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信仰のほどよき温度感

朝ドラ「虎に翼」がおもしろかった。
「法律はそれ自体がきれいな水が湧く源泉。そこに余計な色をつけたり混ぜたりしないように守るのが法律家」
といった寅子の言葉。

これって、宗教の経典でも言えることで、確立された経典を一言一句一切曲げてはいけないという規定がある。
キリスト教だと新旧約聖書。

牧師は聖書解釈がズレないように、聖書を読むために当時の歴史とか神学とか脈々と変遷していった哲学とかめっちゃ色々学んでその上で咀嚼して信徒に教える。

で、信徒は何をするかって言ったら、
神聖な礼拝の空間で、牧師の聖書解釈を聞いて、感動して歌を歌って、自分でも聖書を読んで、日常の苦しみとか悲しみとか喜びとか希望を、祈りながら神様と一緒に歩むって日々を送る。

聖書はしっかり読む方が良い。
それが描かれた背景や、登場人物がどんな思いで苦しんでいたか、そういうことを理解しながら読むと、現代の自分の悩みと通じるものがあったり、それに対して神やイエスさまが何と言ったかとかがすごい助けになったり希望になったりする。
聖書のどこを開いてみても結局神という人格に対して一本の線が見えるように感じられたりもする。
聖書は人間の苦しみや悩みや恐れや弱さも、現実的に描いているので、ちゃんと読めばなかなか良いものだ。
私個人としては聖書はそんな感じで読むのが心地良いんだけれど、これは決して誰でも同じではない。
これが誰にとっても正解とは限らないのだ。
めんどくさいし、何もかもが分かるわけではないし。
神学をしっかりやった人から見たらもっとすごいものが見えるんだろうし。
逆にコンテキスト無視でパラパラめくって目見止まった一節で「神からのメッセージだ!」と感じる人もいる。

前にも書いたけど、キリスト教の宗派は日本だけで200以上ある。
経典や教理をどのように解釈するか、それが生まれた背景や歴史や国の都合や好みによって超様々。
結局、きれいな水の源泉も色がつきまくりつきざるを得ない。
私は、結局それがキリスト教なんだろうなと思って見るようになって、時々キリスト教会は「教会屋さん」と呼ぶ。
人間の集まりだと見たらそれぐらいでちょうど良いときがある。

「義人なんていねぇ!一人もいねぇ!」
って預言者が絶叫してるんだから。

ところで、キリスト教の神髄は「あなたはそのままでいいんだよマジで何も悪くないから」というメッセージ。
「あなたは義人でなくても私はあなたがいいんだよ」と、神が言う物語。

聖書が語る「愛」という言葉には「にもかかわらず」が付随する。

ブサイクにもかかわらず君を愛してる
ヘタレにもかかわらず君を愛してる
勉強できないにもかかわらず君を愛してる
病んでるにもかかわらず君を愛してる
守銭奴にもかかわらず君を愛してる
口ばっかりもかかわらず君を愛してる
性依存にもかかわらず君を愛してる

全部聖書に出てくるエピソード

義人は一人もいない。

私は小4で新旧約聖書を2回は読破してた。
子どもなのに聖書は書き込みと手垢で年季が入っていた。

それだけ読み込んでいても、私にイエス様のごとく隣人となったのはキリスト教信者ではなく、精神科医療の技だった。

一般的に普通のキリスト教はよくできた宗教ではある。
だけど、私の中で絶大であったキリスト教の存在は時にみすぼらしくもなり
時に真実でもあり、時に悪魔の姿にもなりながら今に至る。

「これがキリスト教の源泉だ!」
と、感じる瞬間はそんなにいつでもじゃなくて良いのかも知れない。
自分一人が全てを知ろうとしなくても、ただ「そういう源泉が確かにあるんだな」「それを感じている人が今どこかにいるんだろうな」と、思って生きてれば、結構それでいいのかも知れない。

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