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小説「世界を愛するには何もかもが足りなくて。」全文前編

19回にわけて投稿していた小説の全文です。加筆修正はしていません。


【宇山】

「青春と潮騒が混ざり合ったみたいな空の色ですね。」

隣に座る哀ちゃんが言った。

窓から外を見たままの発言だったため、ひとりごとかとも思ったが、この車内で哀ちゃんが敬語を使う相手は私だけだから、きっと私に話しかけているのだろう。私は車窓から、確かに美しい空を眺めつつ、「青春と潮騒が混ざり合う」とはどういう意味だろうと考える。青春は概念だし、潮騒は音だ。それらが混ざり合って色になるというのは、私には意味不明だ。

私は、考えてもわからないことはそれ以上考えない性格であるため、哀ちゃんのほうを見て「うん、きれいな空だね。」とだけ答えた。

私の返事に哀ちゃんは少し私を見て微笑んで頷き、また外を見た。



横浜駅で直樹の運転するレンタカーにピックアップされた私たちは、伊香温泉までのドライブ中だ。沖縄が梅雨入りしたと発表されたばかりの今日、関東はすっきり晴れて清々しい。

私はさっき駅前でカヨに撮ってもらった写真をスマートフォンのメッセージアプリで妻に送信する。

『これから伊香温泉に向かいます。まゆは元気かな?お義父さんたちにもよろしくお伝えください。』

かわいいクマが「よろしく」と頭を下げているスタンプも送る。

私が同僚から旅行に誘われたことを妻に話すと、妻は娘を連れて実家へ遊びに行くと言った。

「久しぶりに家事から解放されてのんびりできるわー」と笑っていた。

メッセージアプリにすぐ返信が来る。

『こちらはまゆと贅沢ランチ中!うーさんも楽しんできてね。』

娘のまゆとお洒落なカフェらしき店でパスタを食べている写真が送られてきた。「うーさん」というのは、宇山という私の名字からくるあだ名で、妻だけでなく同僚や部下にもそう呼ばれている。

妻が楽しんでくれているようで少しほっとする。既婚男が独身の男女と旅行に行くというのは、妻の機嫌を損ねかねない事柄だ。でも、旅行幹事の直樹のことは妻もよく知っているし、独身男女たちが10歳近く年下であることも、妻を安心させているのだろう。

事実、今日一緒にいる4人は、いわゆる色っぽいことにはおおよそなりそうにない連中なのだ。30代前半の3人と40歳になったばかりの私、若者と呼ばれなくなった4人組の旅行だ。



直樹は私が勤める小さな印刷会社の元部下で、5年前にずっと夢だった小説家デビューを果たした。甘くて切ない恋愛小説は多くの女性に支持され、また爽やかなルックスと穏やかな関西弁が評判となり、今では小説だけでなく、情報番組のコメンテーターなども務める多忙な人気者だ。デビューしてから現在の人気者になるまで、「イケメンで運が良かった。」などと言う輩もいるが、私はそうは思わない。一緒に働いているときから、本人が言うにはもっと前、学生のときから、コツコツと小説を書いては投稿し、また書いては投稿し、を繰り返してきたらしい。その地道な努力が実った結果なのだ。

今日も直樹のテレビの生出演があったため、出発時間は少し遅め。目的地に着くのは夕方の予定だ。今日は夕飯と温泉を堪能し、観光は明日、というプランだ。観光といっても、きれいな色の沼(青沼というらしい)や滝がある程度らしいが、一泊二日の旅行にはちょうどいいだろう。



「もうすぐ高速入りまーす。」

直樹が運転席からみんなに告げる。

「はーい。安全運転でよろしくね。」と返事をするのは助手席のカヨ。直樹と同期入社で今も私の部下だ。

面倒見のいいお姉さんタイプで、仕事もできて気が利くし、誰にでも親切な優しい女性だ。今日も、運転している直樹に飲み物を渡したり、眠くないかと話しかけたり、朝から仕事だった直樹を気にかけている。動くたびパーマのかかった濃いめの茶色い髪が揺れて弾む。淡いピンクのサマーニットは似合っているが、カヨは少しぽっちゃりしているから、大きめの胸がふっくらと目立つ。でもいやらしく見えないのは、カヨの性格ゆえか、私がカヨの上司だからか。

私の隣に座る哀ちゃんは直樹の小説家仲間で、デビューしてすぐから仲がいいらしい。ときどき同僚たちの飲み会に連れてくることがあり、いつしかこの4人で集まることが多くなった。哀というのはペンネームで、本名は名乗られたことがないような気がする。いつも黒い服ばかり着ていて、カヨと対照的にすごく痩せていて、美人だがちょっと暗い、という印象だ。今日も黒いワンピースに黒いタイツ。爪だけ「なぜそんな色?」と聞きたくなるような濃い青のマニキュアが塗られている。せめてもう少し愛嬌があればいいのに、と勝手に思うのだが、ホラーだかミステリーだか、私にはよくわからない少し不気味な小説が専門らしいので、この暗いイメージも、ミステリアスというプラスイメージに働くのかもしれない。ただ直樹と違って哀ちゃんの小説が本屋に並んでいるところを私は見たことがないので、小説家としてどの程度売れているのか、正直謎だ。


車内に懐かしい曲が流れて思わず口ずさむ。

「うーさん、この曲好きなんですか?」

哀ちゃんが聞いてくる。

「うん、好きだよ。ど世代だからね。高校生くらいのときすごいハマった。」

「選曲どうですか?90年代Jpopメドレー作ってきたんです。」と直樹。忙しいのにマメな男だ。

「この曲は大好きだよ。90年代Jpopならだいたいわかりそうだな。」

「この曲もいいですけど、私高校生のときならあっちのが好きだったな。」

哀ちゃんは他のバンド名をあげる。

「あーそれもかっこいいよね。えっと、一回解散して、再結成したんだっけ?」

あまり詳しくないが、知っている情報を出してみる。

「しました、しました。」

「哀ちゃん、再結成のときライブ行ったよね?」

助手席から髪を揺らしカヨが振り返る。

「行ったよー。最初全然チケット取れなくて、結局追加公演の横アリだけ行けたのー。だからセトリ微妙に違ったけど、それでも超良かったよ。」

哀ちゃんとカヨがいくつか曲名を上げながら盛り上がっている。「ヨコアリ」と「セトリ」の意味がわからなかったが、聞かずにおいた。10歳の差はときどき大きなジェネレーションギャップを感じさせる。

