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いつも通り、低空飛行と

私が会社員だったころの話。
毎年恒例の防災訓練があった。このイベントには部署内の暇な優秀な精鋭が参加することになる。もちろん、優秀な精鋭(そして暇)の私も参加させられることとなった。

同じ部署からもう一人、参加を命じられた人がいた。Hさんである。Hさんは私より五歳ほど年長の男性だった。いつだったか、彼と昼休みにトンカツ屋に行った際、瓶ビールを注文したのには吃驚した。昼休みですよ、と忠告しても聞く耳を持たないのである。

業後にも何度か一緒に酒を飲んだことがあった。
アルコールが入るとことさら自己主張が強くなり誰彼なしに攻撃的になる厄介な人物だった。その様子はマスト期の象のようだった。酒で色々な事件を起こしたらしいが、ここで書くのは伏せておく。

そんな彼を私はだんだん避けるようになった。『徒然草』の第百十七段にて「友とするに悪き者」として「酒を好む人」が挙げられているが、これを「呑んだくれ」ぐらいの意ととると、Hさんはまさに呑んだくれなのだ。

酒を摂取していないときはどうかというと、これもやっぱり自己主張が強く、そのわりに仕事に対する意欲はほとんどゼロに近いように見え、朝に酒を一杯引っ掛けてきてるんじゃないかという様子もある。とにかく自己中心的だった。そういうわけだから、特に協調性を重んずる日本の職場では、浮いている存在で、とうぜん疎まれていた。そんな彼が解雇されないのは会社の七不思議のひとつだ。

なんだかHさんの紹介が長くなってしまった。
防災訓練の話である。
我々二人は避難経路の階段を使ってビルから出ようとしたのだが、Hさんが「エレベーターを使おう」と強く主張するので、仕方なくエレベーターを使った。
防災訓練は、二つのビルの間の共用の中庭のような場所で実施された。鼻水が凍るような冷たいビル風が吹き荒ぶなか、消火器やAEDの使い方を習い、避難時の心構えを聞き、スモークを焚いた簡易トンネルの中をくぐり、三十分ほどで訓練は終わった。

すると、Hさんが「ちょっと喫茶店に行こうよ」と誘ってくるのである。仕事をサボることについては私もやぶさかではない。同時にあまりHさんと行動を共にしたくないという心理が働いたがHさんは有無を言わさぬ悪魔のような笑みを浮かべている。なにか嫌な予感がした。

私はもうアリ地獄にハマっていたのかもしれない。
十分後、なぜか蕎麦屋にいた。そして、Hさんは、もう当たり前のようにビールを飲んでいる。このあと会社に戻らないといけないのにである。しかし、いつもの彼と違ってだいぶダウナーな感じなのだった。

彼は自分の困窮生活をポツリポツリと話しだした。つまり、その左手首に巻いているオメガの腕時計であったり、指や腰に付けているクロムハーツの指輪やチェーン、愛用している高級自転車やApple製品などの毎月の支払いローンが大変なことや、酒代と酒にまつわるあれこれの浪費が彼を困窮に追いやっているというのである。

はっきり言って自業自得だとは思ったが、今にも泣きそうな彼をどうにか励まして、我々は会社へ戻った。私は酒を飲んでないものの、Hさんの飲酒がバレるんじゃないかと少しヒヤヒヤしながら見ていたが、意外とバレていないようだった。つまるところ、彼は普段から奇異な存在なので、少々酔っ払っていても周囲からすれば平常運転なのだった。

その平常運転は、堕ちるギリギリの低空飛行だった。高速で通り過ぎるそよぐ木の葉やうずくまるヒトや石ころを間近に見ながら彼は生きていたのではないか。そして、私はそんな彼を知らずのうちに憧憬の念で眺めていたのではないか。いま思えばそう感じる。



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