25. 意味なんか、なかった。
尊と2人で外を歩いていると、「海」のお客さんとすれ違うことがある。
常連さんは大抵旦那さんと一緒に歩いていた。尊は「向こうは気づいてなかったよ」と言うが、そうだろうか。この人は大切なことに気づかない。旦那さんは、奥さんが女風を利用するのをどう思うだろう。風俗が必要な時もあるんだ。必ず上手く機能する訳じゃないけど、女風がいくつもの婚姻関係を救っているのも事実だと思う。
婚姻関係といえば、パーティーにも時々、新婚の女が来ることがあった。
『ハルくん、久しぶり~!』
高い声を挙げて、尊に抱きつく女。
彼女の夫は、妻がこの会に参加していることを知っているらしい。そして、その夫も他所で同じことをしているのだと聞いた。彼女の知らない場所で、知らない誰かと。
性的嗜好が変わったもの同士結婚すると、こういうメリットもあるようだ。尊は、似たもの同士となら結婚したい気持ちはあるんだろうか。
そこまで考えて、『ねぇねぇ』とセナちゃんに話かけられる。
ショーツにキャミソール1枚の彼女が、膝に頭を預けて私を見上げる。色素が薄くて、麦わらのような瞳だった。
『これ、知ってる?』
そういって彼女が差し出したのは、小学生くらいの頃に流行ったプロフィール帳だった。名前や趣味、将来の夢や好きな人なんかを記入する欄があって、書いたら持ち主に返すのだ。女の子の中では、必須アイテムだった。
「うわ、なつかしー。私たち世代だよね」
セナちゃんの年齢なんか知らないけど、勝手に同じくらいだと思っている。
『懐かしいよね〜蒼ちゃんも書いてよ』
これは、もう会わなくなると分かっている相手に渡すものじゃない。悲しくなるだけだ。
「1枚ちょーだい」私はすらすらと偽名を書く。彼女も私が嘘しか書かないのを分かっていて渡すんだ。
私が「好きな人はいる?」のNoの欄に丸をつけると、『え~!ほんとに好きな人いないの?!』とかほちゃんが覗き込んでくる。
「好き」なんて言葉は、今更耳の中で居心地悪く響いて、嫌な鳥肌がたった。私は返事をせず、「かほちゃんは、好きな人いるの?」と聞いた。
『もちろんいるよ!』
シンジのことだろうか。違うか。
「かほちゃん、恋してるからそんなに可愛いのかぁ」私は笑って、彼女にキスをする。柔らかい。女の子の柔らかさだ。
自分でも、好きな人がいるのか分からなかった。
《わからない》の欄も必要だと思う。
そっと尊の手元をのぞくと、
「好きな人はいる?」の欄にYes、見慣れないイニシャルが書かれていた。
一体何を期待してんだ、私は。
リビングルームではいつもベートーベンの月光が流れていて、終わりのない夜と絶望と悲しみに満ちていた。今でも聴くと、あの頃の記憶が胸を突いて鼓動が早くなる。
すでに数回戦した後だったが、新婚の女は「ハル」と2人でゲストルームへ消えていた。
私も、好みの人を見つけてそれなりに楽しむように心がけた。可愛い顔立ちの男の子の乳首を開発するのも楽しかったし、白髪混じりの中年男の顔が快楽で歪むのも興奮した。生意気な顔をした女を虐めるのも悦かったし、体を鍛えた大男に組み伏せられるのも堪らなかった。
でもやっぱり、この人とのセックスは盛り上がる。見た目は全然好みじゃないのに、不思議だ。したいセックスがピタリと重なるというのはかなり貴重だと分かる。
『何考えてんの』
シンジが私の顔を窓ガラスに押し付ける。あ、やっぱり素手はいい。道具じゃなく男の腕力だけで服従させられると思うと興奮した。真下には街灯で明るい大通りと、目の前には東京タワーが見える。窓を開けても、高層階にはクラクションやパトカーの音は届かない。ゾッとするほど静かだ。聞こえるのは、永遠に続く月光だけだった。
『蒼ちゃんはさぁ、何のためにここに来んの、』
後ろから鷲掴みにされた首が熱い。腕に込められる力が容赦なくて、嗚咽がする。押しのけようとしても、男の体はビクともしない。
崩れ落ちて床にへたりこむと、シンジが私の中に侵入してくる。彼の首筋に浮き出た血管は、右の鎖骨にあるホクロまで伸びていた。
あぁ、心底ダメに成り果てた私を見てほしい。
いい子じゃない私を見下してほしい。
『もう、ハルくんのためでも、自分のためでもないでしょ』
そう言われると、私は何故か突然笑いが込み上げてくる。
「意味なんか...っ、ないよ。」
私は、掠れてほとんど出ない声を絞り出して笑った。
そうだ、もともと意味なんかなかった。
『生意気だね』
あの時掴まれた腕の熱さ、背中に感じた窓ガラスの冷たさ、常連のタバコの匂い、ベートーベン、腫れた首、嘘ばっかり書いたプロフィール帳。
そういうのに、意味なんてなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?