「哀ちゃんの好きなバンドの曲も選曲してきたから、そのうち流れるで。」

「えー直樹、私の好きなバンドの曲なんて知らないでしょ。」哀ちゃんが少しからかうように言う。

「いや、よう知らんから、売り上げ上位のシングル曲しか入ってへんで。」

「直くんのセンス、微妙そう。」とカヨも笑う。

この3人を見ていると、兄と姉妹のように見えて微笑ましい。



高速道路は渋滞もなく、車窓からの風景はどんどん緑が増え、長閑になっていく。

「あ、そうや、哀ちゃん、この前話してた、まわりに白い砂糖のついた鈴カステラ、テレビ局の近くのコンビニに売ってたから買うてきたで。」

「え、本当?やった。あれ最近全然売ってなくて。」

「やろ?そう言ってたから買うてきたよ。カヨ、その僕の、バッグん中、そうそれ開けて。」

カヨが直樹のバッグからビニール袋を取り出し哀ちゃんに渡す。

「はい、哀ちゃん。」

「わー、本当だ。まだ売ってるとこあるんだ、ありがとう!カヨちゃんも食べよ。」

「私はいいよ、朝しっかり食べてきたし。」

「そお?うーさん食べますか?」

丸いカステラのまわりに白い砂糖がまぶされているパッケージ。いかにも甘そうだ。

「いや、私は甘いものはあまり食べないから。哀ちゃん食べな。」

「えーひとりでいいんですか?何か悪いなー。」

言うなり袋を開けて食べ始める。

「あーやっぱり美味しい。直樹ありがとう。」

「また買うてこれるから言うてな。」

「うん。」と言いながら哀ちゃんは真っ青に塗られた爪の先で鈴カステラをつまんでは次々に口に入れていく。「やばい、これ喉につまるわ。」ひとりごとを言ってお茶を飲む。耳あたりまでのショートヘアがさらりとなびいて耳に小さな黒いピアスが見えた。

いつも少し暗い印象の哀ちゃんだが今日は楽し気に見えた。やっぱり室内で暗い小説ばかり書いていないで、ときどき陽の光の下でリフレッシュしたほうが人間、健康的なんだよ、と年上ぶって言いたくなるが、お説教じみるのでやめた。

「哀ちゃん、サービスエリアで昼飯食べるから、鈴カステラそのへんにしとき。」

直樹に言われ「あ、そっか。」と手を止め、鈴カステラをビニール袋に入れてから自分のバッグにしまう哀ちゃんを見て、本当に兄妹のようだなと思った。


直樹が喫煙所のあるサービスエリアを選んで寄ってくれたので助かる。食事よりまず一服、と思って喫煙所へ向かうと、同じくレンタカーで煙草を我慢していた哀ちゃんもついてきた。

風があってなかなかライターがつかず苦戦していると、哀ちゃんが煙草をくわえたままジッポーを差し出してくれた。「ありがとう。」と受け取ろうとすると「つけますよ。」というのでつけてもらう。

ボォーという音とオイルの匂い。女の子がジッポーとは渋いな、と思って見ると、実写のように精巧な猫の絵が掘られた洒落たジッポーだった。猫の目のところに入ったビーズのような黒い石がきらっと反射する。哀ちゃんのピアスに似ているな、と思った。

一服して「あー生き返るわー。」と言うと

「生き返るってことは、死んでたんですか?」と哀ちゃんに言われた。

「煙草一本で生き返れるなら、いっぺん死んでみるのも悪くないな。」

軽口をたたくと

「煙草一本ごときじゃ生き返れないでしょうね。」と笑われた。

哀ちゃんはゆっくりと煙を吸い込んで、ゆっくり吐きだす。

「哀ちゃん、そのジッポー素敵だね。女の子がジッポーって珍しいなって思ったけど、そんなかわいいデザインのもあるんだね。」

「あ、これ。直樹にもらったんです。私の小説が、ある賞にノミネートされたときに、お祝いにプレゼントしてくれたんです。結局賞は受賞できなかったんですけど、ノミネートされただけですごいよって言ってくれて。これ、かわいいですよね。」

「あいつは本当に優しくてマメな男だね。」

だから小説も、テレビでも、人気があるのだろう。

煙草の煙越し、午後の日差しの中を人々が行き交う。天気もよく気持ちがいい。

「そういえば、直樹はテレビもけっこう出てたりするのに、こんなに人の多いところにいて大丈夫なのか?」

連休シーズンは過ぎたが、週末のサービスエリアは混んでいる。

「ファンとか寄ってきて、テレビ見てます!!みたいな騒ぎにはならないのか?一応わりと人気のある有名人でしょ?」

「あーそれなら、あの前髪にしていれば全然気付かれないらしいですよ。」と哀ちゃんが指す、少し離れたところにいる直樹の前髪は、目のあたりまで長くサラサラと揺れている。

「テレビ出てるときって、オールバックっていうんですかね、整髪料で前髪がっつり後ろに流してるじゃないですか、こういう感じで。」と哀ちゃんは煙草を持っていないほうの手で自分の前髪をバサっと掻き上げる。

「けどオフの日はああやって前髪おろしてるから、けっこう雰囲気変わって気付かれないらしいですよ。今日は生放送あったはずだから、テレビ局でシャワーでも浴びてきたんですかね。」

言われてみれば、テレビの直樹はいつも額を出して精悍な印象だが、今の直樹はインドア派の文学青年といった感じだ。

自分のほうを見ていると気付いたのか、直樹は軽く手を振ってきた。哀ちゃんが煙草を持つ手をヒョイっとあげて応える。直樹の隣でカヨはサービスエリアの飲食店の案内を見ているらしい。昼食を考えているのだろう。カヨのピンクのニットはやはり体形の割りに少しぴったりして見えて、ちょっと太って見えてしまうな、と思った。口には絶対出せないが。

