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掌編小説:砂浜の金魚【3361文字】

 地元に帰るのは1年ぶりだ。東京から電車で2時間。漁業が盛んな港町。久しぶりに降りる駅は、蒸し暑い潮風に干物のような匂いが混じっている。私の故郷の匂い。

 在来線でも2時間で帰れる距離なのに、1年も帰らなかったのには訳がある。別れた男と会いたくなかったからだ。

 去年の4月から東京の職場で働き始めて、私とケンは遠距離恋愛になった。2時間だから遠距離でもないか。中距離恋愛といったところ。2時間で会えるから私に不満はなかった。東京のお洒落なお店に行くことを、ケンも喜んでくれていると思っていた。

 でも、去年の夏の終わり、ちょうど今と同じくらいの季節。私はケンが町のスナックのホステスと付き合っていると知った。



「二股ってこと!?」

 ケンの部屋で私は怒りをぶつけた。

「だって、さなえちゃん会いたいときにすぐ会えないから」
「じゃ、そのホステスと付き合えばいいじゃない」
「マキさんは悪くないんだ。俺が、さなえちゃんとはもう別れたって言ったから」
「マキさんっていうんだ、お相手は。もういいよ。その人と付き合えばいいじゃん。私たちは別れましょう。私はもう東京に帰るから」
「待ってよ、さなえちゃん、そんなこと言わないでよ」

 付き合って3年。初めての喧嘩。

 翌日すぐに私は東京へ戻り、ケンの連絡先は全てブロックに設定した。二股をかけられていたことも頭に来たし、言い訳するのも情けなかったし、全く気付いていなかった自分にも腹が立った。


 そんなわけで、地元には何年も帰らないつもりだったのに、今年の夏の始め、母が転んで手首の骨にひびが入ってしまった、と父から連絡がきた。「入院や手術はせず固定だけで大丈夫」と聞いたが、利き手が使えないとなると不便だろう。家事は全て母に任せきりの父である。やはり気になり、帰省することにした。


「ただいま」

 懐かしい空気。実家特有の匂い。

「さなえー、やっと帰ってきてくれたわー。もう母親が骨折でもしないと実家に顔出さないなんて、ちょっと冷たいんじゃないー?」

 エプロンで手を拭きながら嬉しそうに出迎える母。右手首にはサポーターのようなものが巻いてある。

「大丈夫なの? 痛みは?」
「それがね……もう全然大丈夫なのよ!」

 おほほ、と笑う母。

「え、大丈夫なの?」

 どうやら怪我を理由に娘を帰省させることが目的だったようだ。ひびが入ったのは事実らしいが、ほとんど不自由なく生活できているらしい。

 まぁ、大したことなかったなら、それにこしたことはないか。まんまと騙されたかたちにはなったが、大事に至らなくて一安心だ。

 去年まで生活していた居間でお茶を飲む。

「ケンちゃんにはあれから会ってないの?」

 母にはケンと別れたことは伝えてある。

「会ってないよ。連絡もとってない」
「でしょうね。ケンちゃん、うちにまで来て、さなえさんと連絡をとれませんか! って押しかけてきたのよ。反省してたし、ちょっと不憫になっちゃった」
「まさか、今日来ること言ってないでしょうね?」
「うん。さすがに、さなえが嫌がると思ってね。もう会う気はないの?」
「ないよ。二股かけるなんて最低だよ」
「まあね。それはそうだけど。けど相手の人、何て言ったっけ? ホステスの人」
「マキとかいう人でしょ」
「あーそうそう。あの人はケンちゃんのこと、軽い遊びだったみたいよ。噂で聞いたんだけど、どっかの男とこの町出ていったらしいわよ。噂だけどね」
「ふーん。じゃ、もうこの町にはいないんだ」

 知らなかった。この町の友達とも連絡はとっていなかった。この町の情報は、全て遮断していた。

「じゃ、ケンは二股かけて、2人ともにフラれたわけだ」
「そうなのよ。だから、何かかわいそうになっちゃってね」
「かわいそうなもんか。ざまあみろだよ」
「さなえ、口が悪い」

 たしなめられて肩をすくめた。

 それから、仕事はどうなのかとか、職場に出会いはないのかとか、ちゃんとご飯を食べているのかとか、体調はいいのかとか、母が娘に聞いておきたいだろう話を一通りした。

 父が帰ってきて夕飯を食べた。夕飯の支度も母は全く問題なく普段通りにこなしていた。いつもどおりの日常。これが私の当たり前だった。東京に出てまだ1年ちょっとなのに、不思議な気がした。自分の当たり前が大きく変化している。


