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逆転移が患者に与えるものとセラピストの心の傷

最初に言っておきたいのは、私に関わった治療者達を批判できる人間はどこにもいないと言うこと。
私の治療の足跡は私の人生であるし、研鑽を重ねてきた私の治療者達がすでに自分の心の内で決着をつけている問題を他者に問題視されたくはない。
読者自身の精神治療の場で起きる心の揺れに対して、私の感じたことが参考になればと思う。

精神科の診療やカウンセリングの現場で、治療者の自己開示はどうであるのが適切か・・・?という議論が先生達の中でもそれぞれに意見があるらしい事を知った。

私が参考になると感じる先生のご意見によれば「患者の前に臨んでいる身だしなみ、佇まい、言葉遣い・・・ひいては存在そのものがすでに自己開示である」との事。

非常によく分かる。
患者にとったら(陽転中だとなおのこと)臨床中の先生の一挙手一投足が次の面談までの実生活に大きな影響を与えるのは否応ナシだからだ。

治療の方針が精神分析がベースだとおそらくその割合は大きい。
投薬中心とかなら、先生が親しみやすく相談しやすい態度であってくれる方が薬への安心感など、先生のキャラ付けや自己開示の良い効果は大きいのかもしれない。

私自身が分析系の治療で生きてきたので、他のアプローチの先生方が、どのように精神の病巣に触れるのか体感したことがないので分からない。
が、精神の命に関わる部分に安全なアプローチをする者への絶対的な信頼感は他の人間関係で繋ぐことはない。
その点は多かれすくなかれ、精神の治療の現場では例外はないだろう。

その独特の信頼感が、異性としてなのか、母親を投影したものか、患者は混同し続ける。
「ねぇ、そうなんでしょ!?」という問いかけを治療者に投げかけながら治療は進んでいくのだ。

妙な自己開示をしてしまおうものなら(言葉だけではない、それこそ 目線や佇まいに至るまで)、病巣に立てたメスが狂いあらぬ所を傷つけ、患者はどこへ行ってもそこで得た傷を求め続けてしまう。

多分だけど。
これって、患者だけではない。
治療者自身も傷つくし、同じ事を患者に繰り返し続ける危険性があるんじゃないだろうか。

私は私に立てられたメスを覚えているから、先生達の傷らしきものを感じる気がするだけだけど。

心理職の医療器具は先生自身の人格と人生がベースでできている。
それをどんな器具にするかは勉強し続ける事にかかってて、その専門性と姿勢しか自分を守るものなどない。

「忘れられるようなセラピストになりたい」とか言ってるのを聞くと生ぬるくて笑ってしまう。
そんなふうに振る舞えるようになるまでに、多分それだけじゃない研鑽を重ねながら、いっぱい傷つき、自分が裸である事に怯える瞬間が何度あるだろうと・・・
どうか先生達には自分を愛することを臨床の現場の中から学んでほしいと思う。

工場で量産されるように誰かと同じものになるわけではないじゃないんだから・・・




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