うちの妻など、「太ってみえるから膨張色は着ない!」と淡い色を避けている。でも、太って見えることが問題なのではなく、太っていることが問題なのでは?と思うのだが、これは絶対に言わない。女性の地雷を踏まないことが、穏やかに生きるコツなのだ、という発言も、これまた口には出せない。昨今はハラスメント!ハラスメント!と何かと言われがちだが、気を付けていればさほど生きにくくもないと思う。妻とかわいい娘がいて、同僚たちに旅行に誘ってもらえて、私の生活はつくづく平和だ。平和が一番だなーと改めて思いながら煙をきれいな青空へ吐き出す。

「うーさんは煙草を吸ってる姿も健全ですね。」

私の横顔が、頭の中を反映するように平和に見えたのか、哀ちゃんはそんなことを言う。

「どういう意味?」

「煙草吸うのって健康に悪いじゃないですか。でも、うーさんが吸ってると、煙草も健康的なものに見えます。」

「何だかよくわからないけど、褒められてるのかな?」

「すごい褒めてます。ものすごく健全で健康的で、平凡です。」

「おいおい、平凡は褒めてないんじゃないか?健全ってのもよくわからない。哀ちゃんの煙草は健全じゃないの?」

「私はめちゃくちゃ不健全です。」

ふふっと笑うと哀ちゃんは話を勝手に終わらせ、全然違うほうを向いてしまった。

私が平凡というのは、まさにその通りだ。私の人生は今のところ、平凡で平和。おそらく運がいいのだろう。また楽天的な性格も得をしている気がする。世の中には、自分から悩みを探して生きているような人がいる。自分から火の中に飛び込むような生き方をしている人もいる。でも、少し気を付けていれば、人生は平和なのだ。突発的な事故などほとんど起こらない。突発的な何かを起こしそうな人と付き合わない、というのもひとつの大きな鍵だ。ひどく感情的な人や情熱的過ぎる人、自意識が強すぎる人もなるべく避けたほうがいい。あとは女性の地雷に注意すること。普段は穏やかなタイプも、地雷を踏めばたちまち感情が爆発して不穏になるのが女という生き物だ・・・なんて思想も、口に出したら大変だけど。

ひとり苦笑しながら煙草の煙をゆっくり吐き出す。女性の地雷は踏まないに限るが、哀ちゃんの地雷はいまいち掴めないな、と思って哀ちゃんを見ると、哀ちゃんは突然しゃがみこみ「ミミズ」と言った。見るとミミズが乾いたアスファルトの上で体をくねらせていた。

「おい、お前、そんなところにいたら死ぬぞ。自殺志願者か?おい。」

哀ちゃんはミミズに話しかけながら拾った枝を器用に使い、ミミズを植え込みの土の上に放った。



昼食はサービスエリア内のフードコートでおのおの好きなものを頼んだ。私と直樹はラーメン、カヨは蕎麦、哀ちゃんは天丼を食べた。



『目的地に到着しました』

ナビの声とほぼ同時に直樹が「到着でーす。」と車を止める。

「直くん、運転おつかれさま。」カヨが労う。

駐車場を出ると、そこは大きくて立派なリゾートホテルで、思わず建物を見上げた。

「直樹、すごいところだな。」

「うーさん、ここは本館で、実は僕たちが泊まるのは、ここじゃなくて、離れなんです。」

「え!離れなんてあるのか。」

「そうなんです。今チェックインしてくるので、そしたら案内しますね。」

さすがは直樹。以前に小説の取材で使った部屋だと言っていたが、まさか離れとは。

チェックインを済ませた直樹に案内されて、私たちはさらに驚いた。本館から少し歩いたところに広い敷地があり、左右に3棟ずつ木製の建物があった。コテージである。

「わー!素敵!」カヨも声をあげる。

「コテージとは洒落ているな。」

入ると、すぐにでも生活できそうな家具や家電が備えられていて、トイレはもちろん、シャワーもついている。小さなキッチンと、広いリビング、リビングから繋がっている部屋に大きなベッドが2つ、テラスもあり、さらに2階に個室が2つある。

「これはすごいな。」

「うーさん、本館にしなかったのは、ここがお洒落ってのもあるんですけど、本館だと全室禁煙なんです。離れのコテージは喫煙可だったので、こっちにしました。」

それは助かる。さすが直樹。2階の個室を女性陣に譲り、おのおの荷物を運んだ。



本館で夕飯と温泉を堪能し、本館の売店で酒やつまみを買い込みコテージに戻る。

今度はコテージのリビングで酒盛りである。

「夕飯、豪華で美味しかったですね。」

ビール片手にカヨが言う。

「本当にうまかったな。」

私も同感である。私の手には日本酒。つまみはチータラ。

「あれは何のお肉だったの?」

お酒を飲めない哀ちゃんはお茶を飲みながら、昼間直樹にもらった鈴カステラを食べている。

「イノシシだよ。」

直樹はビール。つまみはナッツ。

「イノシシって豚に似てるのに、味全然違うね。」

そう言って哀ちゃんはまた鈴カステラを口に放る。

その話し方を聞く限り、あまり口に合わなかったのかもしれない。直樹もそれがわかっているのか、苦笑しながら哀ちゃんを見ている。

こんな風に年下の連中と温泉を満喫したり酒を飲んだり、楽しい時間を過ごせるのは、貴重なことだなと思う。普段は仕事ばかりで、家族旅行もなかなか行けない。ここのコテージなら娘のまゆが騒いでもまわりに迷惑にならないし、妻も気に入るだろう。家事も育児も任せきりだから、たまには妻孝行しなくては、と改めて思いながら、また一口日本酒を飲んだ。


