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小説:三毛猫博士のお屋敷【4316文字】

過去作の再掲です。

 

 アールグレイの香りが華やいで、私の朝は始まる。
 透明のガラス製のティーサーバーに熱湯を注ぐと、乾燥していた茶葉は柔らかくほどけ、回転するように浮遊する。葉は次第に湯を染め、フルーティーに匂い立つ。このティーサーバーは妻が愛用していたものだ。茶葉が十分に蒸されるのを待って、私は気に入りのティーカップに透き通った純正の赤い液体を注ぐ。漂う湯気に微細な朝日が反射する。
 軽やかな香りとほんの少しの苦み。無糖の紅茶を楽しんでいると、玄関のチャイムが鳴った。私は、ティーカップを置いて、寝間着のまま急いでインターホンをとる。

博士はかせ! おはよう。公園に三毛猫いたよ!」

 来訪者は期待通り、近所の少年、コウちゃんだった。

「ありがとう。すぐに行くよ」

 私は飲みかけの紅茶をそのままに、急いで着替えて、猫用おやつとキャリーバッグを持って、玄関に走った。

 コウちゃんは白いTシャツに紺色の短パン姿。五歳の少年だ。虫網を持っているところを見ると、虫取りをしている際、三毛猫を見かけて、私に知らせに来てくれたのだろう。

「博士、早く行かないと逃げちゃうよ!」
「そうだね、急ごう」

 私はコウちゃんと一緒に走って公園へ向かった。夏が始まったばかりの、天気の良い日だった。

 公園には朝早いにも関わらず、たくさんの子供たちが遊んでおり、その保護者らしい大人たちがベンチを中心に集まって、お喋りをしている。ほとんどが女性で、三十代から四十代といったところか。淡い色のブラウスを着ている人は髪が長く、紺色と白のボーダー柄の人はショートカット、白いTシャツの人は髪を結っている。みな様々な服装や髪形をしているが、どの女性も皆同じように「お母さんたち」という括りの大人たちで、どうにも私には見分けがつきにくい。

「まあ、博士、おはようございます」

 私に話しかけてきたのは、コウちゃんのお母さんだった。コウちゃんのお母さんは、いつも話しかけてくれるので、どうにか顔を覚えている一人だ。

「おはようございます。みなさま、ずいぶん早朝から集まってらっしゃるんですね」

 私が言うと、保護者たちはクスクスと笑った。

「博士、もう十時ですよ。早朝とは言わないですね」

 淡いブラウスの女性が言う。

「そうですよ。私なんてもう朝から、お弁当作って、洗濯機回して、朝ごはん作って、上の子小学校に見送って、洗濯干して、犬の散歩して、それでようやく一段落ついたところなのに、博士ったら起きたばかりですか? ふふ、うらやましいわ」

 ボーダー柄の女性が言う。この人はいつも私の生活をうらやましいという人だ、と思い出した。うらやましいなら家族を私にください、と言いたいのだけれど、おそらくこれは最近知った「忙しい自慢」なのだろうから私は聞き流すことにしている。こういう人の考えることは、私にはよく理解できない。自分を卑下するように見せて自慢する。そんな人がいることなんて、私は幸い、五十歳になるこの年まで、知らずに生きてこられたのだ。

「博士、こっちこっち」

 コウちゃんが鉄棒の向こうから呼んでいる。私は保護者たちに軽く会釈をしてコウちゃんの後を追う。

 鉄棒の向こう、繁みの中に猫がいる。それは、正真正銘、美しい三毛猫だった。毛並みに艶があり、しっぽがきれいにまっすぐだ。私は胸が高鳴る。

「おいで」

 猫用のおやつを出して声をかけると、まったく警戒せずに近付いてきた。そのあまりの警戒心のなさに少し不安がよぎる。

 これはもしかしたら……。
 やっぱり。その美しい三毛猫には首輪がついていた。
 コウちゃんも首輪に気付いたようで「あー、博士ごめんね。どこかの飼い猫ちゃんだね」と、すまなさそうに言った。

「コウちゃん、謝ることなんてないよ。君にはいつも感謝している。この飼い猫ちゃんを見てごらんよ。毛並みは艶々だし、体重も適正。非常に愛されているのがわかるね」

 三毛猫はすっかり懐き、しゃがむ私とコウちゃんの体に、順番に体を擦りよせる。

「それに、首輪を見てごらん。【名前:こは。脱走癖があるので見かけた方はこちらにお電話くださると幸いです】と書いてある。さっそく電話してみよう」

 私は、三毛猫がどこかで飼われている飼い猫であった場合、残念な気持ちと同時に、幸せならそれでいい、という複雑な感情が入り混じる。これは、いつも三毛猫探しを手伝ってくれているコウちゃんにも説明するのは難しい感情なのだけれど、私は、三毛猫が誰かに愛されて過ごしているのならば、その相手は私でなくてもいいと、思っているのだ。

 最初は、なかなかそう思うことは難しかった。見つけた三毛猫は全て、自分が連れて帰らないと気が済まない。そう思っていた時期も長かった。けれど、三毛猫探しを始めてもう十年。私は、どこかで誰かに愛されていさえすれば、それで三毛猫たちは幸せなのだと、わかってきたのだ。

「もしもし、はい。あの、三毛猫のこはちゃんを公園で見つけたのですが……はい。そうです。その公園です。では、お待ちしています」

 電話のあと、すぐに飼い主がやってきた。三毛猫の飼い主は、中年の痩せた女性で、しきりに感謝の言葉を述べながら「こはちゃん、もう脱走しちゃだめよ」と三毛猫を抱き上げ、帰っていった。お香のような匂いのする女性だった。コウちゃんは私を見て、残念そうな顔をしている。

