはよく反発した。
母の一挙手一投足が癇に障った。
怒鳴った。泣いた。喚いた。
母は、わたしの泣き声が嫌いだった。
わたしが興奮してしやくり上げるほど泣くと口を塞がれた。
それでも声は出続ける。興奮しきって自分では泣くのを止められないからだ。
息を落ち着かせようと深呼吸をする。
わたしが大きく胸に空気を入れようとした瞬間に母はわたしに馬乗りになって、首を絞めた。鼻と口を塞がれながら、大人の力で締めた。
「黙れ!黙れ、黙れ、黙れ!」
髪を振り乱しながら、わたしよりよほど大きく、そしてつんざくような声でわたしに怒鳴った。唾が顔にかかる。気持ち悪い。
わたしは何も出来ない。首、締められてるからね。
わたしは何も言えない。鼻と口、塞がれてるからね。
呼吸という営みに必要な器官を全て奪われて少しずつわたしの体から力が抜けていく。すると母も手からゆっくり力を抜く。
わたしは涙が止まり、ゆっくりと呼吸を再開する。少し咳き込んだりもする。
母はわたしの上から立ち上がり、部屋の隅でうなだれ始める。
日によってはそんな母の肩を撫で、わたしが慰めの言葉をかけ、
また別の日には呼吸が荒いままのわたしを母が起こし、ぬいぐるみなんかを抱かせてくれたりする。
怒鳴り合いが始まると終着駅は絞首でしかない。
このくらいの規模感の『親子喧嘩』を多いときは2日に1回行なっていた。
そう、わたしにとってはこれが『しつけ』であり『親子喧嘩』だった。
他の家でもお母さんは首を絞め、口と鼻を塞ぎ、「あんたなんか産まなきゃよかった!」と耳元で叫ぶものだと思っていた。

あ、気付いちゃいました?
当事者の子どもは実は『虐待されている自覚がない』ことも多いんです。
自覚がないうちは幸せですよ。だってお母さん大好きなんだもの。
こんなことされても、まだ、大好きなんです。

母と娘のジレンマ

何が問題なのか、って実は未だにわからないのだけど、
結論から言うと現在の母とわたし、別に仲悪くないです。
わたしは実家に住んで料理当番をして月に大体28日くらいは夕飯を作ります。
たまに朝早起きして、母にお弁当を作ってあげることもあります。
今年の母の日はAGATHAのサングラスと甘酒セットをあげました。
普通の親子を営めていると、思っています。

修復法に関してはめちゃくちゃ長くなるのでまた別のnoteを書くのだけど、
今回は当時の母が抱えていた問題だけ提示して終わります。
母は、わたしの『母』でいることと祖母の『娘』でいることこの2つのジレンマで
苦しんでいたのではないかと、そう思うのです。
両立できる器用な方もいるとは思いますが、母にはそれが出来なかった。
わたしの見る限りわたしの成長期での母はずっと
祖母の『娘』であることを優先させていました。
だから『母』を求めるわたしを受け入れられなかった。そういうことだと。

なぜ恨んでいないのかと問われると難しいのです。
子どもは親を嫌いになれない、これに尽きるんだと思います。

いや、だから虐待の記事書いてる人に言いたいんだけど
当事者でさえこんなにふわっとしか結論書けないのにあんたらにわかることあんの???

あのね、めっちゃリサーチしてちゃんと書いてる方もいらっしゃいます。
それわかりみが深いぃぃすごいぃぃってなることあります。
なんでわかるの?神なの??ってなることもあります。

でも、お願い、そんな簡単な言葉で綴らないで、って思うこともあるのです。
「子どもは親を選べない」「親になりきれてない親の元に生まれてきて」
そんな言葉をよく目にするのですが、わたしはあの母を選んで生まれてきました。
わたしじゃなかったらとっくに壊れてると思うもん、
わたし以外誰があの強烈な親扱えるの??
わたしちゃんと選びましたから。外野が「選べない」とか言わんで。
「親になりきれてない」っていうけどじゃああなたたちは
「記者になりきれてない」よ。出直してきな。

ふっ、決まったぜ。

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