枕が変わると眠れない、というタイプではないが、珍しくなかなか寝付けなかった。

何度めかの寝返りを打つ。

隣のベッドで直樹はスースーと寝息を立てて眠っている。普段忙しいのに、今日もずっと運転してくれて、疲れたのだろう。



ひたひたと裸足のゆっくりとした足音が聞こえる。カヨか哀ちゃんが起きているようだ。

キッチンの辺りで小さな灯りがついて、消える。

私と同じように眠れないのかな。私は眠気を呼ぶために目を閉じる。

ひたひたと裸足の足音が、ゆっくり近づいてきて、私のすぐ横で止まった。

目を開けると哀ちゃんが屈んで私の顔を覗き込んでいる。

「どうしたの?」

小声で聞く。

「うーさん、起きてます?」

小声が返ってくるから頷く。

「あの、ほんのちょっとだけ、一瞬だけ、失礼します。」

言うや否や、哀ちゃんはするりと私の布団に潜り込んできた。

「ちょ、ちょっと哀ちゃん!?」

何が起こったかわからないほど驚いていたが、小声を維持しなければ直樹を起こしてしまう。

「すみません。すぐに出ていくんで。」

私が戸惑っているうちに、哀ちゃんはすっぽりと私の腕の中におさまった。頬をぴったりと胸に押し当ててじっとしている。行き場をなくした私の両腕は中途半端な距離を保ったまま宙に浮いている。



哀ちゃんの冷たい素足が、私のふくらはぎに触れる。

髪から仄かにシャンプーの匂い。私と家族が使うのとは違う匂い。胸にぴったりと押し当てられた頬の温度。女性特有の甘い体臭。花びらのようないい香りが鼻腔を抜けて脳に伝わり、私は少し思考を奪われる。


ほんの数分だったのか、数秒だったのかわからない。じっとしていた哀ちゃんは「すみませんでした。」と言ってパッと体を離そうとした。その瞬間、私は咄嗟に宙に浮いていた両腕で哀ちゃんを抱きとめた。反射だった。自分でも驚いたが、引きとめられた哀ちゃんはもっと驚いたのか、体をぎゅっと強張らせた。

なぜか潮騒の音が聞こえてくる。
哀ちゃんは空の色を潮騒と言っていたな。触れている体温から潮騒の意味が伝わってきているかのようだ。今ならその意味が少しわかる気がする。哀ちゃんの感情が触れている温度から私の体内に流れ込んでくる。潮騒が溢れこんでくる。

左手でしっかりと哀ちゃんの腰を抱き寄せる。何て頼りない体だ。力をこめて抱きしめたら壊れてしまいそうだ。急に自覚したことのない感情がこみ上げ、いっそ力いっぱい抱きしめてこの細い肋骨を折ってしまいたいような衝動に駆られる。

右手で、うつむく哀ちゃんの顔を正面に向かせ、頬を撫でる。柔らかい。動揺していた瞳はしだいに潤み、私を見つめている。この子はこんなに可愛かったのか。

自分は何をしているのだ。脳内が痺れたような感覚になる。行動に思考が追いついていない。潮騒に導かれ、青く深い海に誘い込まれるようだ。
私は哀ちゃんの瞳を見つめ、柔らかそうな唇にゆっくりと自分の唇を近づける。あと1センチ。目を閉じる。


まさに唇が触れそうになった瞬間、突然哀ちゃんは顔を背け、すばやく布団から飛び出した。深く頭を下げ「すみませんでした。」と小声で言って、ひたひたと速足で去っていった。

遠ざかっていく足音を聞きながら、私は我に返った。
自分がしそうになったことの重大さに今さら気が付いた。突きつけられた拳銃の銃口を、自ら口に含んで、引き金を引こうとしたのだ。いつの間にか額に滲む冷や汗を拭い、ひとり茫然と天井を見つめる。そこには、真っ白い砂浜で、頭から鮮血を流し倒れている自分が見えた。


【哀】

アラーム音で目が覚めた。一応覚めた。

目は覚めたが、体が信じられないほど重い。

そりゃそうだ、と自嘲する。
ロヒプノール2mgで寝付けず、しかも、うーさんのベッドに潜り込んでしまった高揚と、体に残るぬくもりで眠れるはずもなく、追加でもう1錠ずつ、トータルでロヒプノール4mgとメイラックス4mg。すっきり起きられるはずがない。

とりあえず体を起こしてみる。大丈夫。ぐらつきは、さほどひどくない。立ち上がることはできそうだ。

壁に手を置いて支えながら立ってみる。少し立ちくらみはしたが、大丈夫、歩けそうだ。

煙草だけ持って壁をつたいながら階段を下りて洗面所へ行くと、先にカヨちゃんが起きていて、洗顔も終えさっぱりした顔をしていた。着替えも済ませていて、淡いベージュのサマーニットが爽やかだ。

「おはよう、哀ちゃん。」

「おはよ」私の声はひどくしゃがれていた。

「大丈夫?部屋乾燥してたかな?」

「煙草焼けかな」適当に返事をしてしまう。

同じコテージで一晩睡眠をとった同じ女という生き物とは到底思えないほど、カヨちゃんは血色が良く、肌も瞳も潤っていて、私は自分の体質を呪う。どうして同じ女に生まれて、同じ年月過ごしてきて、こうも鮮度が違うのだ。

まあ、仕方ない。年月は同じでも、同じような生き方をしてきたわけではない。鏡の中、むくんでいて顔色は悪く、唇は乾燥して、くまのひどい自分と向き合う。

とりあえず顔を洗って、洗面所に置きっぱなしにしていたオールインワンゲルだけつけて、歯を磨く。また歯ぎしりをしていたらしく、顎が痛い。えずきそうになるのを堪えながらうがいをし、前髪の寝癖を適当に手で直す。

キッチンへ行き、冷蔵庫で冷やしておいたジャスミンティを立ったままがぶ飲みする。睡眠薬の成分を早く排泄するために、なるべく水分を摂らないといけない。



男たち2人はまだ眠っているようだ。背を向けて眠っているうーさんの後頭部が見える。

昨夜のぬくもりがよみがえる。ぎゅっと強く抱いてきたうーさんの大きな手。確かに触れられた頬。好きな男の感触というのは、これほどまでに強烈に残るものなのか。

ぴったりと寄り添った胸は汗の匂いとアルコールの匂い、愛飲しているセブンスターの匂いと、その奥に感じる麝香のような少し甘い官能の匂い。

抱きしめられたときはさすがに動揺した。腰にくっきり手形が残ってしまったんじゃないかと思うほどの温度で、見つめ合ったときは凍っていた私の体を一瞬で溶かした。唇が近づくほどに下腹部がぎゅーっと緊張し、脳内が接触を欲した。