「大丈夫だよ、コウちゃん。こはちゃんは、良い飼い主さんに大事にしてもらっている」
「違うよ。僕が気にしているのは、博士のことだよ」
「え、私かね?」
「そうだよ。博士は、三毛猫がどこかの飼い猫だとわかると、いつも寂しそうにするから」

 子供の観察眼というのは時に恐ろしいと思う。コウちゃんには、自分でも気付いていない私の深層心理まで覗かれているかのようだ。

「そうかい? そりゃ寂しいときもあるよ。でも、うちにはミケたちがいるから」
「でも、まだ本物のミケには会えてないんでしょ? だから、まだ三毛猫探し、しているんでしょ?」

 子供というのは遠慮がなくていいなと思う。大人ならこうはいかない。遠慮して、本当に思っていることを言わない。言えない。大切な人にも、言いたいことが言えないまま、時間だけが過ぎてしまう。

「わからないんだ。本物のミケに、もう会えているのかもしれないし、まだ会えていないのかもしれない。だから、私は一生三毛猫を探しながら生きるんだよ」
「そっか。じゃ、また見つけたら、そっこー博士に知らせるからね!」
「ありがとう。頼りにしているよ」

 コウちゃんは虫網をかついだまま、母親のほうへ走っていった。夏の日は高く、空は無神経に青かった。

 家に帰り、すっかり冷めた紅茶を啜る。薄いティーカップは唇に冷たく、陶器は割れると鋭利になることを思い知る。壊れなければ愛しいものも、壊れてしまえば傷つける。何もかも、全て物事の法則というものは似たようなものなのかもしれないと思うことがある。

 ミケのうちの一匹が「ようやく帰ってきたか、おかえり」と言いたげに、私の足にすり寄ってくる。

「ミケ、今日は家族の増えない日だったようだよ。その分、みんなにおやつを奮発しよう」

 ミケは、ニニっと口を横にして鳴き、私の後についてきた。その声に反応したのか、家中のミケたちが集まってくる。

「はいはい。みんなおやつお待たせね。ごめんね。お留守番ありがとう」

 私は一匹一匹にお礼を言いながら撫で、ミケたちにおやつを与える。順番に、競うようにミケたちは私の元へ寄ってきて、我さきにとおやつを奪っていく。

 私は、三毛猫二十匹と暮らしている。

 私は、近所で「三毛猫博士」と呼ばれている。噂が独り歩きして、都市伝説の類かと思われているところもあるようだが、私は実在している。実在し、実際に三毛猫ばかり二十匹と一緒に暮らしている。ミケたちは全員ミケという名前だけれど、もちろん私は全員の見分けがつく。当たり前のことだ。

 私は十年前に経営していた会社を売り、一生何もせずとも生きていける富を手に入れた。この屋敷も、三毛猫たちと暮らすために相当に広いものを購入した。「博士」と呼ばれているのは、私の仕事が研究職だったためだ。ある研究の成果で特許を取得し、起業した。会社は自分でも戸惑うような勢いで成長し、私は多くの研究成果と財産を手にした。何もかも、うまくいっていた。失うものなどないと思っていた。しかし、そんなわけはないのだ。失うもののない人間など、いないのだ。

 会社が信じられないほど順調なとき、妻が病気になった。命にかかわる難しい病気であった。
 私は、自分の研究の全てを妻の病気の治療に関わるものへ切り替え、もともと行っていた研究は全て部下に任せた。

 しかし、妻は一向に回復せず、妻の病気の治療法も特効薬も、何も見つからぬまま、時間だけが過ぎた。

 妻は、日に日に透き通るように肌が青白くなり、痩せていった。病院の吸い飲みに入っていたのは、食欲のなくなった妻が最後まで飲んでいたアールグレイのアイスティだった。華やかな香りの透明な赤いアイスティを、私は妻の口に少しずつ注いだ。血色の悪い、乾燥した薄い唇で妻はアイスティを啜り、ほんの少しだけ喉を湿らせた。

 妻は、自分がもう長くないと知っていた。そして言ったのだ。

「ねえ、あなた。私生まれ変わったら、三毛猫になる。しっぽがまっすぐで毛艶の良い、きれいな三毛猫になって、あなたに飼ってもらいたい。だから、私が死んだら、きっとちゃんと見つけてね」

 妻が他界してから十年。私は妻を探し続けている。


 我が家のミケたちは、保護施設から引き取った子や、拾った子、どこかのお宅で生まれた子など、さまざまな事情で我が家にやってきた。広い敷地の中、ミケたちは自由に過ごしている。常にミケたちの生活を中心とした私の日々は、とても充実していて、ときどき残酷なほど寂しい。私は三毛猫になった妻に出会えたら、それが妻とわかるだろうか。妻はそそっかしいところがあったから、しっぽがまっすぐな三毛猫と言っていたけれど、曲がっている子に生まれ変わっている可能性もある。だから私は、飼える三毛猫はどんな三毛猫でも譲ってもらった。今いる二十匹の中に、妻がいるのかもしれない。いないのかもしれない。だから、私は全てのミケたちを平等に愛する。妻かもしれないし、妻でないかもしれないミケたち。そうしてこれからも三毛猫に出会ったら、できる限り飼うつもりでいる。今いるミケたちも全員かわいいのだけれど、やっぱり妻に出会ったら、瞬時に妻だとわかるのではないかと今でも期待している、まだ出会えていないだけ。これから妻に出会える。そして、また一緒に暮らせる。そう思いながら、私は今日もミケたちを愛でて生きている。




【おわり】



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