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小説:雪【2073文字】

 雪が空へ舞い上がっていく。鈍色の寒空に吸い込まれていくように、白く積もった雪が、しんしんと音もなく空へ上昇していく。僕はそれを、二人乗りの軽自動車のようなカプセルの中から眺めている。隣では、枝のように細い節くれだった手をカプセルの窓に張りつけて、嬉しそうに目を輝かせている博士がいる。
「鈴木くん、やっと、やっと完成したぞ」
「ええ、そうですね。博士」
「私は、嬉しい」
 雪が空へ上昇する世界を眺めて博士は、涙ぐんでさえいた。
「僕も……嬉しいです」
 ひいやりと冷たいカプセルの中で、僕の声は小さく凍っていくようだった。この研究が、とうとう完成してしまった。それは、僕が望んでいたことでもあった。しかし同時に、一生完成しなければいい、とも思っていた。
「少し町まで行ってみよう」
 博士の声は弾んでいる。博士はカプセルを操縦し、移動した。研究室と自宅をかねているこの場所から人の集まる町まで、可動式のこのカプセルでほんの十五分ほどだ。
 町へ出て通りを見ると、人々はみな後ろ向きに歩いていた。女性の赤い傘に積もっていた雪が傘から離れ空へ昇っていく。大きな雪の塊が歩道から家の屋根へドサッと昇っていく。散歩中の犬が体をぶるぶると震わすと、雪が地面から犬の毛へ飛びついてくる。僕と博士以外の、世界の何もかもが逆行しているのだ。
 
 博士が時間逆行の研究を始めたのは今から三十五年前だった。博士が五十歳のときだ。博士はそれまでやっていた研究を投げ出し、時間逆行の研究にすべてを捧げた。現在、八十五歳を過ぎ、瘦せ衰えた老人となった博士は、いよいよ研究を完成させたのだ。
 
 カプセルを町の一角に停めて景色を眺める僕たちのもとへ、一人の女性が後ろ向きに駆け寄ってくる。そして少し不思議な顔をしてから、肩をすくめた。
「?かすでんなうゅきんけのんなはどんこ、せかは」
 女性がカプセルの窓越しに何か話しかけてくる。しゃべる言葉とともに、白い息が女性の口の中へ吸い込まれていく。
「やはり言葉も通じないな」
 博士は楽し気だ。言葉さえも逆行しているのだ。女性は何事もなかったかのようににこやかにこっちを向いたまま後ろ向きに駆けていく。博士はもう三十五年も自宅兼研究室にこもって研究しているから、この町では変わり者として有名だ。今さら博士が、助手の僕と一緒に不思議なカプセルに入っているからといって、不審がる人はいない。それに、町の人々も知っているのだ。博士が助手たった一人だけ残し、研究室にこもってしまった理由を。
 
 博士の奥さまは、病気でせっていた。若い頃から体が弱い人だった。子供はなく、夫婦二人で生きてきた。奥さまは、博士が何に変えても守りたい人だった。奥さまは愛情のすべてをもって博士の人生を支えていた。
 今日のように寒い冬の日だった。大雪が降って、町全体が静かに冷えていた。博士の奥さまは、細い体をことさら小さくして亡くなった。博士は呆然として、数週間、家から出てこなかった。そして突然にそれまで働いていた研究所を辞め、独自に時間逆行の研究を始めたのだ。
 
「鈴木くん、私はどれほど今日を待ちわびたことか! 君にもさんざん苦労をかけて、感謝しかない」
 逆行する世界を眺めて博士は幸せそうだった。カプセルの中で、博士の息は白く吐き出されていく。カプセルの中の時間だけが、順行している。僕と博士だけが、時間に従って、世界の秩序に従って、カプセルの外と反転して生きている。
 
「時間を逆行させても、奥さまは生き返りません」
 
 僕は、三十五年間そのことを言えずにいた。研究が完成した今も、言葉にできずにただカプセルから外を眺める博士を見つめる。
 カプセルの中にいる間、世界と僕たちの間には時間の逆転が生じている。カプセルから出た瞬間に世界は順行する。それは、世界の時間が逆行しているのではなく、世界から見たカプセル内の僕たちが逆行しているにすぎないのだ。つまり、カプセルの中で三十五年待ったところで、三十五年前に行けるわけではない。世界が逆行していくさまを眺めながら、僕たちは三十五年分、年をとるだけなのだ。そして世界もまた、カプセルから出た瞬間に三十五年分の時間が経っている。このカプセルは、タイムカプセルではない。世界とカプセル内の時間軸を逆転させるだけの装置なのだ。
 そんなことは研究している博士が一番わかっているはずだった。三十五年経てば自分が何歳になっているかも。でも博士は、一縷の望みにかけているのだ。このまま三十五年間カプセルの中で過ごしたとき、最愛の妻が生き返ることを。もう一度、彼女に会えることを。ただひたすら、そのことだけに捧げた研究だったのだ。だから、僕は何も言わない。ただひっそりと、年老いて鄙びた博士の、嬉しそうな背中を見つめる。
 いつか春になったらこの積もった雪が溶けるように、博士の凍ったままの記憶が溶けることはあるのだろうか。博士の埋まらない心の穴がこれ以上拡大しないように、僕はただそばで見届けるしかできない。雪はあいかわらず、静かに空へ上昇している。

【おわり】

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