そのとき

「地獄へ道連れか?」

誰かにそう囁かれた。
私は我に返って、うーさんから飛びのいた。

自分の声だったのか、神の声だったのか、悪魔の声だったのか。

とにかく私はうーさんから離れ、逃げるように部屋に戻った。



普段の自分なら絶対にしないであろう昨夜の行動について考えてみる。

私はきっと人生最後になるこの旅行で、何か1つでも、生きてきて良かったと思える出来事が欲しかったのかもしれない。



自宅の冷蔵庫にしまってきた薬液の小瓶を思い浮かべる。

私が直樹から、この旅行に誘われたまさにちょうどそのとき、私はその薬液を飲むところだった。今は何でもインターネットで買える、良くも悪くも便利な時代だ。プチプチの梱包材に包まれて段ボールで届いたときは、あまりに簡単すぎて拍子抜けしたくらいだ。こんなに簡単ならもっと早く買えば良かった。

梱包材を開けると、少しとろみのある液体が茶色の小瓶に入っていた。片目を瞑って瓶を電気に透かしてみる。瓶の茶色に邪魔されて中身の色はわからない。でも、きっときれいな青色だ。

特に大きな決意も感慨もなく、その青色を飲もうとしたとき、携帯電話が鳴ったのだ。着信画面に出た名前が直樹じゃなかったら電話にでなかったかもしれない。でも、何はともあれ、私は青色の薬液は飲まず、こうして旅行に参加している。



旅行は滞りなく楽しんでいたはずだ。私も、人生最後にこんな時間もいいな、と柄にもなく思っていた。
それなのに、このザマだ。こんなに強烈に胸を締め付けられるなんて、やっぱり好きな男にはあまり近づかないほうが安全なのだ。こんなに苦しいのなら、一生触れないほうが良かった。

でも、こんな私の後悔なんてどうでもいい。妻子ある男にあんなことをさせてしまったことを、ちゃんと自分で謝らなくてはならない。


ここでふと気付く。生きてきて良かったと思えることが欲しかった、なんてさっき思ったけれど、そうじゃない。

ただの脱抑制じゃないか。

ロヒプノール2mg飲んで眠れなくて、階下に行って、思わずうーさんのベッドに近づいてしまったのだ。睡眠薬の成分による脱抑制だ。うーさんの行動はアルコールによる脱抑制。それに気付いて、馬鹿らしくなった。

立ったままジャスミンティをまた飲んで煙草に火をつける。メビウス・ボックスの鮮やかな青がいかにも不健康な色に見える。こんなに体も頭も重いのに、ニコチンだけはしっかりと欲する。人の依存というのは意思や健全さに反比例するものだな、と改めて実感する。その証拠に、煙草が不味い。でも吸いたいのだ。依存というのは、恐ろしい反面、従ってさえいればとりあえずは生きていける。それが例え、どんなに耐えがたいほど惨めな時間であっても。

うーさんに初めて会ったのは4年前の夏だった。

私は担当編集者を通じて直樹と知り合っていて、たまに食事をしたりする仲だった。直樹は恋愛小説専門で、私はダークファンタジー専門だから、同業でも戦場が全く違っていて話しやすかったのかもしれない。直樹はすでにテレビの仕事もしていたが「やっぱりテレビの人より小説書く人のほうが話しやすくてええわ。」とか言って、私を食事に誘った。

私はもともと友達が少なく、あまり人と外食をしたりするのが好きではなかったが、直樹は常に一定のプライベートな空間を保ってくれて、ずかずかと踏み込んでこないデリカシーを持っていたから、私も付き合いやすかった。

その日は直樹の担当編集者と私と3人で食事をしていたところに、直樹の元同僚から電話がきたのだ。

「え、今?新宿で食事してますよ。え、これから?」

飲み会に誘われているようだった。私は、もう食事も終えたし、ここで別れて構わなかった。

「え、哀ちゃんのファン?じゃ連れていきますよ。」

どうやら直樹の元同僚に私の小説を読んでくれている人がいるらしかった。だから一緒に行こう、と言われた。私は行きたくなかった。初対面の知らない人が大勢いるところに行ったって私はただの部外者だし、あいにく私は社交性がない。何回も断ったが、「哀ちゃんのファンがおるんやて。」と説得されて、担当編集者と別れ、結局私だけ連れていかれた。

甘辛い煙の立ち込める焼き鳥屋のテーブルへ私たちが行くと「おー!有名人が来た!」と元同僚たちは直樹を囃し立てた。
そこで、私の小説のファンと言ってくれたのがカヨちゃんだった。第一印象は「女子力の高いふんわり系お姉さん」。何もかもが柔らかそうで、にこやかで、穏やかで、さりげなくテーブルの皿を片付けたり、さりげなく誰かのビールを注いだり、包容力のある素敵な女性だった。

私の小説をよく読んでくれているのは本当らしく、「会えて嬉しいです!こんなことなら新刊持って来ればよかった!サインいただくチャンスだったのに!」と喜んでくれていた。

「【夢見る屍と回転木馬】の最後、主人公は眠るような描写がありますけど、あれって死んでしまったってことですか?ファンの間でも意見が分かれているんです!」

「【今すぐ死んで魚になりたい】は、エッセイ風の小説と言われていますが、どこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなんですか?」