 夕飯を終えて、久しぶりに帰ってきたから近所でも歩こうかな、という気分になった。母から聞かれたことと全く同じ質問の数々を父からも受けていたから、答えるのがめんどうになったのもある。

 両親の顔も見たし、母の怪我も大したことなかったし、一泊して明日帰ろう。そんなことを考えながら夜道をひとり歩く。子供の頃いつも遊んでいた海のほうへ向けて。

 夜の港は静かだ。早朝の活気をすっかり忘れた港は、無機質で寡黙だ。港を過ぎて海岸沿いの遊歩道を歩く。このあたりは巨岩が多く、名前のついているものもある。2つ並んでいるから夫婦めおといわ。まっすぐ長いからろうそく岩。一番有名なのは、岩の中央に穴の開いた風鳴かぜなりいわ

 その名のとおり、風が吹くと中央に開いた穴からビュオービュオーと大きな音がするのだ。私は久しぶりに巨岩を眺めながら風鳴岩の方へ歩く。


 そういえば、ケンと喧嘩した日の夜も、この海沿いを歩いたな。1年前なのに、もっと昔に感じる。


 風鳴岩のそばの歩道から階段が出ていて、私は砂浜に降りる。潮風と波の音。サンダルの隙間から触れる砂の感触。懐かしさの奥に、何か一瞬不安がよぎった。

 え、何? 今の気持ち。

 子供の頃から遊んでいる砂浜だ。不安なものは何もない。喧嘩したことばかり思い出していたから、気持ちが尖っているのかな。


 少し風が強くなってきた。風鳴岩から大きな音が響く。

ビュオービュオー

ビュオービュオー

 え、ちょっと待って。何か怖い。風鳴岩の音って、こんなに不気味な音だったっけ。

 子供の頃から聞きなじみのある音が、初めて聞くようによそよそしい。立ち止まって岩を見上げる。妙な胸騒ぎがする。

 やだ、ひとりで夜に出歩いてきたから、心細いんだ。もう帰ろう。階段のほうへ歩き始めたとき

「むこうが本気になっただけ。私は何とも思ってないわ」

 ぞっと鳥肌がたった。誰!?
 まわりを見渡しても誰もいない。空耳? でも聞いたことがある声。

 一瞬脳裏に真っ赤な金魚が浮かんだ。

 え、なんで金魚?

 きらきらと鱗の美しい真っ赤な金魚。ゆらゆらと尾ひれを揺らす香しい金魚。いや、違う。金魚じゃない。きれいな金魚のひれのような、赤いスパンコールのロングドレス。風が吹いてスリットから露わになる白い太腿。



ビュオービュオー



 何この映像。知らない。記憶にない。やだ、なんか怖い。帰りたい。


「私を抱きながらあの人、あなたの名前呼んでたのよ、おかしいわよね」

 真っ赤な口紅を塗った官能的な唇をゆがめて笑う。

 やめて! そんなこと言わないで。



ビュオービュオー



 風鳴岩の音が大きい。怖い。怖い怖い。私はいつそんなことを言われたんだろう。


 私をせせら笑う、見下した目つき。私とケンの3年を台無しにした女。許さない。憎い。

 だめ、思い出しちゃだめ。私は耳をふさいでうずくまる。私の全身が拒絶している。思い出してはいけない。



ビュオービュオー

 風の強い蒸し暑い夜。赤いスパンコールのドレス。真っ赤な口紅。派手な化粧。

ビュオービュオー

 憎い。悔しい。許さない。

ビュオービュオー

 だめ、この記憶は思い出してはいけない。



 耳をふさいでいた手を放し、その両手をじっと見つめる。頭がぼうっとする。記憶の底に何かある。忘れていた何か。今まさに指先でそっと触れれば、すくいあげられそうな記憶。全身が拒絶する。消し去ったはずの、おぞましい記憶。


 だめだ、もう手遅れだ。思い出してしまいそう。



 岩を持った感触、振り下ろす重さ、鈍い音、砂の感触、風鳴岩の風の音。これは。



 私は風鳴岩のふもとにかけより、人目につかない岩陰をのぞく。吹き溜まりになっていて、ペットボトルや流木がたまっている。私はそれら全てどけて、砂を掘った。手で懸命に。



 30センチほど掘ったところで、ひっと息を飲み、手を止めた。

 月光に照らされて金魚のうろこのように美しく光る、砂に埋まった赤いスパンコールドレス。スリットから覗く青白い肌。

 私はあの夜のことを完全に思い出した。この町に帰ってきたくなかった一番の理由も。



ビュオービュオー

 風鳴岩を鳴らす風は、まだ止まない。







《おわり》

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