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3. 躊躇なく伸ばされる両腕。


《蒼ちゃん、今会議が終わりました!今日は本当にありがとうございました。お話も興味深くて、楽しかったです。例の展覧館、休みの日に行ってみます!》


初めて会った日の昼頃、早速海からLINEが来た。


蒼(あお)。私の名前。偽名。

本名は教えなかった。


私はあの頃、大学院で西洋近代美術を研究していた。

ちょうど学会で研究発表をする、2か月前。

海は私に出会うまで、美術に一切関心がなかった。

展覧会にもほとんど行ったことがなかったし、画家のことも良く知らない。


でも、私が「美術に興味がある」と言えば、目を輝かせて質問攻めにするような、そんな男だった。


《蒼ちゃんが言ってた展覧会、行ってきました!》


その後も展覧会の感想や写真を添えたLINEが送られてくる。海はとことん好奇心旺盛で、私が好きだといったことには金も時間も惜しまず、一緒に楽しもうとした。

たった1度会っただけなのに、仕事とはいえそこまでする海が不思議だった。


海とのLINEのやり取りはすべて削除しているから、私がどんな返事をしていたかは分からない。不思議なことに、海がどんなことを送ってきたかは覚えているのに、自分がどんな感情だったのかはあまり思い出せない。


けど、嘘かも。

嬉しかった、たぶん。


営業だとしても嬉しかったし、また海を指名して会ってみたいと思ってしまった。でもこの時、客とセラピスト以上の関係は決して期待していなかった。

私はまだ強がって、関係が壊れそうなら引き返せると信じていた。


《海さん、7月29日の夜、予約しました。》


ただ抱きしめて話を聞いてほしかった。


海と会うのは2回目。最初の逢瀬から1週間くらいだったと思う。

予約はせず、ラブホテルで待ち合わせた。

半地下への階段を降りようとしたとき、薄いピンク色のシャツの男が横目にうつる。

海。海。…海。


海は軽く手を振って、駆け寄ってくる。

会った瞬間、自分でもどうしようもないくらい心臓が暴れる。

頭に血が上って、耳が熱くなるのを感じた。


平日の昼間だったけれど部屋は満室だった。待合室で少し待機する。


「今日、暑いですね。私汗っかきで。」

『僕、コンビニで飲み物買ってきますよ。蒼ちゃん、ここで待っていて。』


平日の昼下がり、ラブホテルは結構混んでいる。仕事の昼休みに「休憩」する人が意外と多いのだ。日常の隙間、ぎゅうぎゅうに詰め込まれる性愛。

忙しく欲求を満たさないと、もう皆やっていけない。


『おまたせ、どうぞ。』

「ありがとうございます。」

わずかに小指が触れて、私は思わずこれから起こることに期待してしまう。


エレベーターからカップルが出てきて清算している。

夜に比べると、この辺りはとても静かだ。不安になる静けさ。


『蒼ちゃん?ちょうど空いたみたいだから行きましょう。』

私の手をそっと引いてエレベーターに乗りこむ。

綺麗な柔らかい手だが、骨ばった指に男を感じる。


エレベーターの扉が開く。

「1フロアに1部屋なんですね、ここ。」

『そこが好きなんだ、このホテル。』

海は何度も来ているだろう、「このホテル」。



部屋に入って荷物を置くと、海がニコニコしてこちらを見ていた。

「どうしました?」

『これ、蒼ちゃんに!』

ガラスの靴に、赤い薔薇のプリザーブドフラワー。


『綺麗でしょ!気に入ってくれた?!』

海は屈託なく、元気に笑う。


私は、この人を決して好きになってはいけないと分かって涙が出た。

海は、躊躇なく私の腰に両腕を回す。



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