記者と話しているようで苦笑したが、実際に読んでくれている読者と直接会って話すのは初めてで新鮮だったし、素直に嬉しかったことを覚えている。

「2人ですっかり話し込んでいるけど、カヨは相当この作家さんのファンなんだね。会えて良かったね。」

途中から話に入ってきたのが、うーさんだった。

穏やかな口調、奥二重のすっきりした顔だち、少し緩めてあるネクタイ。私はとっさに左手を確認した。薬指に結婚指輪。私は、この人の平凡さに惹かれた。

誰にも言わずに、ずっと、ただ密かに想っていた。ときどき直樹に誘われて元同僚との食事に行くと会えた。ただそれだけで良かったんだ。


「哀ちゃん、男性陣、まだ起きなさそうだから、先に朝ご飯行っちゃわない?」

洗面所から出てきたカヨちゃんは、ほとんどすっぴんに近い完璧なナチュラルメイクで(完璧なナチュラルメイクはどんな派手なメイクより難しいことを女なら誰でも知っている)濃いブラウンの髪はきれいに毛先まで巻かれていて弾むように揺れている。さながら美味しそうなシナモンロール。

旅行にヘアアイロンを持参するような発想と朝から髪を巻く手間は、尊敬するしかない。それを、嫌味のない、やりすぎ感のない、ちょうど良い感じに仕上げられるのが、いい女ということだろうか。

初めて会ったあの日から全く変わらず、優しいし面倒見がいいし、穏やかで女として潤っている。きっとカヨちゃんはモテるのだろうな、と思った。

「そうだね、私も一応着替えて、眉毛くらいは描いてくるわ。すぐ済むから、先にご飯行っちゃお。」

煙草をもみ消して、残りのジャスミンティを一気飲みして、私はいったん部屋に戻った。



ホテル本館の朝食バイキング会場でカヨちゃんと朝食を選んでいると、わりとすぐにうーさんと直樹がやってきた。

「おはよ。2人とも早かったんやね。」

直樹は寝起きでもさっぱりした顔をしている。さすが朝の情報番組に出ているだけある。

「いや、私たちも来たばっかりだよ。」とカヨちゃん。

うーさんは全然私と目を合わせない。クラスメイトに告白された翌日の中学生みたい。気まずさを隠せないのだ。子供みたい。

ここはちゃんと私から声をかけて謝らなければいけない。それが、地獄の入り口まで連れて行っておいて突然突き放した、私のけじめだ。

全然食欲はないからリンゴジュースだけでいいんだけれど、私は朝食を迷うふりをしながらウロウロし、直樹とカヨちゃんが席についたことを目視し、コーヒーを注いでいるうーさんに近づいた。食事前に2人になれるのは今しかない。早く済ませるに限る。

「うーさん。」

「あ、哀ちゃん、おはよう。」

少し怯えているように見える。脅されるとでも思っているのだろうか。

「あの、昨日のことなんですけど」

目を合わせてくれない。

「うん、あ、昨日のこと?ごめん、けっこう酔っていてあんまり覚えていないんだけど。」

うーさんが記憶を失くすほど酔っていなかったことは知っているし、そもそもめちゃくちゃ酒強いじゃねえかよ、と言いたいところだが、覚えていないことにしてくれるなら都合がいいかもしれない。

「うーさん、覚えていないんならいいんですけど、私ちょっと失礼なことしちゃって、それだけ謝りたかったんです。すいませんでした。」

「いや、そんな、こっちこそ、なんだかすまなかったね。よく覚えていないんだけど、その・・・」
ようやく私の方を見て
「何もなかったよね?」と聞いてくる。

「はい。何もありませんでした。」

私はちゃんと笑顔を作って断言した。

「そうだよね。何もなかったよね。そう言ってくれると・・・」

助かるよ、という言葉はかろうじて飲み込んだらしい。

「じゃ、昨日のことはこれでおしまいってことで、いいですか?」

「あ、ああ、そうだね。そうしよう。すまなかったね。」

おろおろと謝ってばかりで、うーさんは本当に子供みたい。

私は大人だからこんなこともドライにできる。そう言い聞かせて席へ向かった。



大丈夫。こんなことくらい、大丈夫。

そう思っているのに、小さな棘が霧のように私の心臓を覆って、四方八方からじっくりと包み込んだ。


朝食を終えて離れに戻るとき、朝から水分を多く摂ったおかげでトイレに行きたくなった。離れのコテージに戻る前に本館で済ませておこうと思って「先に戻ってて」と伝えトイレへ行く。

用を足して廊下へ戻るとカヨちゃんがいた。

「あれ、待っててくれたの?ありがと。」

「哀ちゃん、大丈夫?ご飯もあんまり食べてなかったし、気分悪い?」

「え、大丈夫だよ。」

「アレ、来ちゃった?予備持ってきてるけど、必要?」

何を言われているのかわからなかったが、少し考えて、予定外に生理が来たのか、と心配していることに気付いた。女2人で、まわりに人の耳もない廊下で、生理を「アレ」と濁す言い方をするのは、カヨちゃんらしいなと思う。

「違う違う、大丈夫だよ。昨日、みんなお酒飲んでたのに合わせて私がお茶飲みすぎたから、それでトイレが近いだけだよ。ありがとう。」

「そっか。それならいいんだけど。」

「それに、私いつもこの時間起きてることないから、朝ご飯も普段食べないし。」

「そっか。そうだよね。作家さんって夜中から朝まで書いて、朝から寝たりするんでしょ?大変だよね。哀ちゃんも、そんな感じの生活なの?」

「うん、この時間から寝ることの方が多いかも。」

それは事実だ。どうして明るいうちに筆が進まないのかわからないが、昼夜逆転で夜中に小説を書く生活は、作家になってからずっと変わらない。

「作家さんって大変だね。」

カヨちゃんは優しい。

「私なんて全然マシだよ。直樹なんて、テレビも出てコラムも書いて連載も書いてるのに、私より単行本出すの早いって、どういうこと?って思っちゃう。」

「ふふふ、そうだね。直くんはすごいよね。会社で一緒に働いてたときも、人より仕事できるんだけど、無駄な残業とかしないんだよね。それで、働きながら書いた小説で新人賞とってデビューしちゃうんだもん。ほんと尊敬しちゃう。」

