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小説:雷【2856文字】

 二十年以上前のことだ。
 大学生の頃、僕はろくに勉強もせず大好きな登山にのめりこんでいた。登山というか、ほとんど放浪の旅のようなものだ。親からの仕送りとバイト代がたまればリュックひとつをかついで、日本の山々を登りながらあちこち旅をする。学生としてはろくでもないが、贅沢な時間だった。
 ある旅の途中、僕は珍しく山中で道に迷っていた。放浪の旅といっても山の危険はわかっている。コンパスや地図は必ず持っていたし、無茶はしないと決めていた。しかし、高い木々に囲まれたその山で、僕は迷子になっていた。山における迷子は、つまり遭難だ。リュックに入った残りの水と食料を確認しながら、せめて川でも見つかれば、と願いながら歩いていた。蒸し暑い残暑だった。焦りと暑さから、額に汗が滲む。
 すると、突然ぽっかりと広い平地が開けた。高い山々に囲まれた楕円型の平地に、広い畑と、ぽつんぽつんと家が点在している。
 助かった。とりあえず、今日はこの集落で休ませてもらおう。そう思いながら、一番手前の家に向かった。指でそっとつついたら崩れてしまいそうな古い木造の家屋。そういえば、と空を見上げると、電線がない。電気が来ていないようだ。もしかしたら過疎化した、無人の集落か。
「ごめんくださーい」
 玄関先で声をかける。
「はーい」
 家の中ではないところから声がした。きょろきょろしてみると、家の隣に広がる畑に人がいる。畑には、真っ赤なトマトや瑞々しいキュウリ、つやつやのナスが実っていて、確実に人の生活を感じた。僕はほっと胸を撫でおろす。
「すみませーん、山で迷ってしまって」
 畑の真ん中で作業をしている男性に声をかける。
「そうかそうか。このあたりの山は、わかりにくいんでな」
「少し休ませていただくことはできますか?」
「ああ、もちろんだよ」
 五十代くらいの日に焼けた男性だった。
「もうすぐ嫁が山菜とりから戻ってくるで、なんか食べていきなさい」
「ありがとうございます!」
 男性は作業をやめて、僕のほうへ歩いてきた。
「お兄さん、学生さん?」
「はい」
「今日はこのあと雷雨になるで、泊っていくといい」
「雷雨ですか?」
「山の天気は変わりやすい。ほら見ろ、あの雲。ありゃ、夕方から雷雨だ。泊まってけ」
「いいんですか?」
「ああ。いいでいいで」
 人の良さそうな男性の好意に甘えることにした。人とのふれあいが、旅の醍醐味でもある。
 男性に促されて家に入ると、想像と違う光景に驚いた。足を止めた僕に、男性はにやりと笑いかける。
「こんな田舎に、似合わねえか?」
 そこには、当時の最新家電がほとんど揃っていた。エアコンが効いていて涼しいし、その涼しい空気をおしゃれなサーキュレーターが静かに揺らしている。大きな冷蔵庫もある。こんな大自然の中では必要なさそうな空気清浄機もあるし、ダイソンの掃除機もあった。失礼を承知で、確認せずにはいられなかった。
「あの、この村には電線がないように見えたのですが、電気はどこから引いているのですか?」
 男性は得意げに笑って、窓から外を見る。
「ここに蓄電池があるで、村中これを使っている」
 窓からのぞくと、たしかにそこには大きな機械があった。これが蓄電池なのか。
「蓄電池にためる電気はどうしているのですか?」
「ああ、それならちょうど今日、見られるんでねえかな」
 電気会社の人でも来るのだろうか。外は少しずつ暮れはじめ、夕闇があたりを染め始めていた。

 男性の奥さんが家に帰ってくる頃、雨が降り出した。
「降ってきたで」
 奥さんは家に入ると、山菜の入った籠を置いて少し濡れた肌を手で払う。男性は奥さんに僕のことを紹介し、奥さんは快く僕を泊めることを了承してくれた。奥さんは僕たちにお茶を淹れてくれた。山でとれた何かの葉を乾燥させたお茶だそうだ。渋みが強いが、香りが良くて美味しい。
 しだいに雨脚は強まり、土砂降りになった。遠くから微かに雷鳴がとどろきはじめる。
「ほうら、やっぱり雷だで」
「ヒカリちゃん、来るかね」
「たぶん、来るだで」
「ありがたいね」
 男性と奥さんが話している。男性が窓から外を見て、「やっぱり出てきたで」と言いながら僕に手招きをした。
 僕はお茶を座卓に置いて、外を見る。叩きつけるような雨の中に、ひとりの少女が立っていた。小学生くらいに見える。
「何しているんですか、あの子」
「あの子が、ヒカリちゃんだで」
 よく見ると、少女は釣り竿のような長い棒を持っている。雷鳴は確実に近づいてきている。
「危ないじゃないですか、こんな雷雨の中、小さな女の子ひとりで」
 僕は慌てて外に出ようとする。しかし、男性に止められた。男性は僕の腕をつかんで窓のほうへ戻す。
「あの子はヒカリちゃんだで、大丈夫。よそ者には珍しいだで、よく見てろ」
 男性が言った次の瞬間、バリバリバリとすごい音を立てて空が割れ、眩しいほどの稲光と同時に、地鳴りのような落雷が少女を貫いた。バチンと弾かれるように少女の体が投げ飛ばされる。落雷が少女に直撃したのだ。
「早く助けないと!」
 動悸がしていた。悪事に加担している気になった。あんな小さな少女が落雷にあったのに、ぼうっと見ているだけだなんて、この人たちはどうかしている。
「大丈夫だで、見ろ」
 窓の外を見ると、倒れた少女は雨に濡れたまま静かに立ち上がり、僕がのぞいている窓のほうへ歩いてきた。白い頬は薄黒く煤けて、髪は子供のそれじゃないように傷んで見える。少女は窓のすぐ下まで来ると、蓄電池のノズルに手を伸ばした。男性は少しだけ窓を開けて声をかける。
「本当にご苦労様だで、ヒカリちゃん」
 少女は顔をあげず、また平たい畑のほうへ歩きだし、釣り竿のような棒を持って立った。
「どういう、ことですか」
 声が震えた。
「あの子は、この村に代々生まれてくるヒカリちゃんだで。雷をつかまえて、電気に変えられる子。そのおかげで、この村は生きてるで」
 僕は、激しい雷雨の中に立っている少女と、家の中で煌々としている家電を見比べる。あの子は、これらの電気のために、落雷にあっているというのか。そんなことが可能なのか。
「よその人には理解できんことよ。あんた、東京の人だで?」
 奥さんが少し困ったような顔で僕に声をかけた。
「そうです」
「この村に古くからあることなんだで。かわいそうとか、思わんでおいてね」
 僕は何も言えなかった。でも、もう窓の外を見る気にはなれなかった。僕の背後で、また地鳴りのような雷が落ちる。きっと、少女に直撃したのだろう。
 その夜は、一晩中雷雨だった。少女が何時まで電気を集めていたのか、考えたくなかった。雨音は耳鳴りのようにいつまでも僕の中に残っていた。

 東京に帰ってから、雷を集められる少女についての伝承を探したが、ついに見つけることはできなかった。大人になってからGoogle Mapで当時行った山を探したけれど、集落を見つけることはできなかった。
 今でも雷の日は思い出す。今日もどこかの山でヒカリちゃんが、きっと電気を集めている。煤けた薄黒い頬をして。


【おわり】

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