「価値観の違い」について思うこと

梅雨へ 来ないでください ねこより。

お久しぶりnote。
文章をまとめるのがどうにも得意ではなくて、思っては消えていく自分の考え方をどうにか留めておきたい。

1.「価値観の違い」とは

よく、人間関係が終わる時、うまくいかない時に「価値観の違い」という言葉が使われるのを耳にする。それって当たり前じゃない?
価値観が1から100まで同じ人っていないし、家族であろうと双子であろうと価値観が全く同じであることなんてない。
ましてや、他人同士の関わり合いの中での価値観なんて100のうち半分でも同じだったらめちゃくちゃ気が合っちゃうかもしれない。

難しいのは、価値観がちがうことではなくて、違う価値観同士が出会ったときにどこまで理解できるか、もしくは擦り合わせられるか、あるいは受け入れられるかだと最近特に思う。

違う価値観に対して「共感」することは難しい。
それでも「理解」することは多少可能であると思う。理解もし難いようなことであれば、自分の価値観・経験の範囲内でいくらかその価値観に寄り添ってみる。全くもって分からないものであればとりあえず受け入れる。

わたしは、この「受け入れる」ことだけでも、いやむしろ「受け入れる」ことが1番大事だと思う。これも一つの価値観だけれど。
「受け入れる」って別に、自分の中に招き入れなくても、そばにいなくてもいいとわたしは思う。ただ、「そうなんだ」「あなたはそう思うんだ」と認めることが大事ではないだろうか。
だって人が何を思って何を信じても自由だし。

2.「普通」ということ

「価値観」、もっとライトにすれば「考え方」が違った時に、「普通そんなこと考えないよ」と言われることがある。
わたしは、自分で自分の考え方が大多数の人と違うことに気づいている。でもそれはわたしの中では「普通」。生まれてから今までで、考え方が変わらないから普通なのではない。もちろんわたしにもこの考え方・価値観になったきっかけがあって経験の積み重ねがある。その考え方や価値観をもとに生きているこの時間は「普通」だ。

人に対しても自分に対しても、尺度が主観と同調心理に左右される「普通」という言葉はできるだけ使わないようにしている。
自分のことが「普通である」ということはもちろん、「普通ではない」ということもまた自分の首を知らず知らずのうちに絞めていることがあると、わたしは後から知った。

3.「人と関わる」とは

自分以外の誰かと関わる時、つい自分の中の物差しや知識や経験の範囲内で判断してしまいがちだ。自分自身への戒めも込めて。

誰1人として同じ考え方を持った上で同じ経験をし、同じように感じる人はいないとわたしは思っている。
それって当たり前で、だからこそ社会がまわっている(ちょっとスケールが大きいけど)。それをすべて理解して寄り添わないといけないことはなくて、ただそういう人もいる、こういう考え方もある、と思えるといいなと思う。そこから新しい発見もあるかもしれないし。


これもまた、わたしの1つの価値観に過ぎないのなけれど。

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