懐かしそうに笑うカヨちゃんを見て、私の知らない会社員時代の直樹も真面目で誠実な人だったんだろうな、と思った。


離れのコテージに戻ると、直樹はソファでコーヒーを飲んでいて、うーさんはコーヒーカップを持ってテラスで煙草を吸っていた。

「チェックアウトまで1時間くらいあるから、自由時間でええね?」

直樹に言われて私とカヨちゃんは了承する。

直樹は私たちの分もコーヒーを淹れてくれて、カヨちゃんはそのままソファに座った。私はコーヒーを受け取ると、自分が使っている部屋に戻った。荷物もまとめていないし、何より、少し1人になりたかった。

部屋に戻って1人になった途端、ひどく疲れていることに気が付いた。気持ちも体も疲れているし、眠い。とりあえず、ベッドに横になった。

私の心臓を包み込んでいる細かい棘は鼓動とともに深く刺さって、少しずつ血が滲んでいるようだ。もう痛みなんて感じないと思っていた。とっくに痛覚なんて、なくなったと思っていた。

心臓から滲む私の血は赤いのかな。横になって自分の手を見る。手の甲に浮き出た静脈は青く見える。この青い血管の中を赤い血が流れているとは想像しにくかった。青いほうが、しっくりくる。

心臓を覆う棘から滲む青。メビウス・ボックスみたいな青。私のネイルみたいな青。冷蔵庫に置いてきた薬液みたいな青。

「疲れた」

ふと口に出すと、すっと眠気に攫われた。

頬を撫でる生温かい風、日差し、波の音。気が付くと私は砂浜に立っていた。

黄色やピンクの華やかなヒラヒラした水着を着た子供たちが、波打ち際で燥いでいる。私も仲間に入れて!駆け寄ろうとしたとき、自分は小学1年生の姿で、地味なスクール水着を着ていることに気が付いた。なんで私だけこんな水着なんだろう。

それでも華やかな子供たちと遊びたくて浮輪を持って海に入った。ねえ待って、一緒に遊ぼう。浮輪に捕まりながら急いで泳ぐ。追いかけても追いかけても追いつけない。慌てていて、一瞬浮輪が手から離れたとき、すでに足がつかない深いところまで来ていた。

あっと思ったときには、もう水中にいた。ボコボコっという気泡の音と、遠くで聞こえる子供たちの遊ぶ声。ゆっくり離れていく水面が光って見えた。焦って手足をばたつかせるが水面は遠ざかる一方で、ひたすらもがいて、潮水を飲んでしまって、気持ち悪くて苦しくて怖くて、もう死ぬのかと思ったとき、私を抱き上げてくれたのは見知らぬ海水浴客のおじさんだった。

「お嬢ちゃん大丈夫かい?」
もがきながら波にもまれていた私は、すでに足のつく浅い波打ち際でパニックを起こして溺れていたのだった。立ち上がって咳き込む私に「気を付けるんだよ」と言っておじさんは去っていった。私は浮輪も失くしてしまったし、仕方なく海の家で休んでいた母のところへ行くと、全身砂まみれの私を見た母は「汚っ」と言い舌打ちをしたのだった。

その母の顔が少しずつ別の女の顔に変わっていく。見たくない。知りたくなかった女。砂まみれの私はいつの間にか持っていた拳銃を構えて、その女に銃口を向ける。

「私がやろう」

突然声がして振り向くと、浴衣姿のうーさんがいた。私はうーさんに拳銃を渡す。うーさんはそれを自分のこめかみに突きつけた。

「やめて、うーさん、やめて」

微笑んだままうーさんは引き金を引いた。銃声と自分の叫び声が潮騒に弾ける。



「っ!」

声にならない叫びとともに飛び起きた。静かな室内は暖かな陽が差し、絵本のように長閑だった。夢か。スマートフォンを見ると15分ほど眠っていたらしい。両手で顔を覆って深く息を吐く。

子供のときに溺れたことなんて、もう忘れていた。今更夢に見るなんて。

夢で見た母の顔が、次第に別の女性の顔に変化していた。あれは、うーさんの奥さんだ。もうずいぶん前に一度だけ見せてもらったことのある、あの顔だ。小さな女の子も一緒に写っていた。可愛い感じの人だった。聞いた年齢より少し年上に見えた。人妻。うーさんの奥さん。うーさんの娘の母親。

結婚なんてしたくない。子供なんて産みたくない。ずっとそう思っていた。うーさんの家族の写真を見てもその気持ちは変わらなかった。でも、それ以降、公園やスーパーで子供と一緒にいる母親を見ると、不思議な嫌悪感を覚えるようになった。自分でも何が不快なのかわからなかった。

でも今ならわかる。喉にへばりつくような、飲み込めない泥のように重く張り付く感情。嫉妬。

私は自分のこういうところが心底嫌いだ。そして、私以上に、私みたいな女が嫌いな大人が世の中にはたくさんいることを私は知っていて、そんな状態で私はいったい何のために生きていけばいいのか、やっぱりわからなくなってしまう。

大人になったら傷付かないのだと思っていた。大人になれば大丈夫。そう言い聞かせて、ありとあらゆることに耐えてきた。それなのに、今でも平気で傷付いてしまう。どうしてみんな、涼しい顔して毎日、何にも怖がらずに生きていられるのだろう。傷付きやすいまま大人になってしまった人間は、どうやって今日をやり過ごせばいいのだろう。


ほんの15分で見た夢に感情が翻弄されている。心臓も相変わらず痛いから、とりあえず一服してしっかり現実に戻ってこよう。

私は煙草に火をつけて、すっかり冷めてしまったコーヒーを啜った。



「哀ちゃん、哀ちゃん、青沼、着いたで。」

直樹の声で目が覚めた。

チェックアウトを済ませ、観光地、青沼までの道中、車の中でまた眠ってしまったらしい。何度か起こされたのか、「やっと起きたわ」と言われた。

「ごめん、いつもまだ寝てる時間だから。」

いつもの倍、睡眠薬を飲んだから、とは言えない。

「哀ちゃん、夜型やもんね。」

カヨちゃんとうーさんは既に車を降りて駐車場の周囲を散策しているようだ。カヨちゃんが近付いてきて車内を覗き込み「おはよ」と笑う。

「ごめんね、けっこう待たせたのかな。」

「大丈夫だよ。駐車場だけでも十分自然がきれいだし。」

車から見える景色は確かに自然豊かで、緑と、土と水分を含んだ匂いがした。

意識の覚醒とともにすごい尿意が襲ってくる。朝からあれだけ水分を摂っていれば当然だ。

「ごめん、私トイレ行きたい!」

「なんや、慌ただしいなあ。トイレならそこのお土産屋さんにあったで。」

「ありがとう!みんな先に青沼見に行っててー!」

そう言い残し、私は急いでトイレへ駆け込んだ。



用を足して一息つく。さんざん水分を摂って、排泄し、少しは薬が薄まってきたのか、車で寝かせてもらったのもあって、眠気やふらつきはだいぶ良くなっていた。

「あ、直樹、待っててくれたの?」

トイレを出ると土産店に直樹がいた。

「あぁ、僕もトイレ行きたかったから。それに哀ちゃん方向音痴やから、ひとりにしたらどこか迷子になってしまう。」

「え、私方向音痴じゃないよ。」

「駅の乗り換えとか、苦手やろ?」

「それは苦手だけど、さすがに迷子にはならないって。子供じゃあるまいし。」

「まあ、そうか。それにしても哀ちゃん、朝からトイレばっかりで、腹でも痛いんか?」

「やだ、カヨちゃんにも心配されたわ。大丈夫。昨日みんなのお酒に合わせてお茶飲みすぎただけだよ。」

「ならええけど、なんか食べたものに当たったのかと思って。」

「それならみんな同じもの食べたじゃん。」

「そうやけど。」

私は土産物店でペットボトルの緑茶を1本買って、店を出た。



駐車場から直樹と一緒に青沼の展望デッキへ向かう。

『こちら青沼展望デッキ』と大きな看板が立っており、そのまま歩いて行こうとすると、すぐ脇道にもうひとつ『展望デッキ』という小さな看板を見つけた。

「なんか、こっちも展望デッキって書いてあるよ。」

「ほんまや。行ってみようか。」

私は直樹と、森林の中に続く細い道へ入っていった。



木々の合間を抜けると、誰もいない狭い展望デッキがあり、突然目の前に大きな青い沼が現われた。突然現れたその美しさは圧倒的で、直樹も私もしばらく無言で青沼を見つめた。

沼というより湖というような大きさで、森林の深い緑に囲まれた水面はタンザナイトのような青。太陽を浴びて反射する光はベニトアイトのメタリックな光沢。流動する鉱物のように、煌めきがくっきりと輪郭を持って輝いていた。

右前方の岸に広い展望デッキが見えた。うーさんとカヨちゃんはあそこから見ているのだろうか。

「すごいきれいね。」私はようやく言葉を発する。

「ほんま。びっくりしたわ。」

「すごい好きな色。きれいな青ね。タンザナイトみたい。」

「タンザナイトって宝石やったっけ。」

しばらく沼を見つめる直樹。
「哀ちゃんのマニキュアの色にも似てるな。」

そう言うと直樹は遠慮がちに私の手をとって、青く塗られた指先をすっと撫でた。

「こういうの、ネイルのお店でやってもらうん?」

「うーうん、私はセルフだよ。」

濃いメタリックブルー。爪の先だけゴールドのラメを少し塗った。

「自分でやるの?上手やね。」

「そうでもないよ。」

私は直樹の温かい右手が触れている左手を、ゆっくり引っ込めた。

「私の中の青い色が満タンになって、爪から滲み出てきたみたい。」

直樹の手は温かく、私は心臓の痛みを思い出し、つい本音が口をつく。

「何それ。どういうこと?」

「わかんない。でも、なんか、自分の中って青い気がするの。どんどん青色だけ溜まっていっちゃって、そのせいで他の色は全部外に追い出されて、何もかも青色に侵食されるの。」

直樹は少し黙ってから「そっか。どうしたら哀ちゃんの中はいろんな色になるんやろね。」と言った。

「ね。自分でも、わかんない。」

本当にわからない。
私にはわからないことが多すぎる。「わからない」は「怖い」に似ている。私は「わからない」と思うとき、怖いし、悲しくなるのだ。わからないことも全てまとめて、全部愛せたらいいのに。



「ねえ、直樹がこの沼を舞台に小説書くとしたら、どんな話にする?」

私は話を変えたくてそんなことを聞く。

「うーん、そうだな。この沼の主が人間に恋をしてしまう、異世界物のラブストーリーかな。」

「うわー、相変わらずロマンチックだね。」

「沼の主と人間の禁断の恋や。愛してはいけない相手を愛してしまって、最後は悲しい結末かもしれへんな。」

さーっと風が過ぎて沼の水面を微かに揺らす。ベニトアイトの光沢が煌めく。

「そうだね。愛してはいけない人を愛するのは、最初も途中も最後も、ずっと悲しいもんね。」

私は沼の色を見つめる。直樹みたいな人を好きになっていたら、幸せになっていたのかなと、ふと思う。優しい時間、優しい空間、優しい月日。

私は沼を見つめる。また私の中に青色が溜まっていく。直樹はきっと私を見ている。この人は本当に優しいから、私はつい自分の本音を漏らしてしまう。踏み込んでこないのをわかっているから。追及してこないことを知っているから。

「哀ちゃんなら、どんな小説にする?」

直樹は優しい声で話を続ける。

「私なら、死体浮かべる。」

「哀ちゃんらしいわー」と笑う直樹。「オフィーリアみたいに?それならちょっときれいかもな。」

「いや、犬神家みたいに。」

直樹はぷっと吹き出す。

「あれ、浮かべるって言うか?」

私はようやく真っ青な沼から目を逸らし、直樹の方を見る。よく見るいつもの直樹の笑顔。

「あれは浮かべてるんやなくて、突き刺さってるって感じやろ。」

「ふふ、確かに。」私も笑う。

こんなに優しい友人がいて、カヨちゃんもいて、目の前にはこんなに美しい沼があって、きっと世界は素晴らしいのだろうけれど、この旅行から帰ったら私はやっぱりあの薬液を飲むのだろう、と思う。

もうどうしようもないほどに、私の青色リミッターは、とうに限界を越えているのだ。


《後編へつづく》

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